第9話ー02
しばらくそうして待っていると、近くの木の葉がふわりと風にそよぐ気配がして、悠音は逸るようにそちらに目を向ける。
闇夜に映える月明りにも似た銀色の角と、大腿部まで伸びた艶やかな深紅の髪が、悠音の目線の少し先を流れるようにゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。
「……帰ってきたみたいだね」
腰を浮かしかけた悠音を引きとめながら、日向は少女を落ち着かせるようにやんわりと声をかける。
そうして悪戯っぽく片目を閉じてにっこり笑うと、日向は庵の様子が見えそうな位置へとこっそり移動しながら悠音を手招きした。
そんな日向の姿はまるでコソドロのようで、少しおかしかった。
「千早、そなたが弓月神社の宮司を
可笑しそうな笑い含みの声が聞こえて、悠音はきゅっと拳を握り締めた。あれは、間違いなく実斐の声だ。
日向との約束がなかったなら間違いなく飛び出していたと思う。けれども悠音はその衝動を何とか抑え込み、日向の隣で中の様子を伺うように目を凝らした。
部屋の中は静かな燭台の灯にともされて、暖かな明かりに満ちている。その中でゆるりと笑んだ青年のその表情は、圧倒的なまでに美しい。
「……あれ、実斐くんだよねぇ? なんだかさっきと雰囲気が違わないかい?」
日向が不思議そうに首を傾げた。
あの存在感のある美貌に変わりはないというのに、ついさっきまで一緒に居た鬼とはだいぶ印象が違うように感じられて、悠音に確認するように目を向ける。
それは悠音もちょっぴり感じていた。
目の前で見知らぬ少女と話している紅い鬼には、いつも自分に向けられているような明るい笑顔も、楽しそうな声もない。
あくまでも、不遜で冷徹な笑みを口許に佩いている。優しそうでいて、けれどもどこか醒めたような、少し近寄りがたい雰囲気。
「……ああ。そっかぁ。分かった。初めて神苑で実斐さんに会った時は、あんな感じだったかも」
少し納得したように悠音は呟いた。
初めて大楓の許で出逢った時の実斐は、かなり不遜な態度だったことを思い出す。けれども会話を重ねるうちにどんどん実斐の表情も態度も柔和になり、互いの距離が近くなっていったように思う。
一緒にいるのが楽しいと……その時間を心待ちにしてしまうほどに。
今でもあの紅い鬼はワガママだし「己のやりたいことだけをやる」などと言っては不遜な態度を示すことも多いけれど、その表情や眼差しは最初の頃とはまるで違い、とても温かいものだと悠音は思った。
「ふふふ。そっか。きっと、悠音ちゃんに感化されたんだねえ」
藤城神社の文献に記された"藤城に棲む紅い鬼"は、ひどく冷酷な鬼だった。しかし実際に会ってみて、日向の鬼への印象が大きく転換したのは確かだ。
他人に対する態度や紡ぎだされる言葉には少々……否、多大な難はあるけれど、性格的には不器用な優しさを見せる人間の青年となんら変わらない。
そんなふうにさえ、思えたのだから。
千年もの昔には人々に怖れられていた紅い鬼から冷酷さや鋭さを剥ぎ取って、日向にそんなふうに思わせるくらい柔和に変化させたのが、この少女なのだと思うと可笑しかった。
「うーん? きっと実斐さんは、もともとそういう性格だったのよ」
確かに最初は腹の立つような言動が多かったけれど、子供っぽさや優しい一面もちょこちょこと顔を覗かせていたことを思い出す。
人間だって初対面では簡単に打ち解けたりはしないし、素直な自分を出せないことだって多いのだ。
だからこそ、実斐の言動が近ごろ柔和に明るくなったのは、単に自分に慣れてきて本性が出てきたのだろうと悠音は笑った。
「そうだとしても、悠音ちゃんはすごいと思うよ」
藤城神社の射場で会ったとき、実斐が悠音を大切に思っているらしいというのは、見ていて日向にもよく分かった。
当の鬼自身は、そのことを自覚していないようではあったけれど。
「あっ……」
不意に、笑っていた悠音の表情が強張った。その急な変化が不思議で、日向は悠音の視線の先を追うように目を向ける。
庵の中では、美しい少女へと伸ばされた実斐の長い指が、髪を撫でるように静かに動くのが見えた。
「宮司さまの命を奪ったのは私です。皆にはそう正直に申します。貴方に無実の罪を着せることはできませぬ」
どこか蒼褪めたような表情で、少女は鬼の顔を見上げて言う。
ふっと、おかしそうに実斐は目を細めた。髪を撫でていたその手を止めて、馬鹿馬鹿しいと言うように軽く息をつく。
「ふん。我が奪った命数が今さらひとつくらい増減しようとも、たいした違いはなかろうよ。それに、気に食わぬ社に火を点けたのは、紛れもなく我なのだしな」
「実斐さま……」
消え入るように鬼の名を呟くと、少女は実斐の胸にすがりつくように身を寄せる。
感情がないと言われる彼女にしては珍しい行動だったけれど、人を殺めてしまったという恐れや不安は、感情よりも本能的なものなのだろう。
鬼はそう思い、少女をなだめるようにそっと肩に手を置いた。
そんな青年の漆黒の瞳は、悠音が良く知る実斐と同じく、どこかあたたかさを感じる柔らかな眼差しだった。
「悠音ちゃん?」
思わず日向は悠音を見やった。悠音の実斐に対する今までの言動を見ている限り、これは彼女にとっては見たくない場面に違いないと思った。
案の定、悠音はどこか痛みを堪えるような、それでいて少し怒ったような、複雑な表情で固まっていた。
「だいじょうぶかい?」
「……な、何が?」
答えながらも、胸の奥から得体の知れない不快な感情がもやもやとわきあがってきて、悠音は堪らずぷいと横を向いた。
自分がヤキモチを焼いているのだとは思いたくなかったけれど、実斐が他の女性に優しく……仲睦まじい様子を見ているのが、何故だかとても嫌だった。
「いや、ほら。あそこにいるのは君が知っている実斐くんではなく、この時代に棲んでいる"冷酷非道な紅い鬼"だから。間違えないようにね」
紅い鬼に対して悋気を起こす悠音の様子がちょっぴり可笑しくて、日向はくすりと笑って言う。
「わかってるもん。別に、何とも思ってないもんっ」
拗ねたように庵の中の鬼を見やり、そうして日向に強がってみせる。その頬は、はちきれんばかりのふくれっ面になっていたけれど。
あまりに分かり易い悠音の反応に、日向は肩を揺らしてくすくすと笑う。
実斐も悠音も、互いへの好意を自覚していないあたりが似た者同志なのかもしれないと、日向は可笑しく思った。
その刹那、ざああっと強い風が吹いた。
ざわざわと、木々の葉が不穏な音を奏でるように大きく揺れる。
「……え? なに?」
何故だかひどい胸騒ぎがして、悠音は引き寄せられるように、庵の中に再び視線を向けた。
その視界の中で、先程まで抱きかかえるように胸に包み込んでいた少女を、実斐が突き飛ばすように放り出したのが見えた。
よろめくように鬼から離れた少女の手には ―― 月明かりを浴びて不気味に煌く、細い刃のようなものが握られていた。
「千早、そなたは……」
実斐は信じられないものを見たように、闇夜のような瞳をじっと巫女姫に注いだ。その胸元は切り裂かれたような傷が大きく口を開き、深紅の泉のように血液が溢れ衣服を伝い、床へと零れ落ちている。
「貴方は存在自体が罪なのだと、兄者が申しておりました。兄者はいつも正しい」
感情なき弓月神社の巫女姫は鬼の血で濡れた刃を握ったまま、小さく呟いた。その美しい顔には、何の感情も浮かんではいない。
「……ふん。我としたことが……嵌められたというわけか」
傷口を押さえるように左手を胸に置いて、実斐は深い息をついた。
すべてはあの禰宜……伊織という彼女の兄が仕組んだことなのだろう。実斐は唇を噛みしめ、美しい眉をつりあげる。
罠にはめられた屈辱と怒り。けれどもその表情は、どこか傷付いた子供のようにも見えた。
「…………」
巫女の少女を鋭く睨みつけていた実斐は、ふと苦しげに頬を歪めた。
報復せんとばかりに伸ばしかけた右手を不意に引っ込めて、ふわりと飛翔するように庭の木へと飛び移る。
そうして幾度か辛そうに浅い呼吸を繰り返してから、無言のまま、闇に溶けるように森の中へと姿を消した。
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