第9話ー03
「やっぱり、ここは鬼が封じられた時代だったんだね……」
日向は蒼褪めた悠音を支えるよう肩に手を添えながら呟いた。
庵の中に居る少女と先ほどの神職の青年が話していた内容から、紅い鬼がもうじき封じられるのだろうと日向は悟っていた。
まさか、今すぐ悠音の目の前でそれが起きるとまでは考えていなかったけれど。
「あんなの……ひどいよ」
悠音はくしゃりと泣き出しそうに頬を歪めた。
巫女姫に向けられていた実斐の優しさを利用して、その厚意さえも踏み躙り、あげくは『存在自体が罪』などと言われては、実斐の立つ瀬がない。
「私……実斐さんを追いかけてくるっ!」
「は、悠音ちゃん!? 歴史を変えることは許されないんだよ!?」
慌てたような日向の声にも振り向かず、悠音は身を翻すように、先ほど実斐が消えて行った木々の中へと走りだした。
どのくらい森の中を探しただろうか? 不意に、何かが葉を踏みしめるような音が聞こえた気がして、悠音は立ち止まった。
「実斐さん?」
声をかけてみても応えはない。だから、音のもとを探すように、悠音はぐるりと暗闇に染まった木々の間をゆっくりと見回した。
雲が途切れて柔らかに差し込んだ淡い月の光が、美しい紅に染まった木々たちの姿を浮かび上がらせて見える。
何故だかすぐ近くに実斐がいるように思えて、悠音はもう一度その名を呼ぼうと大きく息を吸い込んだ。
「そこにいらっしゃいましたか」
不意に、若い男の声が聞こえた。
ざわざわと、不穏な葉音を奏でるように紅い木々たちが揺れる。その声が自分に掛けられたものではないということは、悠音にもすぐに分かった。
前方に開けた木々の下。自分が知っている大楓よりは細かったけれど、ここにある木々の中では最も大きな楓の下で、実斐と青年が対峙しているのが見えた。
実斐の姿は先ほど庵で見た鬼の姿とは違い、漆黒の髪を揺らめかせ、美しい人間の青年のような……初めて悠音と出逢った時と同じ姿に変わっていた。
「鬼封じの
良く通るその声が風に乗って周囲に響く。
どこか楽しそうにも聴こえる青年のその口調に、悠音はかっと頭に血がのぼった。
歴史を変えてはいけないという日向の言葉が、一瞬だけ脳裏をよぎる。もちろん悠音にもそれは分かっていた。
けれども ―― あんなふうに楽しげに、どこか遊ぶような口調で封じられて。実斐はそのあと千年もの間、たった独りで眠り続けるのだ。
五十年ごとに訪れる自由への希望と、叶えられない絶望とを繰り返しながら。
ここで実斐が封じられるのを助けてしまったら、千年後に自分と会うことはなくなってしまうかもしれない。そう思いはしたけれども。それでも悠音には、目の前の出来事を見過ごすことなど出来なかった。
「待って。実斐さんを封じる必要なんかないよっ!!」
思わず声を上げて、二人の許に駆け寄ろうと一歩を踏み出す。
「……っ!?」
その瞬間、足許ががくんと沈み込んだように思えた。
バランスを崩して悠音が倒れこむと、そこにはひんやりと冷たい水が広がっていた。
暗闇のせいで気が付かなかったけれど、足許には滾々と溢れるように湧水溜まりが出来ており、実斐たちが居る楓の木の方へ小川のように細い流れを作っている。
制服のスカートも靴もびしょ濡れになったけれども、今の悠音にはそんなことを気にしている余裕はなかった。
ただただあの禰宜を止めたくて。水に取られる足を必死に立て直しながら、再び楓の木へ向かおうと立ち上がる。
その ―― 刹那。
震えるような鋭い気が、悠音の頬をかすめるように瞬時に通り過ぎた。
よく、聞き慣れた鋭角的な低い音。感覚。矢が弓弦を放れて閃光のように前へ前へと突き進む音だ。
そして……的にあたった時の硬質な音ではなく、聞き慣れぬ、柔らかいものに刺さるような、鈍い音が響く。
茫然と矢が飛んできた方を振り返ると、先ほど庵に居たはずの美しい巫女姫が、いつのまにか自分の背後にぼんやりと佇んでいた。
矢が弓から離れたばかりと分かる、
「あ……」
慌てて矢の行方を追うように見やり、悠音は大きく目を見開いた。
胸に深く矢を突き立てられた実斐の身体が、力を失ったようにゆるやかに崩れ落ちる様子が、まるでスローモーションのようにゆっくりと見える。
「実斐、さん……」
その姿を映す悠音の瞳には大粒の涙がふくれあがり、ゆるりと零れて足許の水溜りにぽたりぽたりと落ちた。
涙に霞んだ景色の向こうで、ほんの一瞬だけ、倒れゆく実斐の漆黒の眼差しが、こちらを見たような気がした。
けれどもすぐに視界が暗くなり、何も見えなくなった。
「あれは……悠音ちゃんが見るべきものじゃないよ」
広い森の中ようやく追いついてきたらしい日向の大きな手が、悠音の視界をふさいでいた。
だからといって、今その目で見た光景が脳裏から消えるはずもなく、更に追い討ちをかけるように、朗々と響く青年神職の祓い詞が悠音の胸を締め付けた。
日向の手に遮られた視界の向こうでも、何が起きているのか簡単に想像がついてしまうのだ。
「お願い。日向おじさん……あれを止めて! お願い!」
振り払うことのできない日向の腕に、悠音は懇願するように叫ぶ。
こんなに近くで叫んでいるのにも関わらず、鬼を封じる青年には悠音の声も姿も届いていないようで、その声が止むことはなかった。
「落ち着きなさい、悠音ちゃん」
日向は優しく悠音の背を叩きながら、諭すように静かに言葉をかけた。
「大丈夫だよ。悠音ちゃん。彼は永い眠りにつくけれど、死ぬわけではないのだからね。……君が、千年後に彼を目醒めさせてあげるんだろう?」
この藤城に棲むといわれる紅い鬼が、一度はああして弓月神社の禰宜に封じられること。それはもう、歴史上に決定された事項なのだ。変えることは出来ない。否、変えてはいけないことなのだと思う。
だからこそ日向は、それを目撃してしまった悠音に『助けられなかった』という罪悪感を持って欲しくはなかった。
「日向おじさん……」
包みこんでくるような日向の声音に、ほうっと悠音は深い息をつく。上辺だけで言われたなら詭弁だと反論したくなる言葉。
けれども心から自分の為に言ってくれていると分かる。日向の発するひとことひとことが暖かく、心の中で溶けて染みるように全身へと広がるような気がした。
「取り乱しちゃってごめんね。でももう……大丈夫だよ。だから、手を離して」
「でも、悠音ちゃん」
「あのね。私……目を逸らしたくないの。何でだろうね? 自分でもよく分からないんだけど、実斐さんのことはどんなことでも知っておきたいんだ」
にこりと、口許だけで悠音は笑う。
ずっと、実斐が封じられた時のことが気になっていた。
自分を封じた人間の話になると、いつも実斐は複雑な表情をしていた。相手を憎むように。けれどもどこか傷付いたような眼差しを。
だから ―― 自分はその原因が知りたかったのだ。知ったからといって何ができるという訳ではないけれど、実斐のことを理解したかったのだ。
もしかすると自分はそのために"この場所"に来たのかもしれない。忘れ水が、その願いを叶えるために導いてくれたのかもしれないとさえ悠音は思った。
「まいったなぁ……」
そんなふうに言われてしまっては拒否など出来ない。悠音の意志の強さに苦笑しながら、日向はそっと手を放す。
もし彼女の心にとって封印の現場を見ることが重荷となったならば、それを自分や彼女の家族が支えてあげれば良いだろう。
「…………」
悠音が再び視界を取り戻した時、禰宜による鬼封じは既に終盤を迎えていた。
朗々と月夜の森に響く禰宜の言葉とともに、楓の幹にもたれかかるように倒れ込んだ実斐の姿が、風に溶けるように消えてゆく。
けれどもそれが消滅などではなく、閉じられた"あの空間"に封じられて深い眠りに就くのだということを、悠音は知っている。
だから ―― 胸は痛かったけれど。もう涙は出てこなかった。
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