第9話ー04

「 ―― 悠音ちゃん。大丈夫かい?」

 湧水溜まりでびしょ濡れになった悠音を気遣うように、日向はそっと声をかけた。

 それでなくとも、先ほどから急に外気が冷え込んできたような気もする。このままここにいては悠音が風邪を引いてしまいそうで心配だった。

 紅い鬼を封じた禰宜と巫女姫がすべての儀式を終えて立ち去るのを見届けてから、悠音は楓の根元に座りこんだまま、しばらく動こうとはしなかった。

 既にそこには何もなく、はらはらと落ち葉が降りそそいでくるだけだというのに。それでも何かを待つように、じっと、空を舞う紅い葉たちを見つめていた。

「悠音ちゃん……」

「……うん。もう、大丈夫だよ」

 もう一度呼びかけられて、悠音はにこりと笑った。

 心配そうに自分を見おろしている日向の視線と目が合うと、ゆっくり立ち上がる。

「ちょっとね、いろいろ考えちゃっただけ」

 言いながら悠音は天を仰いだ。

 ここに来た時は、真闇につつまれた夜空だったその景色が、ゆるやかに白んでいくのが見える。

 もうすぐ朝が来るのだということは、時計などなくても分かった。


「少し空が明るくなってきたみたい」

「ああ。本当だ。そろそろ夜明けだね」

 日向は東の空を見上げながら応えると、ふと何かに気付いたように、穏やかに微笑んだ。

「……もしかすると神苑に帰れるかもしれないよ、悠音ちゃん」

 自分たちが在るべき場所とは"異なる時代の神苑"にやってきてしまった時、まだ空は深い闇に包まれた夜だった。

 けれどもそのきっかけは、実斐がとけるように消えた、まるで夜明けを先取りするかのような眩い光を見たあとだ。

 だからこそ、暁光に自分たちが追いついた今、元の場所に戻れるのではないかと日向は思った。

 確かな兆しなどはないけれど、自分自身の"勘"というものを、日向は信じている。

 実斐に言わせれば『腐ってもあの男の血筋』と言うところだろう。

「そっか……」

 一瞬だけ、悠音は苦しそうに頬を歪めた。

 光の中に消えてしまった実斐を探すことも出来ず、手掛かりも得られず、ただこのまま帰るのが切なかった。

 けれどもふと、風にゆらゆらと舞う紅い楓の葉を眺めて小さな吐息をもらす。

 初めて実斐に会った時のこと。そして二度目に再会した時のことを、悠音はぼんやりと思い出していた。


「それじゃあ……私は実斐さんが"藤城神社の神苑"に戻ってくるのを待とうかな。ほら、はぐれた時ってお互いが動き回るよりも、どっちかが動かないでいるほうが会える確率が高いでしょう?」

 何かを吹っ切るように小さく笑って、悠音は楓の木を見上げた。

 自分が訳も分からず闇雲に探し回るよりも、いろいろな"気"に敏い実斐が自分の所に来るほうが確実だと思うのだ。

 実際に、封じられていた檻から解放されて一度は千年前に戻った実斐が、そうして悠音の時代ところに来てくれたからこそ、"今の自分たち"があるのだから。

「そうだね」

 ぽんぽんと、日向は軽く少女の髪を撫でる。

 紅い鬼が自分を探してくれるはずだと信じて疑わないその言葉と、強い信頼の眼差しに、日向は小さな溜息をついた。

 幼馴染みの一人娘である悠音のことは、日向も自分の娘のように可愛がってきた。その少女が、鬼と共に在ることを望むのは正直言えばかなり複雑な心境だ。

 けれども ―― 悠音がそれで幸せなら仕方がないし、見守ってやりたいとも思う。

 引き離して悠音が哀しむよりは、鬼と一緒でも笑っていてくれたほうが良い。

 こんな悠音を見てしまえば、そう割り切るしかなかった。


「わぁっ。すっごい朝陽。やっぱり空気が澄んでるからなのかな。綺麗だねー」

 塞ぎがちな気分を一気に高揚させるように、ゆっくり昇り始めた朝陽を一身に浴びて、悠音は思い切り伸びをする。

 そうして手で庇をつくって太陽を見やると、朱金の陽射しが放射するように天空を彩っていくのが見えた。

「……あっ」

 不意に。白く眩い陽光が霞みのように周囲を包みこむ。あまりの眩しさに、一瞬何も見えなくなった。

 その眩しさがゆるやかに収まって、ゆっくりと悠音が目を開けてみると、周囲からは紅い色が消え去っていた。

 美しい紅葉たちが嘘のようになくなって、どこか寂しい冬色に染まる神苑が、そこにはただ静かに、厳かに存在している。

 それは丁度、あのとき実斐の姿が消えてなくなったのとほぼ同じ状況だった。

「本当に……藤城神社に戻ったの?」

 悠音の茫然とした言葉に、日向はぐるりと周囲の景色を見渡した。

 そこは自分が良く見知った藤城神社の神苑だ。肌に感じる風もどこか懐かしく、先程までの馴染みのない"時代"のものではなかった。

「そうみたいだね。ここは僕たちのよく知っている神苑だよ」

 日向は苦笑するように悠音を見やる。

 先ほど予想した通り、唐突に迷い込んだ"過去の神苑"は、朝陽がのぼると同時にまた突然に掻き消えて、もとの神苑へと舞い戻っていた。

 まるで夜明け前のひと時に見た、淡い夢であったかのように。

 さっきあれだけ近くで騒いでいた自分たちの存在は、実斐にはもちろん、弓月神社の禰宜や巫女にも見えていないようだった。

 結局自分たちは本当に過去に迷い込んだわけではなく、御神木であるこの大楓が見せたゆめの中を彷徨っていただけなのかもしれない。

「でも……やっぱり実斐さんは居ないもの」

 すべてが夢だったならどれだけ良かったことかと悠音は思う。

 けれども夢じゃないから、実斐はここに居ないのだ。そして、自分のスカートも靴もひんやりと濡れているのだ ―― 。

 しゃがみこむように濡れた靴に触れながら、悠音は寂しそうに笑った。


「 ―― そうだ。悠音ちゃんは"楓の花言葉"って知っているかい?」

「……楓に花言葉があるの?」

 日向の不意な問いかけに、悠音はきょとんと目を丸くした。

 花言葉といえば、バラとかチューリップとか、そういう花の印象しかない。

 そんな悠音の返答に軽く片目を閉じると、日向はそっと彼女の髪に手を伸ばし、何かを摘みあげるような仕草をした。

「うん。あるんだよ」

 取り上げたのは、しゃがみこんだ悠音の髪の毛にくっついていた紅い葉だった。

 今の季節にはあるはずのない、楓の紅葉。それを楽しそうに振って見せながら、日向は優しく目を細める。

「楓の花言葉はね、『約束』だよ」

「やく……そく……?」

「そう。約束。悠音ちゃん。君と実斐くんとの間には、いつも楓の木が存在しているみたいだね」

 にっこりと穏やかに。壮年の神職は微笑んでみせる。

 楓にはいくつかの花ことばがあるけれど、その中で、この花言葉が一番ふさわしいと日向は思った。

 自分からは探しにいけない実斐を『待つ』と決めた悠音への、激励の言葉。

 行動を起こすよりもただということの方が、その心の負担は大きいはずだった。

「だから、きっと悠音ちゃんはまた実斐くんに逢えるよ。この楓の許でね」

 くしゃりと、悠音は泣き笑いのような表情になった。つのる不安を必死に打ち消そうとしていた自分の心がいま、一番欲しかった言葉だった。

「うん。私もそう思う。ありがと……日向おじさん」

 日向の言葉に元気をもらえたように、悠音はぴょこんと立ち上がる。

「……実斐さんが戻ってきたら、心配させた罰として、お願いを一個きいてもらうんだっ」

「うん? どんなお願いなんだい?」

「へへ。内緒」

 少し照れたように、悠音は笑う。

「そうか。まあ、一個と言わず、あんな鬼にはいっぱい罰を与えてやりなさい」

 くすくすと笑って、日向は悠音の頭を軽く撫でる。そうしてどこか笑うような凄むような複雑な眼差しで、冬枯れの楓を見やった。


(もしこのまま帰って来ないつもりなら、藤城神社の宮司の威信にかけて、君がどんな場所に居ようと探しだして退治するからね、紅鬼くん。それが嫌ならさっさと悠音ちゃんのトコに来るんだよ)

 ここには居ない実斐を挑発するように、心の中で日向はそっと呟いてみる。

 刹那、冬の早朝の冷たい陽射しに包まれた神苑を、ざあぁっと一陣の風が流れて行った。

 ―― そなたごときに言われずとも、戻るに決まっておろう。余計な口を挟むでないわ。愚か者め。

 まるで、拗ねた実斐がそう反論しているかのようだった。

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