第8話ー03

「我は、ずっとここで眠っておった。……悠音に言わせると、千年だな」

 永遠のようにも一瞬のようにも感じられた沈黙を破るように、実斐はふっと苦笑を浮かべてそう呟く。

「……千っ!? ……ごめ……なさい……」

 その膨大な年月を思って、千早は息を呑んだ。

 そんなにも長い間、この鬼は自分のせいで封じられ続けていたのだと思うと辛かった。それでは、いくら謝ったところで許してもらえるはずもないと思う。

「ふん。別に謝ってもらう必要はない。結果として、我は今までで一番手に入れたいと思うを見つけたのでな。無論、そなたらに感謝などするはずもないが、今は……恨んでもおらぬよ」

 にやりと、実斐は笑う。

 何かが吹っ切れたのか、闇夜のように深い漆黒の眼差しが、どこか明るい光を宿しているように見えた。


「……お兄ちゃん、千年も寝ていたのなら、今なぜここにいるの?」

 鬼の腕に抱かれたまま二人の様子を眺めていた鈴は、不思議そうに顔を上げた。この鬼が封じられてから、まだ一年しか経っていないはずなのだ。

「おそらく、その大楓の許には我とは別に、まだ結界オリの中で眠る"我"が居るのだろうよ。……まあ、奇妙なことではあるがな」

 日向も言っていた通り『時の流れ』なんかを鍵にした禰宜の選択は不可思議で、まったくもってとしか言いようがない。

 いくら一度は封じようとも、解かれればこのように鬼が戻ってくるのでは何の意味もないのだから。

 もし悠音に出逢うことなく封印が解かれていたとすれば、自分は戻ってすぐに禰宜を含む人間たちに報復をしていただろうという自覚はあった。

「じゃあ……お兄ちゃんは、本当に千年もの間をここで眠っていたのね」

 永いあいだ独りで眠りについていた鬼が不憫に思えたのか、童女は哀しそうに眉をしかめた。その大きな瞳にはみるみる涙がふくれあがり、青年にしがみつくように小さな手を伸ばす。

「……ふふ。我を起こした娘に、そなたはよう似ておるわ」

 出逢ったとき、千年もの間ずっと独りで封じられていたのだと知って悠音が泣いたことを思い出し、実斐はくすりと笑う。

 そうして悠音にしてやったように、大きなその手で童女の髪をぽんぽんと軽く叩くように撫でてやった。

「実斐さま……お変わりになられましたね」

 童女をあやすような青年の様子に、思わず千早は目を丸くする。

 自分が見知っていた鬼とは、少し違う。こんなに明るい笑顔を見せる鬼ではなかったと思うのだ。

 確かに優しいところもあったけれど、以前はもっと周囲に鋭く冷たい気配が織り成されていた。

「我は変わってなどおらぬ。そう思うなら、"心"を得たそなたが物を見る目が変わったのだろうよ。……まあ、多少は悠音の影響があるやも知れぬがな」

 照れを隠すようにコホンとひとつ空咳をして、実斐は軽くそっぽを向く。

「悠音さん……とおっしゃるのですね。実斐さまが先程おっしゃった"極上の獲物"という御方は」

「獲物などと言うと、また悠音は怒るだろうがな。……ふふ。あれはなかなか狂暴な娘でな」

 そう言いながら溜息混じりに笑う鬼は、とても楽しそうで。愛おしそうで。初めて見るそんな鬼の様子に、千早はつられたようにくすくすと笑った。

「実斐さまは今、とてもお幸せなのですね」

 自分以外の女性の存在によって楽しそうな実斐を見るのは少し寂しくもあり、けれどもとても嬉しかった。


「…………」

 ふと、自分を見つめているような視線を感じて千早は顔を上げた。やんわりと穏やかに、ひどく優しげな眼差しをした鬼の顔がそこにあった。

「……どうかされましたか?」

 千早が不思議そうに見返すと、鬼の青年はふっと口許を緩めるように少し笑った。大腿部までも伸びた艶やかな紅い髪を揺らすように、ゆるゆると首を振る。

「いや。なにも。 ―― そろそろ我は、帰るとしよう」

 やおらそう言うと、実斐は腕に抱えていた童女をそっと地面へ下ろし、千早へと返すようにその背をぽんと軽く押した。

「お兄ちゃんどこに行くの? また、逢える?」

 鬼が居なくなると悟ったのか、童女はくるりと振り返り、泣きべそ顔になった。

「我は千年先の世に戻る。もうここには、我が居る理由はないのでな」

「……今までは、あったの?」

 大きな瞳を見開いて、童女はまっすぐと実斐を見詰めてくる。その真摯な眼差しに、実斐は苦笑するように口許を歪めた。

 自分が何故ここに来てしまったのか。それは ―― こちらで手に入れ損なっていたものがあったからなのだと実斐は思う。

 未練がましいにも程があるが、それを手に入れない限り、自分はまだ半分封じられたままこちらに心を残しているようなものだったのではないかと思うのだ。

 それを手に入れることで、千年という永きに渡って自分を眠らせていた『封印』という名の縛めはようやくほどけ、完全な目醒めとなるのだろう。

 ―― 悠音という少女のいる、あの時代の中で。


 まったくもって愚かなよと、実斐は自分自身に呆れたように心の中で笑った。

 けれどもそれは、決して自嘲の笑みなどではなく、晴れやかな笑みだった。

「我は、欲しい物は必ず手に入れる主義でな」

 ぽんっと、実斐は幼い童女の頭に軽く手を置き、そう答えた。そうしてもう一人。目の前に佇む巫女姫へと闇夜の瞳を向ける。

「ここで欲しかったものは手に入った。それゆえ……もうここに戻ることも、そなたらに会うこともあるまいよ」

 あの当時 ―― 千年前の自分が欲しかったのは、感情なき巫女姫と言われたこの少女の笑顔。

 人形のような美貌ではなく、そこに浮かぶ自然な笑みが見てみたいと……そう思っていたのだ。

 けれども今、自分が最も欲しいものは、ここにはない。

「だから、我はいま己の在るべき場所に戻ろう」

 ふっと切れ上がるように鮮やかな笑みを浮かべて実斐は告げる。

 日向の言葉どおりだと思うのは癪だったが、確かに悠音がいるというそのことが、自分があそこに居る理由なのだと実斐は思う。

 だからこそ、早く戻ろうと思った。日向が言っていたように、忘れ水の道が消えでもしたら目も当てられない。

 こちらに来てしまう少し前、すぐ近くにいたというのに何故だか悠音の声は聞こえず、自分の言葉も彼女に伝わってはいないようだった。

 それこそ道が閉ざされ始めている証のように思うのだ。

「……鈴、こちらにいらっしゃい」

 泣きべそ顔の童女を優しく自分の方へと引き寄せて、千早はふわりと微笑んだ。ほんの少し哀しそうな、けれどもとても穏やかな笑みだった。

「お気をつけて、お戻りください」

 紅い鬼の青年を見送るように、千早はゆっくりと言葉を紡ぐ。童女は寂しそうに美しい鬼の姿をじっと見上げていた。


 不意に、強い風が巻き起こった。周囲の紅葉をも巻き込んで、紅い竜巻のごとく天高く舞い上がる。

 それは、実斐が封印から目覚めたあの時 ―― 悠音によって結界の『鍵』が壊されたあの時に吹いた風とよく似ていた。

 この風が、ここと悠音の居た時代を結ぶ『最後の橋』なのだと実斐は悟る。

 これを逃せば、悠音が恐れていたように自分はこちらに残ってしまうことになるような気がして、実斐は水の気配を追うように意識を集中させた。

 しかし ―― 

「鈴っ!?」

 ふと聞こえた千早の悲鳴に、ハッと実斐は天を仰いだ。

 あまりに強すぎる風が、千早の手からするりと童女の小さな身体を攫い、大きく天に舞い上げようとしていた。

 とっさに実斐は童女を風の中から救い出すように抱きとめて、地に伏せるように身を屈める。

 その刹那 ―― ひときわ強い陣風がひとすじ天へと吹き上がった。

 大楓の許を流れていた細い水流がゆうるりと、その紅い竜巻の中に引き寄せられるように立ち上ってゆく。

 そうしてすべての水を呑み込むと、ぴたりと風はやんだ。

「……悠音」

 実斐はその光景を見やり、茫然と呟いた。

 先程まで紅い落葉たちをゆうるりと浮かべていた水流は既に大楓の許になく、水の気配さえどこにも感じ取ることが出来ない。

 それらが示す現実の意味を悟り、実斐は鋭く舌を打った。

 あのとき自分に「傍にいて欲しい」と言った悠音の願いはこそばゆくもあり、そしてまたどこか心浮き立つような不思議な感覚がした。

 それなのに、計らずも彼女を置いてこちらに来てしまったことが、ひどく気掛かりに思えた。


「……うん?」

 ふと、狩衣の袂からひょっこりと小さな赤い物が飛び出しているのが目に入り、実斐は手のひらに載せてを見る。

 それは以前、悠音にもらったまま捨て損なっていた"赤鬼"とやらの人形だった。

「 ―― 我に出逢うのが運命さだめと申しておったな。ならば、帰らぬ訳にはいくまいよ」

 星貝の礼にとこの人形を渡されたあの時、戯れのようにそう言って笑った悠音の声を思い出し、実斐は人形ごと手を握り締め、天を仰ぐように呟いた。

「実斐さま……道が……」

 巫女である千早にも"異なる空間の繋がり"の消失を感じ取ることが出来たのだろう。不安そうに青年を見やる。

 自分たちのせいで、再びこの鬼のを奪ったのかと思うと苦しかった。

「……ふん。我を、誰だと思うておる?」

 実斐は僅かに顎を上げ、にやりと鋭い笑みを口唇に佩く。

 どこまでも深い、闇夜のような漆黒の瞳が氷を鍛えて作られた刃の如く怜悧な煌きを宿して、紅い鬼の美しさを一層際立たせた。

「我は、この藤城を統べる鬼ぞ。この地で我に従わぬ"モノ"など存在せぬ」

 きっぱりと言い切る鬼の強い言葉に、ゆらりと静かに風が吹く。

 先ほどの暴風が嘘のような静けさの中。神苑はただ、大楓を中心にさわさわと紅葉たちが奏でる葉擦れの音だけをゆるやかに響かせていた ―― 。

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