プロローグ
歯を磨いて、制服に袖を通して。高校二年生ももうそろそろ終わりだ。
「いってくる」
「いってらっしゃい」
母と会話とも言えない言葉を交わして、家を出る。来年から受験生だということを考えると頭が痛くなる。
向かいの家もちょうど今から登校するらしく、女の子と目が合った。
「おはよう、如月くん」
「おはよう、桜庭」
彼女は
彼女は、俺のことを知らない。
桜庭が歩く数歩後ろを歩く。桜庭は俺のことを見ないし、だから俺も桜庭は見ない。そうして、一定の距離のまま俺たちは学校へ向かっていた。
ふいに、桜庭は何かをみて立ち止まった。桜庭の視線の先には、木を見上げている女の子。俺も釣られて立ち止まってしまった。
「どうしたの?」
いつの間にか桜庭は女の子に話しかけていて、同じように木を見上げた。
「猫ちゃん」
「えっ?」
「木の上、猫ちゃんがいるの」
「ああ、本当ね。降りられなくなったのかしら」
「助けてあげたいなぁ」
「そう……」
再び木の上を見上げる。白い猫が、確かにそこにいた。
それを確認した桜庭はおもむろに木に足をかけ、そのままゆっくりと木を登ろうとする。
「待て待て待て桜庭」
「……あら、いたのね」
「女子がそういうことすぐにしようとするんじゃない」
「なら、手伝ってくれる?」
「ああ、やるから。だから大人しくしてろ」
そもそも桜庭は運動神経がそれほど良くない。木に登って落ちた、なんてことになれば大怪我をするのは間違いないだろう。
木を登って、猫に手を伸ばす。が、猫はその手を払いのけて木から飛び降りてしまった。
「あ……」
「……ふふっ。降りられなくなっていたわけではないようね」
「そうみたい。ありがと、お兄ちゃんとお姉ちゃん」
「気にしないで」
女の子は満足したのか、俺と桜庭に手を振って走っていった。
木から降りて、猫にはたかれた手を見る。少しだけ傷ができているが、気になるほどのものでもない。
「見せて」
「ああ、大丈夫だ」
「でも、見せて」
「……はいはい」
お人好しだ。他人のために自分の大切なものを投げ捨ててしまえるくらいに、お人好しなのだ。この桜庭雫という少女は。
桜庭の手が、俺の手に触れる。別に特別なものではなかった桜庭の手の温もりが伝わってくる。
「如月くん……?」
「なんでも、ない」
「でも、涙が……そんなに痛かった?」
「違う。違うから、気にしないでくれ」
気づけば涙が頬を伝っていた。
桜庭雫は俺を知らない。だけど、俺は雫を知っている。桜庭雫は、俺の幼馴染みだった。
「今、どうして能力を使わなかったんだ?」
溢れ出る涙をどうにか止めて、質問をしてみる。
「どうしてあなたがそのことを……?」
「それは別に、いいだろ」
「私としては由々しき事態ではあるのだけど……まあ、いいわ」
「それで、なんで使わなかったんだ。桜庭はこういうとき、迷わず大事なものを犠牲にする奴だっただろ」
「そうね……」
考えるような動作。本当に何かを考えているのかは定かでないが。
「誰かと、約束をした気がするの。その人の願いを叶えてからは、能力を使わないって」
「……誰かって?」
「わからない。でも、とても大切な人。いつでも私を守ってくれる人、だと思う」
「そっか」
それが聞けただけでも、十分だった。
雫にはもう、俺との思い出は何も残っていない。きっとそれが『桜庭雫が失った物を取り戻す』という願いの代償なのだろう。
それでも雫は、俺との約束を守ってくれている。大切な人だと言ってくれている。それだけで十分だった。
「こちらからも、質問」
「なんだ?」
「如月くんは、誰?」
誰か。如月聡介だ。それ以外の何者でもない。
一度失くしてしまったものは、もう二度とは戻ってこない。だから、俺はそう答えればよかった。理屈ではそれが正解だとわかっていた。
それなのに、気がつけばまた俺は涙を流していた。
「俺は、如月聡介だよ」
「そうじゃなくて……」
「桜庭雫の幼馴染みの、恋人の、如月聡介だ。誰よりも雫のことを知っている、誰よりも雫のことが好きな男だ。怖いものが苦手で、ホラー映画なんか見たあとは一人で風呂に入るのも無理で。そのくせ夜に出歩きたがる雫と歩くのが好きだったんだよ。あの高台で、なんにもせずにお前と喋ってるのが、好き……だったのに……」
何を言っているのだろう。そんなことを今の雫に伝えたところでなんの意味もない。
そのはずなのに、雫は俺を抱きしめてくれた。
「ごめんなさい、聡介」
「えっ……?」
「きっと私は、あなたのことをそう呼んでいたんでしょう。だって、如月くんなんて呼び方よりこっちの方が、ずっと自然に感じるから」
「そう、だよ……ずっと、もう何年も前から、聡介だった。如月くんなんて、何年前だよ」
「……そう。そうなのね」
大切なもの。雫の命よりも大切なもの。
本当に俺との思い出なんかがそんなものに該当したのかはわからない。それでも、それを大切と思うのかどうかは雫次第だ。そもそも、俺が一番大切なものがなにかと問われれば、間違いなく雫と答えられるだろう。
「ずっと、違和感を感じていたの。そこにあるはずのものがなくて、隣にいるはずの人がいない。そんな違和感」
「そっか」
「やっと、見つけた」
思い出は戻っては来ない。それでも、もう一度雫と共にいられるなら、それでもいい。
だが、そう思っていた俺に対して、雫はある頼みをしてきた。
「それと、ね。ずっと考えていたことがあるの」
「なんだ?」
「その人がどんな願いを私に言ったのか。教えてくれる?」
「……桜庭雫が失った物を取り戻す。それだけだよ」
「そう。なるほど、ね。大切なものたちを私が取り戻す代わりに、私はなによりも大切なものを失った、と」
おかしそうに笑う。しばらく笑って、やがて抱きしめていた俺を離した。
「聡介って、馬鹿なのね」
「は?」
「うまくいけば、こんなことにはならない願いがあったのに。でも、それを叶えてしまった私も馬鹿ね。だから、聡介」
覚悟を決めたような表情で、雫は言った。
「私にもう一度だけ、能力を使わせてくれる? 思い出を、命よりもずっと大切なものを取り戻すために」
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