第9話『夢と現(うつつ)』

第9話ー01

「……どうしよう。ねえ。日向おじさん。私、何をすれば良いのかな?」

 とつぜん目の前から掻き消えてしまった実斐さねあやを案じて、悠音はぐっと口許をひき結んだ。

 もしかしたらさっき日向が言っていたように、ここと実斐を繋ぐ"橋"が消えてしまったのではないかという考えが浮かんできて、胸がきゅっと苦しくなる。

 もしそうだとしたら、二度と実斐に会えないかもしれない。それを避ける為に自分に出来ることがあるのなら、何でもやりたかった。

「悠音ちゃん。とりあえず大楓のところに行ってみようか? 実斐くんと一番関わりが深いのは、あの場所だろうからね」

 やんわりと日向は笑う。

 どうにかこの状況を打破したいという悠音の気持ちがひしひしと伝わってきて、日向自身も何かしてあげたいという気になっていた。

「千年ものあいだ封じられていた鬼を解放した悠音ちゃんになら、何か出来るかもしれないよ」

 元気付けるように軽く少女の肩を叩いてから、日向は神苑の中を歩きだす。その包容力のある穏やかな声音に、悠音はちょっぴり救われたような気がした。

 もし今ここに一人で居たならば、きっと自分はもっと気が動転して、何もできずに座り込んでいたのではないかと思う。

「うん。……そう、だよね」

 ひとつ大きく深呼吸をして自分の心を落ち着けると、悠音は日向の背中を追うように、射場から神苑の中心地へと足を向ける。

 さっきまでは藤城神社の宮司である彼が、実斐を封じてしまうのではないかと不安だったけれど、どうやらそれを心配する必要は、もうなさそうだった。


「……おかしいな?」

 不意に、日向が何かに気付いたように足を止めた。いつも穏やかな表情の彼には珍しく、眉間に深い皺を寄せるように周囲を見回している。

「どうしたの、おじさん?」

「うーん……」

 しばらく辺りに視線を廻らせたあと、彼はふうっと小さな溜息をついて、悠音を振り返った。

「悠音ちゃん、気付いてるかい? どうやらここは、僕らの知っている神苑ではないようだよ」

「え……ええっ!?」

 思わず悠音は声を上げた。

 いきなり何を言い出すのかと、まじまじと日向を見上げてしまう。彼はこんなことを冗談で言うタイプではないけれども。それでも俄かには信じがたい言葉だ。

「正確には、違和感があるといったほうが良いのかなぁ。木々の種類や配置は確かに藤城神社の神苑と同じような感じなんだけど。雰囲気がね、違うんだよなぁ。あの鬼が消えた時に、空間に歪みでも出来てしまったのかなぁ」

 困ったように腕を組んで、ゆるゆると頭を振る。

 さっきまでは確かに見慣れた藤城神社の神苑の中だったはずだ。

 それなのに、歩いているうちに、いつのまにやら馴染みのない場所に居るように日向には思えたのだ。

「でも……」

「周りの木々と空を見てごらん。悠音ちゃん」

 促されるように見上げた空には幾千幾万の星々。プラネタリウムでもこんなに多くの星を見たことがないと悠音は思う。

「暗いからちょっと分かりづらいかもしれないけど、まわりの木々も、いつのまにか紅葉してるんだよなぁ」

 しみじみと日向は語る。冬であるはずの神苑に、紅葉など有り得ない。それならばここは、さっきとは"違う場所"だということだ。

「……そんな、あっさり言うことじゃないよぉ」

 まるで世間話でもするかのように淡々とした口調で説明する日向に、思わず悠音は脱力したように溜息をつく。

「はは。まあ、慌てても仕方ないからねぇ」

 日向はいつものように朗らかに笑った。

 さすが"鬼"である実斐を恐れるどころか、逆にような態度を取った男だ。肝が座っていると言うのか。鷹揚すぎると言うのか。

「日向おじさんらしいけどね」

 大好きな宮司の独特な大らかさに、悠音は思わずつられたように笑う。けれども、すぐに今の状況を思いなおして困ったように眉根を寄せた。

「でもそれじゃあ、いったいここはどこなのかな?」

 ここがどこだか分からなければ、実斐を探しに行くことだって出来ない。このまま時間が経って、取り返しのつかないことになるのだけは避けたかった。

「しっ。悠音ちゃん」

 不意に日向は右手の人差し指を口許に乗せ、悠音の言葉を遮った。

「……近くで、人の声が聞こえる」

 ようやく聞き取れるくらいの小さな声で悠音に伝えると、日向はどこか緊張したような表情で、周囲をうかがうように目を向ける。

 ここが未知の場所だということが、日向を少しは用心深くさせたようだった。


「 ―― 兄者。あの方は、私を助けてくださったのです。それでも……やはり封じるのですか?」

 ふと、涼やかな声が悠音の耳にも届いた。

 その声は鈴の音のように玲瓏で美しかったけれども、感情というものをまったく感じられない、どこか冷淡な声だった。

 日向に軽く頷いてから、声のした方へ視線を向けてみると、星空の下で木々に隠れるように、一組の男女が話しているのが見えた。

 一人はどことなく日向と似た雰囲気を持つ、神職の姿をした青年。そしてもう一人は、巫女らしき少女。

 木々の隙間からかいま見える少女の白く端正な顔と、長く艶やかな黒髪に月明かりが煌いて、夢幻のように美しかった。

「確かに今回はおまえを助けたのかもしれない。でもね、鬼は存在自体が民に恐怖を与えている。それにあの紅い鬼は幾度も罪を犯しているのだから良い機会だよ。おまえに興味を持ったのがと諦めて、しばし眠ってもらおう」

「……分かりました。兄者がそうおっしゃるのなら、正しいのでしょう」

 穏やかな青年の言葉と、震えがくるほど無感情な少女の声音が、冷たい刃のように悠音の耳を打った。

 紅い鬼 ―― 確かにあの二人はそう言っていた。

 それは、実斐のことなのだろうか? 封じるという言葉に、悠音は胸が締め付けられるような気がした。

「ひゅ……日向おじさん……」

 黙っているのが苦しくて、小声で隣に居る日向に声をかける。日向は悠音を安心させるかのように、微かに笑って見せた。

「もう少し様子を見よう、悠音ちゃん。僕の考えが正しいならここは ―― 」

 最後の言葉は口には出さず、日向は再び二人へと視線を戻す。視線の先では青年が少女に小刀のようなものを渡しているのが見えた。

「もうじき紅い鬼が戻ってこよう。おまえはさっき私が言った通りにすれば良い」

 再び声が聞こえて、青年はそのまま深い木々の闇中へと去って行く。

 その姿をしばらく見送るように眺めてから、少女は小刀を懐にしまうと青年とは反対方向へと歩いて行った。


「あんなところに庵があったんだね」

 その姿を目で追いながら、日向は囁くようにそう言った。

 今まで死角で気付かなかったけれど、静かな闇の中、優しい木々に抱かれるように小さな庵が佇んでいた。

 やんわりと暖かな燈篭の灯が、闇夜にぽっかりと浮かび上がるように漏れている。その中へと、少女はゆっくり入って行くのである。

「……悠音ちゃん。もし、ここに実斐くんがやってきても、絶対に声をかけたりしちゃダメだよ」

 日向は悠音を振り返りながら、真剣な表情でそう言った。

 自分の考えが正しいならば、ここは鬼が封じられたいにしえの時代なのだろうと思う。

 それならば ―― ここに存在する紅い鬼が、悠音のことを知るはずもない。

 それに、何故こんな場所に自分たちが来てしまったのかは分からなかったけれど、歴史に干渉することは許されないと思った。

「え? でも……」

「でもじゃなくて。もう一度に会いたいのなら、僕の言葉を聞きなさい」

 有無を言わせぬように、日向はしっかと悠音を見つめてそう言い放つ。

 普段は穏やかな彼の、こんなにも強い眼差しと声音は初めてだと思う。その圧倒的な眼差しに押されるように、悠音は頷くことしか出来なかった。

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