夜明けの黙示録 -NEOLITHIC APOCALYPSE-

旧世代の遺物

夜明けの黙示録 -NEOLITHIC APOCALYPSE-

 紀元前3400年頃、北ヨーロッパ、現スウェーデン────

 人類が原始を脱し、文明を勝ち取った時代である"新石器時代"。その時代は史上初の"夜明けの時代"から始まり、史上初の"黄昏の時代"で終わった。

 その末期、人類が経験した最初の暗黒時代。それは"新石器時代の衰退期"と呼ばれている。

 ──そう、それはまさに『夜明けの黙示録』である。



 ◇  ◇  ◇


 

 ──また、朝が来た。


 明け空から覗く、紅葉みたいな曙光が眩しくて、私はまた夜が明けたことが悟った。

 ──まだ私は生きているらしい。 何の因果か悪運か、少なくとも今日はまだ。

 すっかり冬も去り、果てしなく続く地平線のその彼方まで、新芽が青々と萌え広がっている。立春とやらはとうに過ぎてしまったらしい。

 

「……はぁ、やっぱり誰も起きてないかあ」


 何事もないように鼓膜を揺らす鳥の囀り、牛の嘶き。細かな白雲が浮かぶ瑠璃色の空は、ウルクから届く瑠璃石よりもずっと神々しい。

 まったく、今日は清々しい一日が始まりそうだ。お通夜みたいな静寂が一面に響き渡っていることを気にしなければ。

 私は独り毛皮の布団から起き上がり、凝り固まった身体をゆったりとほぐす。こんな朝には牛の乳を一杯飲むと最高だって、は言っていたような。

 ……もっとも、私としては牛の乳なんてとても人間の飲む物とは思えないけれど。私みたいな農耕の民と違って、彼ら牧畜の民は牛の乳を飲んでも腹を壊さないからだろう。別にそんなもの飲まなくたって生きていけるし、大した問題じゃないと思う。私が今も生きていることがそれを証明している。


「ねぇ、まだ寝てるの」


 なんだか退屈になって、隣で眠っていた男に呟き掛ける。しかし……返事はない。

 ああ、そっか。君はもう──


「……また一人分、仕事が増えたね」


 彼はもう、二度と話すことはないのだろう。

 私やここらの男よりもずっと大柄だった、私と同じ栗毛の若い男。妙な訛りで元気に喋る、牛の凝乳が大好きだった男。

 やけに白くてシミが多かった肌は見る影もなく、手も足も青黒く腫れ上がった姿は、見るからに質の悪い病に侵されていた。

 私は鼻が利かないから分からないけど、この青黒い腫れ物から腐った肉みたいな香りがして、最後には本当に腐り落ちてしまうらしい。

 苦悶に歪み、口を力なく開けたままの死に顔は、まるで呆けているみたいで──。

 

「これで、また私は一人ぼっちだ」


 もう人死にに慣れ過ぎて、私の口からは予想外なほどに無感動な呟きが漏れ出していた。

 ああ──これじゃまるで私は『黒い未亡人』だ。つくづく私は悪運が強いらしい。これで死んだのは七十九人目。そして彼は私の六人目の夫だった。とうとうこの村には私一人だけしかいなくなってしまった。


「……それじゃ、君もあっちの方にお引っ越しか」


 私は大きな彼の──あちこちから膿と血が漏れ出した、青黒く冷え切った身体を──荷物みたいに抱えて歩み出した。

 いつもと同じく、村外れの墓地へと葬り去るために。五人の夫を含む、七十八人もの死者が眠るあの場所に──。



 ◇  ◇  ◇



 思えばその病は、私が生まれた頃にはもうあちらこちらで広がっていたように思う。原因は判らない。突然の激しい熱発、止まらない悪寒、卵みたいな黒い腫れ物。決まってそれは、温かくなってきた頃合いに広がり始めた。

 そして一度広がってしまうと人から人へ、やがてどんな大きな集落も関係なく、まるでウルクで聞いた洪水の伝説みたいに──最後には誰もがその黒い波に攫われてしまうのだ。彼もまたその猛威から逃れようとやってきて、ついぞ逃れられなかった一人だった。

 "神の鉄槌"、"神罰"──呼び方は色々あるけど、とうに死んだ長老が言っていた呼び方は奇妙なほどにしっくりときた覚えがある。ええと、なんだっけ。そうそう、その名も"悪疫"、"流行り病"、"疫病"……いや違う。ああ、これだったか。

 誰に言うでもなく、しかし絞り出すように呟く。

 

 「人はそれをそう呼ぶ。"黒い死"あるいは──」

 

 ──"黒死病"と。


 絞り出した微かな震え声は、瑠璃の明け空に虚しく消えていった。


           

 ◇  ◇  ◇



 ざくり、ざくり。今日も一人、木の鍬で穴を掘る。

 誰もそれを見咎めることも、手伝うこともない。歪に黒ずんだ男を側に、墓穴を掘り続けるみすぼらしい女のことなど。

 この村は、彼を最後に全員死に絶えてしまった。ただ私だけを残して。

 この村は呪われた地だ。どこからか大挙して人がやってきては、数年足らず──酷い時はほんの数か月で廃墟に変わる。いつも何故か、私だけが例外となり続けながら。

 だからこそ私はここを離れるわけにはいかない。風の噂ではここだけじゃなく、どこも同じような有り様だと聞くけれど。

 私は確かに朽ち果てていく世界の中で独り、これからもここで墓を掘り続ける運命なのだろう。やがてこの名も無き墳墓に埋まる、無数の知人たちに会えるその日まで。


「さよなら愛しの"あなた"。短い間だけど楽しかったよ。あちらでも達者にね」


 真っ白な骨と、虫が湧き腐りかけた死体の群れ。その昏い穴にほんの半月の間、夫だった若者を放り込む。こうなっては人も獣も同じ、死者の身体は、皆例外なくただの死骸でしかない。

 六回目にもなる夫の、ちっぽけで惨めったらしい葬儀。今年で私も二十六歳。いい年ではあるが、この年で六回も夫との死別を経験するなんて人間はそうそういないだろう。子供がいなくて幸いだった……まあ、単にその前に皆死んだというだけだけれど。


「あ、こら、人が感傷に浸ってるってのに」


 微風が運ぶ死臭に釣られたのか、瘦せこけた数匹の猫が穴を見つめている。その中に混じる、なんとも不揃いな毛並みの三毛猫に、恰幅の良い茶猫。揃って訝しげに死骸を嗅いでいるが、鼻が曲がったりしないのだろうかと心配になる。


「ほら、これあげるからもうお帰り。君たちの舌に私の夫は合うまいよ」


 取り敢えず手持ちの干し魚と大麦パンを千切り投げ、猫を追い払おうとしてみる。思いのほか私のパンは猫の口に合うらしく、腹を満たした茶猫たちはすやすやと私の足を枕に眠ってしまった。

 ……猫、か。

 埋めかけの穴を余所に、その野良猫という割には整った毛を撫でる。

 どうせここいるのは物言わぬ死者だけだ。なら、ほんの少し戯れていようと咎めは受けないだろう。

 

 ふと、空を見上げてみる。

 そこに明け空の瑠璃色はなく、ただ優しい太陽が在り続けているだけだった。

 耳を澄ましてみれば、出来立ての廃村からもう人の声が。きっとこの"黒い死"から逃れてきたのだ。

 はあ、と大きく息をつく。結局、どこにいっても同じことの繰り返し。夜が明け冬が明け、変わらぬ季節の中で世界はゆっくりと朽ちていく。──青黒い、無数の屍を積み上げながら。

 それでも、人は生きていくというのだから。


「……これはこれはお客人。今葬式を終わらせてしまうから、ちょいとお待ち」


 鋤で穴を埋め、村へ向かう。

 あれは多分、草原からやってきた移民たちか。よくもまあ懲りもせずこんな辺境へとやってくるものだ。あの中にはまた、私を娶ろうなんて物好きが混じっていることだろう。それでもきっと、最後には私が彼らを看取ることになるのだろうけど。

 でもまあ、いつかこの黒い悪夢が終わったとしたら。その時は子供というものを持ってみるのも悪くないのかもしれない。

 その時まで私が生きているかは別として、そう思うだけで心に溜まった膿が抜けていくような気がする。


「初めまして異邦人。君は草原の方からやってきたのかな? 私は夫の葬儀を終えたばかりでね。積もる話はまた後で」


 私と近い年頃の──そして奇しくも夫や私と同じ栗毛の青年は、私を見て溌剌と笑った。

 その心臓に悪い笑顔に、心のどこかにまたわだかまりが芽生える。

 でも──きっと大丈夫。私はこの先も、こうやって何かを縁に生きていける。そうやって世界が続いてきたように。


 朝が去り、夜が去り、時は移ろう。

 どんな昏い夜もいつかは明ける。その夜明け前がどれほどの闇に閉ざされていたとしても。

 今が黄昏時なのか夜明け前なのかは誰にも判らないけれど、次に来る時代はきっと。


「君も、ついて来るのかい?」


 茶猫が高く鳴き、私の足元を掬うばかりについて来る。

 それを見ると、あと少しだけ頑張ってみようと思えた。



 *以下脚注


 ・ペスト 

『黒死病(The black death)』と名高い人畜共通感染症。抗生物質による適切な治療を行わなければ60-90%にも及ぶ死亡率を誇る。

 14世紀以降とりわけ大流行し、二億人にも及ぶ死者を出したと言われている。近年の研究では、この内の肺ペストが新石器時代(紀元前3400頃)における大規模な人口減少に寄与し、当時のヨーロッパ社会に大きな影響を与えた可能性が示唆されている。(作中で描写されているのは肺ペスト及び腺ペスト)

 猫や鼠についたノミ、および肺ペストに感染した哺乳類が感染経路とされており、とりわけ肺ペストはヒトーヒト間の飛沫感染を引き起こすため、極めて短期間の間に広がりやすいという特徴が見られる。

 現代においても散発的感染が発生し、2018年にはモンゴルで山鼠の肝臓を生食した少年の死亡が確認されている。

 このような疫病が猛威を振るうようになったのは、牧畜による人畜の濃厚接触と、農耕による人間の密集、そして交通の発達による貿易の拡大であるとされている。



 1/『新石器時代の衰退期(Neolithic decline)』 ……英語版Wikipedia及びnature(2018年12月6日)参照 

 ……新石器時代の衰退(Neolithic decline)とは、ユーラシア大陸西部の新石器時代の5~6千年前(紀元前3000年頃)に起こった急激な人口減少のこと。新石器時代には人口の多い集落が定期的に作られ、放棄され、再定住されていたが、約5400年前以降、多くの集落が永久に放棄された。 人口減少の原因としては、農業環境の悪化や穀物生産量の減少が挙げられている。 その他の原因としては、人間と共存している動物から感染する伝染病の発生が挙げられる。


 Rascovanら(2019)は、ペストも人口減少の原因になった可能性を示唆している。 それを裏付けるように、現代のスウェーデンで短期間に埋葬された79体の死体が入った墓が発見され、その中からペストの病原体『Yersinia pestis』のユニーク株の断片が発見されたという。 著者らは,この菌株には「肺ペストを引き起こすのに十分なプラスミノゲン活性化遺伝子」が含まれていたと記している。これは,空気感染して人間同士が直接感染する極めて致命的なペストの形態である。


 2011年には中国でも同様の集落が発見された。中国北東部にあるHamin Manghaという遺跡は、約5000年前にさかのぼり、小さな構造物に100体近い遺体が収められていた。これは、村の規模を超えた大規模災害が発生したことを意味している。このような遺跡は、中国東北部では他にも2つ発見されている。苗子口と来家の2カ所でこのような遺跡が発見されているが、考古学者は原因物質について推測していない。


 衰退に先立つ人口増加の条件は、一般的には、紀元前5950年から5550年にかけての急激な人口増加によるものとされている。新石器時代の衰退の後、約4600年前にユーラシア大陸の草原から東欧・中欧への大規模な人類の移動があった。


 結果として、新石器時代における大規模な人口崩壊はポントス・カスピ海草原からの大規模な移民を引き起こし、その移民が青銅器時代以降、インド・ヨーロッパ語族として世界史を大きく揺るがしていくこととなった。


 

 



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