第8話『目覚め』
第8話ー01
「 ―― 宮司さま。何をなさいます。お気は確かですか?」
とつぜん身体に触れてきた男に、少女は訝しげな眼差しを向けて淡々と拒絶の意を示す。生まれつき感情を持たないと言われる彼女らしい反応ではあるが、その氷のような口調に男はかっと怒りに血をのぼらせた。
「千早。そなたのもとに、夜ごと鬼が通うて来ておるそうではないか」
老齢の域に達するであろう男は、粘着質な視線を這わせるように少女へと侮蔑の言葉を投げかける。
清らかで美しい巫女姫と思い、この弓月神社の宮司たる自分ですら丁重に扱ってきたというのに。この少女は既に鬼の手にかかっているのだと思うと、ふつふつと煮えたぎるような怒りと、好色な感情を抑えることが出来なかった。
「あの紅い鬼とは、幾度か言葉を交わしただけに過ぎませぬ」
紅い鬼が時々自分の部屋を訪れてきていたのは事実だった。
何が気に入ったのか千早には分からなかったけれど、いつも鬼は半刻ほど部屋に居座り、ふたことみこと、からかうように言葉を交わすと何事もなかったように立ち去っていたのである。
時には軽く髪に触れてくることもあったけれど、それ以上のことは何もなかった。
「そのような戯言を信じる者などおらぬわ」
自分を基準としてしか思考が到らないのか、真っ向から宮司はそれを否定した。ぎらぎらとした眼差しで伸ばされた手の汚らわしさに、千早は思わず眉をひそめた。
紅い鬼が戯れるように触れてきた時に感じた、くすぐったいような。暖かいような。それでいて、どこか胸の奥が苦しいような……不可思議な感覚とは真逆のものだと思った。
あまりに違い過ぎるその感覚に、この男に触れられるのは嫌なのだと、本能的に感じてしまう。
「神に仕える巫女のくせに鬼と通じるとは、呆れるにもほどがある。そなたの穢れはわしが払うてやる」
勝手な言い草と共に男に強く手首をつかまれて、ぐいっとなだれ込むように引き寄せられると、ぞわりと全身に粟が立った。これが嫌悪と恐怖という感情なのだと思い到る暇もない。少女はただ、逃れなければと思った。
「……っ!?」
とにかくこの急場を脱したくて、千早は渾身の力を込めて、老齢に近い男の身体を突き飛ばしていた。
がつっと、何かが砕け潰れるような鈍い音と共に、息が詰まる男の呻きが低く短く部屋の中に響く。その後には異様な静けさが広がった。
恐る恐る目を向けてみれば、先ほど自分に圧し掛かろうとしていた男は驚愕の形相で目を見開いたまま、言葉もなく床の上に倒れ込んでいた。
頭からはぞろりと赤い液体が流れ、みるみる大きな血溜まりが出来てゆく。その脇には弓月神社の社宝 ―― かつて帝より賜ったと云われる大きな青銅の香炉が血濡れて転がっていた。
「宮司さま……」
自分のしたことの重大さを悟り、少女は悲鳴にも似た吐息をはきだした。既に宮司は事切れているようで、声をかけても揺すってみても、ぴくりとも動かなかった。
「…………」
これからどうして良いのかも思いつかず、千早はきゅっと手を握りしめた。
乱れた呼吸を整えたくて深呼吸を試みても巧くゆかない。ぺたりと座りこんだまま、ただただ茫然と血濡れた男を眺めることしか出来なかった。
「 ―― 血の匂いがしたゆえ
ふわりと舞い込んできた涼やかな風と静かな男の声に、少女はハッと我に返ったように顔を上げた。
どこか人を小馬鹿にしたような表情をした青年。けれどもひどく美しい鬼の姿が、蒼白い月明かりを背に悠然と佇んでいた。
血の色とは違う、人の視線を奪わずにはいない艶やかな紅の長い髪が、ゆるやかに風に舞うようになびいている。
「あ……」
どこまでも深く吸い込まれそうな漆黒の眼差しが、見据えるようにじっと自分に注がれているのを感じて、千早は何故だか少し安堵したように、ゆっくりと深い息を吐きだした。
「……はい。宮司さまが突然襲いかかって来られたので……思わず振り払いました」
さっきまでは巧く呼吸さえも出来なかったのに、すらりと言葉が口をついて出る。
いままで混乱していた思考が落ち着きを取り戻し、心細さが急速に影を潜めていくのが、千早は自分でも不思議だった。
「 ―― ふん。己の神社の巫女姫に手を出そうとは愚かな男よのう」
侮蔑したように吐き捨てると、紅い鬼は既に生命の抜けた宮司の身体を一瞥し、不愉快そうに眉を上げた。
「まったく。このような血なまぐさいところでそなたと過ごすのは気が向かぬな。……仕方あるまい。我の庵に連れてゆく」
場違いなほどに穏やかな口調と共に、鬼の腕に包まれるようにふわりと抱き上げられて、千早はようやく血濡れた床から身を離す。
こんな時でも彼はいつものように自分と会話をしようとしているのだと悟って、千早は目を丸くした。鬼に常識というものは通じないのだとしても、彼の行動はあまりに突飛だった。
「そういえば今日はあの、いけすかぬ禰宜はどうしたのだ?」
昼間は多くの手伝いがいるこの神社も夜は人が少なくなるのは当然だが、"あの禰宜"は彼女がここにいる間はいつでも必ず境内に居るのが常だった。
それが今日に限って居ないとは何とも間が悪いことだと思う。……否、居ないからこそ、こんなことが起きたのだろうが ―― 。
「……兄者は宮司さまの使いで先ほどお出掛けになられました。急用とのことで明日まで待てず、他に誰もいなかったので仕方なく兄者が言い付かりました」
千早は淡々と答えを返す。既に恐慌状態を脱し、人の死を眼前にしても普段どおり変わらぬ口調の少女が可笑しいと、鬼はくつくつと笑った。
「それにしても……ほんに愚かな男よ」
再び不快そうに呟くと、何かを思いついたように酷薄な笑みが形の良い口許にゆらりと浮かぶ。
その冷笑が消えると同時に、近くに灯っていた燭台をぽんと軽く蹴倒して、鬼の青年はふわりとその場を立ち退くように舞い上がった。
「心配せずとも、跡形もなく燃え尽きる。我はこの神社が嫌いだったのでな。ちょうど良い」
不安げに炎と宮司の遺骸をじっと見つめる少女にそう囁いて、紅い髪の青年は不遜に笑う。
燭台の炎は、まるで生きているかのように、みるみるうちに床や御簾へと燃え広がった。そうして少女を抱きかかえた鬼がその場を去る頃には、弓月神社全体が炎の翼を広げるように、夜空へと高く燃え上がるのが遠くからでもよく見えた。
***
ふと気がつくと、実斐は燃え盛るように色付く紅葉の中に独りで佇んでいた。傍にいたはずの悠音の姿は見えず、日向という小憎らしい神職の男も居ない。
ただ ―― 美しい楓の大樹からはらはらと舞い散る紅の葉が、降り頻るように実斐の髪や肩をすりぬけて、足許に湧き出る水流をゆらゆらと流れていくのが見えた。
ここが、先程まで自分や悠音たちが居た場所とは違うのだということは、その景色の違いを無しにしても、肌に感じる空気や風の匂いで分かった。
懐かしくそよぐ風の香りに、ここがもともと自分が"生きていた場所"だということは分かる。悠音に言わせれば、彼女の生きる時代よりも遥か千年もの昔。
そこに在るのは静寂につつまれた森。人々の訪れを拒むように厳かで清浄な気を保つ神の苑。
「……ふん。いつのまにやら冬から秋に逆戻りか? 忙しいことよのう」
己の髪色にも似た紅い葉を一枚摘み取るように指先に乗せると、青年は皮肉げに吐き捨てた。まったくもって訳の分からないことが起こる日だと思う。
自分自身でも知らぬうちに深く寝入って思い出したくもない嫌な夢を見たり、いきなり人間の姿になってしまったかと思えば元に戻ったり。
その上、そこに居るはずのない少女の姿を見た ―― 。
「千早の姿を見たと思うたが……おらぬな」
ふと思い出したように周りを見回して、実斐は拍子抜けしたように軽く息を吐きだした。
悠音に『千年前に帰れなくなっても良いのか』と問われた時、実斐は別にそれでも構わないと思った。この時代に対する懐旧などは特に感じなかったし、たいして未練もなかった。
けれども ―― そのとき何故か、実斐は己がかつて封じられる原因ともなった少女の……弓月神社の巫女姫の姿が見えてしまったのだ。思わずその名を呼び、彼女と視線があった瞬間に、彼はこの場所にたどり着いていた。
「あの娘が我の未練と言うわけでもあるまいに……」
ふと思いついた考えに眉をしかめ、実斐は軽く舌を打った。
弓月神社の巫女姫は確かに自分好みの美しい少女だった。人形の如く感情なき娘に興をそそられ、気まぐれに関わりもした。けれど、ただそれだけだ。
「……泣きそうな顔をしておったな」
先ほどの少女の姿を思い出し、実斐は軽く目を細めた。生まれ付き一切の感情を持たぬと言われたあの巫女が、するはずのない表情だった。
夕刻に見た ―― 己が封じられた闇夜の夢の中でも現実とは違って千早が泣いていたのを思い出し、実斐の端正な口許に苦い笑みが浮かぶ。
「ちっ。不快な……」
これではまるで、鬼を封じたことを彼女に嘆いて欲しかったみたいではないか。
そんな己の思考に溜息混じりに首を振ると、実斐はゆうるりと天を仰いだ。夜明けが近いのだろう。東の空がゆるやかに白みはじめているのが見えた。
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