最終話『忘れ水に眠る鬼』
最終話ー01
すべてを呑み込むように吹き荒れた突風が嘘のようにおさまり、穏やかに凪いだ風が、紅に染まる木々の葉たちをゆうるりと撫でてゆく。
それを睨むように眺めながら、実斐は僅かに口許を歪めた。
大楓の許に存在していた細い水の流れは既に跡形もなく、ただ少しぬかるんだその地質だけが、今までそこに水が在ったのだということを僅かに示していた。
「……やはり、感じ取れぬか」
目の前に静かに佇む楓の木からは、未だ深き眠りについているだろう"過去の自分"と、それを捕らえる"
悠音によって封印が解き放たれ、そのあとも細い縁で繋がっていた"彼女の居る場所"への道筋など、僅かなりとも残ってはいなかった。
「実斐さま……何か、お手伝いできることはございますか?」
青年の表情を見れば、悠音という少女のいる場所がどれだけ彼にとって大切な場所なのかが静かに、けれども強く伝わってくる。
昨年この鬼の胸を矢で射たときにも増して、申し訳ないことをしてしまったのだと千早は思った。
自分たちのせいで紅い鬼がこの場にとどまることになってしまったのだ。何か手伝うことができるのならば、償いをしたい。
先ほど実斐は『この地で自分に従わぬモノなどない』と豪語したけれど、そう簡単な事ではないというのは、分かりすぎる程に分かっていた。
「罪滅ぼしを……させて頂きたいのです」
千早は懇願するように鬼を見やる。
ちらりとそんな少女を見やり、実斐はわずかに口端をつりあげた。
「ふん。我に手助けは不要と先ほども言うたであろうが。ましてや"罪滅ぼし"など、もっと要らぬわ。そなたらは、早う戻るが良い。あのいけ好かぬ禰宜にでも出て来られては、不愉快なのでな」
この少女の兄。かつて己を封じたあの伊織という
再び封じられることを怖れているわけではない。その、逆なのだ。
封じられた時の己の状況とは正反対に、すべての力が戻っている今の自分には、あの男の"鬼を御する力"など児戯にも等しい。
だからこそ、彼を目の前にしたときに自分がとるであろう行動が、簡単に想像できてしまう。
心の赴くままに八つ裂きにしてやるかもしれない。弄るように殺すかもしれない。それこそが、いつもの"己の行動"だと思う。
自分は、受けた屈辱をそのままにするほど寛大な心の持ち主ではないのだから。
けれども ―― なるべくならば。今は
報復などという些細なことに力を費やすよりも、"あの神苑"に帰るために力を使いたい。
そんな自分自身の思考が不思議でもあり、また当然のことのようでもあり……少し可笑しかった。
「あのね、伊織さまは今は禰宜ではなくて、宮司さまなんだよ」
くいくいと袖を引かれるような感覚と共に幼い声が耳に届き、実斐はふと視線をおろす。
足元で、童女がじっと自分を見上げていた。
「宮司? あいつが?」
「うん」
紅い鬼が問うように見つめてきたので、鈴ははにかむようにその視線を返した。
「弓月神社は燃えちゃったから、新しくこの地に移転して藤城神社と改称になったのだけど、新たに宮司さまを迎えるのではなくて、禰宜でいらした伊織さまが繰り上がったの」
「 ―― それであの日向とかいう男に行き着くわけだな。ふん。面白くもない」
不快そうに口を曲げて、実斐は軽く舌打ちをする。
「え? 日向って?」
「いや。こちらの話だ。そなたらには関わりのないことよ。……とにかく早う帰れ」
繰り返しここから去るように告げると、実斐は鈴を千早の許へと返すように、そっと背を押した。
そうして再び風の流れを見るように、楓の木枝にひょいと跳び上がって天を仰ぐ。
さらさらと、長い髪が木の葉と共にゆるやかに空を舞い、目に見えぬはずの風をあざやかな紅色に映し出す。
静かに佇む紅い鬼の姿が、泣きたくなるほど美しいと千早は思った。
その、彼の羽織る狩衣の右袖からは、ほつれるように糸が靡いているのが見える。
「実斐さま、狩衣のお袖が取れそうです。
いつも身綺麗な鬼には珍しい。このままではすぐに袖は取れてしまうだろうと感じて、千早はやんわりと声をかけた。
その言葉に、ふと実斐は千早を振り返った。
ゆうるりと己の右袖を見やり、ふわりと笑う。
「これは、このままで良い。直すべき者は他に居るのでな」
裁縫が苦手なことを悟られまいと、必死になって繕っていた悠音の姿を思い出し、その漆黒の瞳に楽しそうな彩が浮かぶ。
そのまま視線を天に戻すと、もう他のことは何も知らぬというような表情で、更に高い位置の木枝へと跳び移る。
ひとつひとつ何かを確認するように、実斐の漆黒の瞳が真剣な様子で天をめぐり、紅葉の木々を流れていく。
彼の意識に自分たち二人の存在はすでになく、天を見やる視線の先には"極上の獲物"だという、女性の姿のみが在るのだろうか?
先ほどの実斐の言葉や表情から、あの狩衣の右袖を縫ったのは"悠音"という
この美しい鬼がそれほどまでに望む女性は、自分などが足元にも及ばない。きっと縫い物などもしたことがないような、雅な姫君なのだろう。
「…………」
かつては自身に向けられていた紅い鬼の興味と好意。
それを手酷い仕打ちで断ち切ったのは自分自身であり、羨む資格はないと分かってはいたけれど。やはり少し寂しい気持ちがして、千早はため息をついた。
「千早さま?」
そっと伏せられた巫女姫の長い睫毛が微かに濡れているように見えて、鈴は不思議そうに首をかしげた。
「……ふふ。失ってから気付いても、遅いのですよね。鈴、あなたは、大切なものを見失ってはいけませんよ」
ゆるりと微笑んで、千早は童女の小さな頭を撫でる。
かつては感情なき巫女姫といわれていた彼女は、今ではいろいろな表情を見せるようになったけれども、こんなにも切なげな顔を見たのは初めてだと鈴は思った。
だから、こくんと。真剣な面持ちで頷いた。
ゆっくり自分の”大切なもの"を考えるように目を閉じて、そうして嬉しそうに目を輝かせた。
「なら、私はやっぱり鬼のお兄ちゃんのお手伝いをする!」
邪魔にならないように帰ろうと言う千早の言葉に首を横に振って、鈴は小さな足を実斐のもとへと向ける。
大好きな紅い鬼の、役に立ちたかった。いま大切なのは、それしかないと鈴は思うのだ。
「あれっ?」
実斐のいる楓の木とは反対方向にある小さなくぼみのような場所。その紅い落ち葉たちの隙間が、かすかに光ったような気がした。
「鈴、急にどうしたの?」
向かうはずの実斐の方にではなく、反対側に走り出した童女に、千早は慌てたようについていく。
そのくぼみは、さっきの突風が水を吸い上げてしまう前までは小さな湧水だまりであったようで、少しぬかるんだ地面に紅葉たちが積み重なっていた。
「ここが、光ったのよ」
童女はその場にたどり着くと、着物が汚れるのもいとわず地面に座り込んで、落ち葉を掻くように小さな手を動かした。
「……お守り袋?」
その手に収まるほどの小さな守り袋が、そこにはぽつんと落ちていた。
口を結ぶ紐には透明な珠のようなものがついていて、その珠に陽の光が反射したことで、落ち葉の隙間から光って見えたのかもしれない。
童女は不思議そうに千早にそれを手渡した。
「どなたの物かしら」
受け取った千早は、いちど頭上に押し頂くように礼をしてから、守り袋らしきその口を静かに開く。
中から出てきたのは、名入れのされた小さな木札だった。
その木札が、どこぞの宮司によって真摯に祈祷された神聖なものだというのは、巫女である千早にも分かる。
「……
その木札には墨書の草書体で、そう記されていた。
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