第7話ー03

「ふん。馬鹿なことを。何ゆえ我が、こんな小娘のために、そこまで妖力ちからを使わねばならぬのだ」

 自分が誰かのために、そこまで気を遣うことは有り得ないと思う。だから実斐は、睨むように鋭いまなざしを日向に向ける。

 悠音はきょとんと目を丸くして、二人の様子を交互に見やった。

「あはは。さっき君たちがじゃれあいながら言っていたけど、悠音ちゃんの"願い"から、君たちは僕を止めるためにこの射場に来たんだよね? それに、彼女の言葉どおり僕を殺さないこともそうだし、君は悠音ちゃんの望みをいつも叶えようとしているじゃないか」

 先ほどの二人の口喧嘩を"じゃれあい"と評しながら、日向は面白そうに目を細めて笑う。

「……我は、我がしたいと思うことをしておるまでよ。悠音の意向など些かも関係せぬ。。それ以外に行動の理由などないわ」

「ふふ。そうなんだ? ということは、君は悠音ちゃんに喜んでもらうのが嬉しいってことだよねえ」

 まったくもって素直じゃないのだからと、肩を揺らして日向は更に笑う。

 闇夜の下で藤城神社の宮司の白い狩衣の袖がふわりと揺れて、からかうように風になびいた。

「ちっ。そなたに何か言うても始まらぬわ」

 何を言っても『暖簾に腕押し』な壮年の神主に、実斐は苦虫を噛み潰す。日向を睨み据えるような眼光を宿したまま、皮肉とも諦めとも取れる微妙な口調だった。


「ねえ、おじさん。あの忘れ水が消えたら、本当に実斐さんは千年前に戻ってしまうの?」

 今まで口を挟まずになりゆきを見つめていた悠音は、二人の会話が途切れたところでそう訊ねた。

 さっきの日向の言葉の中で、それが気になって仕方がなかった。

「うーん。そうだなぁ」

 悠音の問いに少し考えるように俯いて、そうしてにこりと顔を上げる。

「推測でしかないけれど、やっぱり時の流れを失った"檻の欠片"が残っているからこそ、異なる時間に在るはずの"鬼"がここに留まっていられると思うんだ」

 とつぜん大楓のもとに現れた忘れ水の流れは、異なる時代と空間を繋ぐように架けられた"橋"とも言えるのではないかと日向は思う。

 それがなくなれば ―― 在るべき場所へと還るのではないかと。

「……そっか」

 思わず悠音は深い溜息をついた。

 カギを壊して鬼を解放したあの時、目を向けたその先で風と共に消えてしまった実斐のことを思い出す。

 あれと、同じことが起こるのだろうか? そう思うと何故か胸が痛かった。

「 ―― そうとも限らぬ」

 ふと、低く艶やかな実斐の声がした。

 悠音が顔を上げると、相変わらず不遜な表情をした紅い鬼が、じっとこちらを見つめていた。

「我は既に、一度解き放たれておる。封印オリの欠片が残っておろうがおるまいが、そこまで禰宜あやつの力が我に影響を与えるとは考えられぬ」

 どこか少女を安心させるような、力強く優しい響きだった。

「本当にそなたが言うように、あの小川が"我"と"異なる時"をつなぐ橋であるとしても、元より我が場所などというものはない。ただ我は、我がと思う場所にるのみよ」

「在りたい……場所?」

 呟きながらも、悠音は知らず知らずに溜息が混じる。

 実斐は、いったいどちらの方に思い入れがあるのだろうか。

 やっぱり、ずっと住んでいた場所の方への想いが強いのか。それとも、を少しでも気に入ってくれているだろうか?

 鬼を封じた人間のいる千年前なんかではなくて、自分がいるこの場所を想ってくれたらと、思わず願ってしまう。

 そんな自分の我が侭さが少し後ろめたくもあったけれど、それが悠音の正直な気持ちだった。

「くくっ。意外と欲深い娘よのう」

 それを察したように、実斐はくつくつと肩を揺らした。あくまでも自分に傍に居て欲しいという彼女の願いが、なんとなくこそばゆい。

 そんな悠音の顔を見ていると、ほんわりと、己の胸の奥に見慣れぬ感覚が生まれるようで不思議な気がした。

「我は、楽しければ己の居る場所がどこだろうが構わぬがな」

 さらりと長い髪をかきあげて、にやりと笑うその表情は悠音をからかっているようにも見えたけれど、漆黒の瞳に浮かぶ眼光はどこか温かく優しかった。


「じゃあ、こっちの方が楽しいと思えば、実斐さんは"千年前"に帰れなくなちゃっても良いの?」

「別に、どちらにこだわる理由もないのでな。まあ、強いて言えばまだそなたを喰ろうておらぬゆえ、それを果たすまではここにおるつもりではあるがな」

 ふふんと笑って、実斐は長い指を伸ばして悠音の前髪を爪弾く。

「ま、またそういうこと言うんだからっ」

 嬉しいような、怒っているような、複雑な口調で悠音は頬をふくらませた。

 けれども、今日何度か聞いた「ここに居る」という実斐の言葉は、ゆるやかに悠音の心に安堵をもたらしてくれる。

 そんな二人の不器用なやりとりを眺めながら、日向はくすりと笑った。

 この鬼の青年は何のかんのと言いながらも、やはりその行動は悠音の願いを叶えようとしている。それが可笑しかった。

「……まったく。心底好かぬ男よ」

 自分たちを見て笑う日向に気が付いて、実斐は強く舌打つように吐き捨てると、大きく頭を振った。

 確かに"己を封じた者たち"が居る千年前などよりも、自分は悠音のいる現在のほうが気に入っているのかもしれないとは思う。

 だが、それを他人に、特にこの神職の男に指摘されるのは面白くなかった。

 この男は自分を封じた禰宜に性格が本当に良く似ていると思う。穏やかそうなくせに強かで。

 そして ―― まるで楽しむように鬼を翻弄するのだ。

「…………」

 思い出したくもない男の顔を思い出し、実斐は溜息をつくように、ゆうるりと空を見やった。

 空はあの日の夜のように暗い闇につつまれている。

 僅かに地上に灯を投げかけていた上弦の月も、そろそろ西の彼方に消えゆこうとしているのが見えた。


 ふいに、沈みゆく月の淡い残照に透けるように、懐かしい少女の顔が見えたような気がして、実斐ははっと目を見開いた。

 それは無論、悠音ではない。

「 ―― え?」

 息を呑むように再び目を凝らすと、少女の澄んだ大きな黒瞳が、ゆうるりとこちらを見つめているような気がした。

 それは ―― かつて実斐が気まぐれを起こした少女の姿。

 彼が封じられる要因にもなった感情なき娘。緋袴に白い小袖を身につけた、弓月神社の美しき巫女姫。

「……千早?」

 思わず呼びかけたその言葉に重なるように、ざわざわと風が木の葉を揺らす。

 刹那、実斐の長い髪が強風に巻き上げられるように宙を舞った。

 まるで力が逆流するかのように、爆発するような勢いでたなびく黒髪は、闇の中で紅へと変化する。

 それと同時に、冬色に染まっていた神苑の木々たちが、そこだけ秋に戻ったかのように艶やかな紅へと煌いていた。

「 ―― っ!?」

「……木々の葉が!?」

 悠音と日向は、それぞれ驚きの声を上げた。

 紅い風を隔てて目の前に佇む青年は、一瞬のうちに再び紅い髪と銀の角 ―― いつものような紅い鬼の姿に立ち戻っていた。

「いったい……急にどうしたっていうんだ?」

 さすがの日向も突然のことに驚いて、夢でも見ているように目を瞬いた。周囲は紅葉。そこだけまるで、異空間のようだ。

「どう、したの。実斐さん?」

 悠音の問い掛けに、ゆっくりと実斐は振り向いた。

 闇にも艶やかに浮かび上がる深紅の髪をなびかせて、紅葉を従えるように佇む青年の姿は圧倒的なまでに美しい。

「 ―――― 」

 悠音の顔を見つめながら、二言三言、実斐はどこか苦笑するように口を動かした。けれども、その声は何故だか聞こえてはこなかった。

「え? なあに、聞こえないよ?」

 こんなに近くにいるのに、どうして聞こえないのだろう? 不思議に思いながら、悠音は首を傾げて問い返す。

 けれどもその言葉も実斐には届かなかったのか、応えはなかった。

「悠音ちゃん。もしかして……ここと彼のいる場所は、空間が隔てられてるんじゃないかな」

 冷静さをいち早く取り戻していた日向は、気難しげにそう言った。

「……え?」

 こぼれんばかりに目を見開いて、悠音は怖ろしいことを言う日向の顔を見やった。それがいったい何を意味するのか、考えるのが怖い気がした。

 日向はいつものような穏やかな笑顔ではなく、神妙そうに眉をひそめていた。

「どうして?」

「それは、僕にも分からないけれど……」

 困ったように、日向は頭を掻いた。いったいどういう理由なのかは分からないが、とつぜん自分達のいる場所と"鬼"がいる場所が隔てられたのだと思った。

 それを確かめるように、日向はすっと手を伸ばし、紅につつまれた鬼の青年に触れようと試みる。

 けれども ―― やはりその手が実斐を掴む事はなかった。


「 ―― !?」

 不意に、ゆるやかに白い光が霞みのように周囲の視界を遮った。

 まだ深夜だというのに。実斐の周囲だけに一足早く朝日が訪れたかのように、そこだけが眩い。

 深く闇に沈んでいた神苑に突如と訪れた、有るはずのない暁の調べ。

 あまりの眩しさに、悠音も日向も一瞬手をかざすように目を閉じた。

 そうして ―― ややして二人が再び目を開いたその時には、実斐の姿は既にそこにはなくなっていた。

「あ……」

 さっきまでは確かに見えていた紅葉たちも消え失せて、周囲を照らした暁光もない。ただただ元通りの冬色に染まる神苑の木々だけが、静かな闇の中で揺れていた。


「……実斐さん?」

 あまりのことに茫然と立ち尽くし、再び暗闇に戻ったその場所で、悠音はもういちど紅い鬼の名を呼んだ。

 けれども ―― その呼びかけに応えるはずの尊大で美しい青年の艶やかな声は、いくら待っても返ってはこなかった。

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