最終話ー02
「……実斐さまの?」
確かに彼は、極上の獲物だという女性のことを悠音と呼んでいた。
それならば ―― この守り袋は彼女がここに落とした物なのか。それとも彼が、その名を記した物を持っていて落としたのか。
千早は紅い鬼が居るはずの楓の木を振り返り、迷ったように視線を揺らす。
返さなければと思う反面、何故か、知らせたくないとも思ってしまった自分の心に驚き、きゅっと胸を押さえた。
「お兄ちゃんの落とし物なの? それじゃあ、返さないとだね」
くいくいと、千早の袖を引くように、童女は小さな右手を差し延べた。その無邪気な眼差しに、はっと我に返ったようにやんわりと微笑んで、千早はそっと、守り袋をその手に渡す。
「お願いできる?」
「うんっ。きっと、喜ぶね」
にこにこにこ。鈴はまるで宝物でも抱くかのように、それを胸元に引き寄せた。そうしてくるりと身を返し、小さな足を懸命に走らせて鬼の場所へと戻っていく。
それを追うように、千早はゆっくりと楓の木に向かった。
「……あの者たち、まだ帰っておらぬのか」
ふと気配を感じて地上に目を向けると、先ほど帰ったはずの二人が再びこちらに向かって来ているのが見えた。
手伝うことは何もないと拒絶したにもかかわらず、童女がどこか嬉しそうな顔で走ってくるのが不思議だった。
「我は、帰れと言うたはずだが」
ふわりと木から降り立って、実斐はいぶかし気に二人を見やる。その鬼の前に捧げるように、童女は持っていた守り袋を誇らしげに見せた。
「お兄ちゃんの落とし物でしょ?」
「 ―― 我のものでは……」
とつぜん差し出されたモノに眉をひそめ、そんなものは知らないと言いかけたところで、実斐はピタリと固まった。
「……悠音?」
童女の小さな手の中にある守り袋から、微かに悠音の気配がするような気がして、実斐は目を見張る。
どうしてこんな小物から悠音を感じられるのかは分からなかったけれど、思わずそれを手に取り、漆黒の瞳に微かな笑みが浮かんだ。
「その守り袋の中に……逢沢悠音と書かれた木札が入っていました」
静かに、千早はその事実を告げる。
守り袋を見つめる紅い鬼の表情はこの上なく優しげで。そして、ひどく愛おしそうに見えた。
「……悠音が、ここに居たということか?」
そんなことがあるはずはないと、実斐は思う。彼女がいるのは千年も先の藤城神社。最後に見たのは、あの日向とかいう宮司が射を行っていたあの場所だ。
それなのに、確かにこの守り袋からは悠音を感じることが出来る。
「これは、どこにあったものだ?」
「あっちの木陰なの」
手の中の守り袋から童女に視線を移すと、子供特有の黒目がちな大きな瞳がにこりと笑った。
「たくさんの落ち葉の下に埋もれていたから、きっと、ずーっと前に落としたのね」
鈴は落とし物を見つけた場所へと鬼をいざなうように、小さな手で実斐の狩衣の右袖を掴んで歩き出す。
「……あまり、引っ張るでない。この袖は取れやすいのでな」
苦笑するように言うと、実斐はひょいと童女を抱き上げた。この子供の短い足で行くのでは時間がかかる。
悠音の気配を持つこの守り袋には、実斐も見覚えがあった。
彼女がいつも持っていた鞄に付いていた物とよく似ている。確かそれは、悠音が「年始に日向から授かったお守り」だと言っていたと思う。
それが何故、ここに在るのかは分からない。
けれども。どんなに意識を集中してみても戻るための
「…………」
童女の導きにしたがってその場所へと向かいながら、自分は何をこんなにも必死になって帰りたいと思っているのかと改めて思う。
今までの自分では有り得ない。人間など、
これまで己が興味を持った娘たちも、所詮はただの気まぐれの相手。
最初は悠音にいちいち付き合うてやったのも、ただの気まぐれのはずだった。
それなのに ―― 今ではあの悠音という少女と共に過ごす時間はひどく楽しく、手放したくないとすら思ってしまう。それでも、今まで攫って閉じ込めるように傍に置いた女たちと何が違うのか分からなかった。
「我の好みからは、外れておるのだがな……」
ぽつりと、実斐は笑った。
元気な姿が愛らしい悠音とは違って、どちらかといえば、いま
それでも脳裏に浮かぶのは、楽しそうに自分を見やる大きな瞳と明るい笑顔。そばに居て欲しいという、いじらしい悠音の声。
「……我は、欲しいものは必ず手に入れる。それだけのことよ」
いくら考えてみたところで、彼女のいる場所に戻るという気持ちは消えることなく、手にした守り袋を見れば胸の奥が暖かさで満ちる。
その表情が愛おしさに笑んでいることを、実斐自身は気付かない。
「お兄ちゃんは、このお守りの人が大好きで、とっても大切なのね」
鈴はそんな穏やかな表情をした紅い鬼に、うふふと笑った。父様が母様を見るときの顔に似ていると、嬉しそうに実斐を見上げる。
「……
童女の忌憚ない言葉に実斐はふんと顔をそむけ、けれどもその目許はほんのりと、紅く染まっているように見えた。
「ここか……」
ふと、足元から悠音の気配がするような気がして、実斐は鈴が「ここ」だと指し示すよりも前に立ち止まった。
他の場所よりも少しだけ低くなったその場所は、かつて水の源泉である湧水だまりがあった場所だと気が付いて、少し不思議な気がした。
童女を腕から降ろしながら、ゆっくりと地面に触れるようにしゃがみこみ、静かに目を閉じる。
その場所からは悠音だけではなく、あの日向とかいう宮司の気配までもが感じられて、いささか腹が立った。
「……ふん。どこまでもいけすかぬ奴よ」
悠音のことを大切に扱うその様子はまるで父子のようではあったけれど、それでもやはり、気安く触れる日向のことが気に食わない。
ましてや自分をからかうように見やるあの澄ました顔は、もっと腹立たしかった。
「まったくもって、血は争えぬ」
よくよく思い出してみれば、日向の方がだいぶ年上ではあるが、顔も自分を封じた禰宜に似ているような気がした。
「実斐さま、何か手掛かりは掴めそうですか?」
足元の落ち葉に触れながら黙り込んでしまった紅い鬼に、千早は静かに訊いてみる。その表情が少し険しくなったのが心配だった。
「気配は感じる。だが、道は感じられぬ」
「そう、なのですか……」
千早は悲しげに小さな
「ふん。気配があるならば、道もどこかで繋がるはず」
ふわりと、紅い髪が風をはらんで宙を舞う。ゆっくりと千早に向けられた闇夜のような漆黒の瞳は、けれども強い眼光を宿していた。
切れ上がるようにあざやかなその笑みは、自信に満ちあふれたいつもの紅い鬼の姿で、その鋭い美しさに思わず見惚れずにはいられない。
「それを、探せば良いだけのこと」
音もなく静かに立ち上がり、実斐は再び天へと視線を巡らせた。
周囲を紅い
もし、悠音が居るはずのあの神苑に帰れるのであれば、この紅葉の中でしか有り得ないと実斐は思う。
藤城神社の神苑は狭くはないけれど、この藤城を統べる己にとってはよく慣れた庭のようなもの。それならば。ただ注意深く道標となるべきものを探せば良いのだと、何故かそう確信できる自分が不思議だった。
「 ―― こんなところに、いらしたのですね」
ふいに、穏やかそうな男の声が風に紛れるようにゆらりと実斐の耳に届く。
落ち葉を踏む小さな足音と、柔らかな衣擦れの音が少し離れた木陰から聞こえて、実斐の美しい眉が不愉快そうに跳ね上がった。
穏やかなのに、どこか揶揄するような響きを含むその声は、実斐の良く聞き知った、けれども二度と聞きたくないと思っていた男のもの。
鋭く険しい視線でそちらを見やると、かさりと落ち葉を踏みしめる乾いた足音がして、木々の合間から人の姿が現れた。
「兄者……」
「伊織さま!?」
ゆらりゆらりと紅い葉たちが降りしきるように落ちてくるその中で、ゆったりと姿を現したのは、厳粛な神職の装いをした、穏やかそうな年若い青年。
日向によく似た雰囲気を持つ、藤城神社の初代にあたる宮司その人だった。
忘れ水に眠る鬼 かざき @kazaki_kazahara
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