夏の花火を見た日に
ピンポーン、という音がした。それからすぐに玄関の扉が開けられる。
聞きなれた声が母親と話している。要件はだいたいわかっているから、扉を開けて声の主が部屋に来るのを待つ。
「聡介」
「夏祭りの日だろ」
「そう、覚えてたの。ところで聡介……」
「夏祭りには行きたくないんだよなぁ」
「知ってる。それくらい、ずっと一緒にいるから。でも、もうすぐ花火だから」
「もうすぐか?」
「あそこに、行きたい」
「……はいはい。確かにあそこはよく見えるよ」
あそこというのは、おそらく高台のことだ。ことあるごとにそうやって高台に行こうとする。かくいう俺も、あそこは好きだからつい乗せられてしまうのだが。
「せっかくだから、浴衣を着てくるわ」
「好きだよな」
「えっ?」
「浴衣。去年もそうだった」
「そうだった……かしら?」
「そうだったよ」
そのときだから、よく覚えている。俺と雫の関係がただの仲の良い幼馴染みから恋人に変わったのは、去年の今日だ。だから、今日だって祭りがあることも覚えていた。
それよりも、雫がそのことを忘れていることが少し意外だった。なんだかんだでそういうことが大好きな奴なのに、そんな雫が付き合って一年になることを忘れているとは思っていなかったから。
「私も歳ね」
「早すぎるっての。やめてくれ」
「善処はするけど、忘れていたらその都度あなたが教えて」
「そうするよ」
時間がない、と雫は少し急いで部屋から出ていった。
雫が浴衣を来ている間に、適当にではあるが支度をする。雫のことなので水分とか汗とかの対策には手が回らないだろうから、ペットボトルの水とタオルを準備する。
そうして外に出ると、雫がいた。
「着付け、早いな」
「ええ。じゃあ、行きましょう?」
花火はだいたい三十分後くらいに始まる予定だ。今から向かえば、ちょうど花火が始まるくらいには高台に着くだろう。
「手、繋ぐか」
「いいの?」
「一応、恋人だろ。そういうのもありだ」
「……えっ?」
「ん?」
「恋人って……私と、聡介が?」
「そうだろ」
首を傾げている雫。それでも手は握ってくる。
確かにずっと幼馴染みとしてやってきて、恋人として過ごしたのはたったの一年だ。だけど、忘れられると少し悲しい。雑な告白ではあったかもしれないが、それでも結構勇気は出したのだから。
「……えっと」
「なんだ?」
「つ、付き合っているの、なら……その、ね……そういうことも、するの、よね?」
「そういうこと?」
「だ、だから……その……せ、せっ…………す、とか……」
やはり、話が噛み合わない。
雫の欲が強いことは今になって触れたりしないが、そもそも俺たちはそういうこともしている。一度だけではないし、今更こんなことで恥ずかしそうに顔を赤くされても困る。
「ご、ごめんなさい……なんか、変ね。私」
「花火。急がないと見れなくなるから」
考えるのをやめる。これ以上は疲れるだけだ。今はただ、雫の隣で花火が見られたらそれでいい。
長い階段を上る途中で、頭の上から大きな音がした。花火だ。
「あ……」
「浴衣じゃ歩きづらいだろ。おぶるから」
「いいの?」
「いつものことだろ」
「いつもの……あ、えっと。そうね。じゃあ、お願い」
雫をおぶって階段を上る。ぎゅっと抱きついている雫の顔が熱い。
高台に着いた頃には、もうかなりの数の花火が打ち上げられていた。
「ごめんな、結構急いだんだけど」
「いいの。聡介のせいじゃないわ」
「そう言ってくれると助かる」
並んで、残りの花火が咲くのを見る。
ほんの数回だけ、花火が空に綺麗に咲いた。最後の一つは、鮮やかな桜色だった。
「綺麗だったわね」
「最後の、ちょっと雫みたいだった」
「どういうことよ、それ」
おかしそうに笑う。これでも、雫も綺麗だというのを伝えたつもりだったが、遠回しすぎて伝わらなかったらしい。
「……来年もまた、一緒に見てくれる?」
不安そうに聞いてくる雫に「当然だろ」と答えて、俺はまた雫の手を握って階段を下った。
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