第8話ー02

「紅い鬼の……お兄ちゃん?」

 不意に幼い声がかけられて、実斐は少し驚いたように視線をそちらに向けた。

 白みはじめたばかりの天の下。柔らかな紅を成す木々の間に立って居たのは、胸に花を抱いた五、六歳ほどの幼い少女だった。

 枝についた一輪の真っ赤な山茶花を大事そうに抱く小さな手が、もみじのように愛らしい。いっこうに見覚えのない童女ではあったけれど、その愛くるしさに思わず実斐は微笑んだ。

「このような時刻にそなたのような童がひとりとは。鬼にとって喰われるぞ」

 大きな瞳を見開いてこちらを見つめてくる童女に、実斐はふっと口許を緩めて声をかける。

 頑是無い子供をわざわざ脅かすつもりもなかったが、鬼の姿を目前にしても、ほとんど怯えた様子のない童女が可笑しかった。

「あ……」

 童女は一瞬怖気づいたように後退り、けれどもすぐに思い直したように再び鬼の青年の顔をじっと見つめた。

「あの……これ……鬼のお兄ちゃんにあげようと思って持ってきたの」

 おずおずと、童女は胸に抱いていた山茶花を実斐に差し出してくる。

 あまりに予想外なその言葉に、実斐の漆黒の瞳がきょとんとまるくなった。一瞬、何を言われているのかさえ分からなかった。

「これを、我に? ……鬼に花を贈ろうなどと酔狂なことを思うのだな」

 ようやく我に返ってそう言うと、童女はほんの少し小首を傾げ、困ったような笑顔になった。

「だって、一年前の今日は、伊織さまがここに紅い鬼をお封じになられた日だから。そのご供養にと思ったの。……でも、お兄ちゃんもどっていらしたのね」

 たどたどしい幼い口調に喜びの気を感じて、実斐は更に驚いたように童女の顔を見やる。鬼が封じられたことを喜ぶ人間こそあれ、復活したと喜ぶ者などあろうはずがなかった。

「鬼を怖れぬとは、ますます変わった子供よ」

 苦笑するようにそう言うと、なおも差し出される花を実斐は困惑ぎみに受ける。

 伊織というのは実斐を封じた禰宜の名前だった。そのことからすれば、この童女はあの禰宜の知り合いということなのだろうが ―― 。

「怖くはないの。だって……わたし鬼のお兄ちゃんにとても会いたかったんだもの」

 童女はうふふと無邪気に笑う。子供特有の大きな瞳がくるくるといたずらっぽく楽しげに煌いた。

「……はあ? 何を言うておるのだ、そなたは?」

 思わず実斐は童女の顔をまじまじと見つめてしまう。さっきから人の常識からズレたことを言ってのける童女に、困惑のしどおしだった。 

「なにゆえ我に会いたいなどと思うたのだ?」

 放っておけばよかったのだろうが、上目遣いに真っ直ぐ自分を見上げてくる眼差しがどこか懐かしいような気がして、実斐はひょいと童女を抱き上げた。

 軽く首を傾けるようにその顔を覗きこむと、紅い髪がさらさらと流れるように肩口からこぼれおちて、童女の顔に軽く掛かった。

「……去年の春宴の夜、千早さまのお部屋にいらしたでしょう? あのとき、わたしに餅菓子をくれたのよ。覚えていない?」

 ふわりと近付いてきた鬼の顔に、童女は明るい無邪気な笑みを浮かべてそう答える。菓子などというものは、貴族でもなければ食べる機会などないに等しい。

 そう言われて、実斐は僅かに考え込むように俯いた。ややして思い当たることがあったのか、苦笑するように口端が上がる。

「あのとき千早の傍にいた童か。……それしきのことで、わざわざ我の"供養"とやらをしにこんな早朝に独りで来たのか?」

 この子供に椿餅を渡したような記憶は微かにあった。

 だがあれは別に好意からではない。ただ単に、千早の部屋を訪れたら子供がいたので、気まぐれに持っていた餅菓子をくれてやったに過ぎないのだ。

 たかだかそれだけのことで、こうも慕われるようなことではないと思う。

 なにしろ自分は鬼なのである。この童女だって大人たちから、たんと鬼の怖ろしい話を聞かされているはずなのに ―― 。

「鬼は怖ろしいと聞いていたけれど、あの時のお兄ちゃんはとても優しかったもの。暖かな眼差しとお声だったわ。わたし、だからお兄ちゃんは、良い鬼なのだと思ったの」

 そんな優しくて綺麗な鬼に気に入られて、会いに来てもらえる千早が心から羨ましいと思ったのだと、童女はにこにこと笑う。

「それなのに伊織さまが紅い鬼を封じてしまったとおっしゃったから……とても哀しかったの」

「……ふん。馬鹿なことを」

 己が決して"良い鬼"などではないことを、実斐は自分自身で知っている。

 人間たちが噂するように人を喰らうこともあれば、女たちを攫うこともある。時には親切めいたことをすることもあったが、それは本当に単なる気まぐれ。

 善悪などという判断は一切関係なく、欲しいものは必ず手に入れ、己の気が向いたことだけを好きなように行うのが、藤城実斐という鬼だった。


 けれども ―― 自分を良い鬼だと。そう言って笑った少女がもう一人いることを思い出して、実斐は小さな苦笑を浮かべた。

 そういえば彼女も、鬼である自分をいっこうに怖がらないどころか、無邪気に好意を寄せてきていた。

「ふふ……そなた、まるで悠音のような童よのう」

 くつくつと肩を揺らすように笑う。彼女のことを考えただけで、こうも楽しい気持ちになる自分の心が不可思議だとは思う。

 しかしそんな己自身も嫌ではないと思ってしまうところがまた可笑しくて、実斐は笑い混じりの溜息をついた。

「はるね? わたしの名前は違うよ。あのね、す……」

 童女は楽しそうな鬼の笑顔を見やりながら不思議そうに小首を傾げる。間違われているのがなんだか癪なので名乗ろうとした、その時 ―― 。

「 ―― 鈴。そこにいるの?」

 ふと、早朝の澄んだ風に混じって微かな声と落ち葉を踏む渇いた足音が聞こえた。この周囲に自分たち以外の人間が近付いていることを察して、実斐はすっと漆黒の眼差しをそちらへと向ける。

「神苑とはいえ、一人で出掛けては危ないと申したでしょう、鈴」

 鈴というのがこの童女の名前なのだろう。こちらに呼びかけるような涼やかなその声音に、実斐は一瞬はっと息を呑んだ。

 それは、よく耳に馴染んだ……けれども懐かしい女性の声。

「千早、か」

 眩しいものでも見るように、実斐は僅かに目を細めた。紅に染まる木々の合間を抜けるように現れたのは、予想通り弓月神社の美しき巫女姫だった。

 その美貌は相も変わらずに。けれども人形のようだった表情はどこか人の温かさを有し、以前とは雰囲気がまるで違うように感じられる。

「実……斐さま……?」

 童女を腕に抱く紅い鬼の姿に、少女は一瞬立ち竦み、驚いたように目を見張った。

現世ここに……戻られていたのですね……」

 一切の感情を持たずに生まれたはずの巫女姫は今にも泣きだしそうに。けれどもどこか嬉しそうに、ふわりと淡い笑みを浮かべた。この世の至福にでも出逢ったような表情だと実斐は思う。

「あのね、千早さま。わたしが来た時には、もう紅い鬼のお兄ちゃんはここにいらしていたの。伊織さまの封印がとけたのよ」

 にこにこと、童女は鬼の腕に抱かれたまま巫女姫に向かって手を差し伸べる。

「こんなに早く兄者の封印から目覚めるなんて……でも……良かった」

 伸ばされた童女の手に導かれるように、ゆうるりと千早は実斐のもとへと近付いてくる。彼女の髪が揺れるたびに、どこか玲瓏とした早朝の風のように心地好く涼やかな匂りが、ふわりふわりとたゆたうような気がした。


「後悔していた。兄者に言われるまま……あなたを封じる手伝いをしたことを。あなたは、私を助けてくださったのに」

 じっと、千早は美しい鬼の闇色の眼差しを見上げるように訴える。

 抱きかかえた童女をはさむように対峙する女性のそんな言葉に、実斐は軽く唇を噛んで目を閉じた。

 今はもう跡形もなく消えたはずの胸の刃傷が、何故だかつきんと奥で痛むような気がした。

「 ―― そなた、いつのまにやら己自身の意思こころを持つようになったのだな。それとも……甘い言葉で我に近付き、再び鬼封じの刃でも振るうつもりか?」

 揶揄するように、鬼の青年は口端を上げて苦笑する。みたび同じ人間から傷を受けるつもりはなかった。

「そのようなこと……致しませぬ。私はもう、人形ではないのだから……」

 兄の"鬼封じ"を手伝うため実斐に傷を負わせ、手酷い仕打ちをしたのは自分自身だった。

 けれども皮肉にも、この紅い鬼が封じられたあの時、千早は自分の中にも『心』というものが在ったことを初めて知った。

 いつのまにか己の中で大きな存在となっていたこの鬼を、己自身の手で失ったのだという衝撃。もう会うことが出来ないのだということに ―― 心が震えたのだ。

「ずっと、謝りたかったの」

 きゅっと美しい眉根を寄せて、千早は鬼の顔を見上げた。

「助けてくれたのに……恩を仇で返すような真似をして……」

「…………」

 実斐は何も応えなかった。

 ただ、切なげに揺れる少女の眼差しから心の内を読み取ろうとでもするかのように、闇夜の瞳を細めてじっと見詰め返す。

 ゆうるりと流れる沈黙の中で、深紅の長い髪がわずかな風を孕んで、幾枚かの紅い葉と共に舞い上がった。

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