第7話ー02

「ふん。そんな能力、こやつにあろうはずがない。ただ勘が良いだけの男よ」

 ここぞとばかりに実斐は悪態をつく。その表情も仕草も、やはりどこか子供っぽい。

「でも君も、どうして"人間"の姿になっているのか、わからないのだろう?」

 先ほどの悠音の言葉から推察するに、彼が自分の意志で人間の姿をとっているのではないということは分かる。

 だからこそ、日向は更に笑い含みになった。

「……ちっ。そなたには関係なかろうが」

 図星を指されたことに苦々しげに頬を歪めて、実斐はぷいと顔を背けた。

「あははは。尊大な態度をとっている割には可愛い鬼だなぁ、君は」

 うんうんと一人納得したように何度も頷いて、日向は鬼の青年を見やる。その眼差しは、やんわりと楽しそうだ。

 実際の年齢は鬼である実斐の方が上なのだろうが、は日向の方が年上だ。そのせいか、まるで弟でも見るような眼差しなのが可笑しい。

 それに、鬼を封じるのが役目であるはずの彼が、実斐を嫌悪している様子が見えないのも悠音は嬉しかった。


「……悠音がそなたを喰らうなと申す故、いままでは見逃しておったというに。愚かなやつよ。そなたがそういう態度をとるならば、我も容赦はせぬぞ」

 子供じみているだの、可愛いだのと好き放題に言い放つ神職の男に、実斐は凄むように言い放つ。

 人間の姿になっていようとも、己の力にはいささかの陰りも衰えもないのだ。日向を殺すことぐらい簡単なことだった。

 その言葉は強い自信と鋭さに彩られ、刃のように細められた深い闇色の瞳は、ひやりと凍るような笑みを宿していた。

「そういうのは、駄目なんだってば!」

 あまりに怖ろしげな鬼の様子に、慌てたのは悠音だった。

 実斐の声が、いつも自分と話すような明るい声音ではなかった。そんな声を悠音が聞いたのは、最初に会った時くらいのものである。

 それなのに、その言葉を向けられた当の日向はさして気にした様子もなく、にこにこと楽しげな笑顔を崩してはいなかった。

 それどころか ――

「悠音ちゃんが、ねえ? それで、彼女のその言葉を律儀に守っていたわけだ君は。ますます可愛い鬼だなあ」

 実斐をからかうような態度を改めるどころか、更にそんなことを日向は言い募る。この神職も鬼の青年に負けず劣らず、我が道を行くタイプらしい。

 他者の気遣いをいともあっさりと無視するような日向の言動に、悠音は思わずガックリと溜息をつきたくなった。

「そなた、どうしても死にたいようだのう」

「はは。そんなことはないよ。ただ、これでなんとなく合点がいったから。君が人間の姿になっている理由にね」

 日向は鬼の青年に意味深な眼差しを向けながら、微かに両の口端をあげるように笑った。

「……なんだと?」

 一段低くなった声音とともに、深い闇のような瞳が探るように僅かに動く。

 鋭い視線は変わらずに、けれども妖しく漂っていた日向への殺気は、僅かな興味へと気配を変えていた。

「どういうこと、日向おじさん?」

 悠音も目を丸くして声を上げる。実斐本人さえも思い当たらないその『理由』に日向が気付いたということは、あまりに驚きだ。

「忘れ水、なんじゃないかな」

 にこりと。日向は微笑んだ。

 柔らかに降りそそぐ沈みかけの月光に照らされた鎮守の杜の木々が、さらさらと静かな風にそよぐ。

 流れるその微かな風に、清らかな水の香りが漂っているような錯覚を覚えて、悠音は軽く目を閉じた。

 それは ―― 実斐と出会ったあの"空間"に流れていた小川の水を飲んだ時に感じたのと同じ、仄かに甘い香り。

 いまここでその香りがするはずもないというのに、悠音は何故かはっきりとそれを感じ取れるような気がした。

「大楓のところに流れてる、あの小川のこと?」

 悠音は不思議そうに僅かに首を傾ける。

 あの忘れ水に導かれるようにして、自分は実斐と出会ったのだ。今の状況とそれが関わりあるというのは納得できるような気もする。

「御神木の傍を湧き出るあの水流はね、僕の知る限りこれまで無かったものだよ。それが現れたのは神迎の神事の日。悠音ちゃんが見つけたのが最初だ。いちおう僕も宮司だからね。常に神苑内のことは把握していたはずだけれども、宇山君からの報告でそれの存在を知ったくらいだ」

 にこにこと笑いながら、日向は悠音を見やる。

 本来『忘れ水』というのは、そこに在るにも関わらず草木に隠れて人の目に付かなかったものが、草木が枯れるなどして姿を見せることを言う。まったく存在しなかった川が突然出現するという意味ではない。

 けれどもあの神苑を流れる"忘れ水"は、本当に何もないところから突然あらわれたものだった。

 しかし日向はその急な出現をさして気にしてはいなかった。何せ、あそこは神の苑なのである。

 まして御神木である大楓の根元には、在るべきはずの"時の流れを失った空間"を檻として鬼が封じられているのだと、古くから藤城神社に伝わる門外不出の文書にも記されていた。

 だからこそ、そんな場所で何が起こってもおかしくはないという気持ちがあったのだ。

 けれども ―― 悠音が鬼を解放したらしいと気付いてからは、いろいろと考えることも増えた。

 神苑に生じる僅かな変化さえも見逃さないよう、より丁寧に観察するようにもなった。

 それらは皆、"鬼"を警戒してのことではあったのだが、おかげで多くの推察の材料ともなる。

「君が封じられていた"空間おり"と、この"現世うつしよ"を繋いでいるものは、あの忘れ水なのだろうね」

 相も変わらず穏やかな口調で、藤城神社の宮司は笑顔をみせる。もともと日向は勘の鋭い男だった。

「……ふん。その程度のことなら少し考えれば誰でも分かろう。何を得意げに言うておるのだ」

 飄々とした日向の態度が気にくわないというように、対象的に実斐は不機嫌そうに口を曲げた。

 確かに、一度は元居た場所 ―― 悠音に言わせれば千年もの昔だというその場所に戻っていた自分は、あの忘れ水の流れに沿ってここに来たのである。

 それと、今の自分が人間の姿になってしまったことに、いったいどんな関係があるというのか。

「忘れ水の水流がね、近ごろ細くなってきているんだよ。気付いてたかい?」

 人差し指でこめかみを軽く何度か押さえるように、日向は僅かに首を傾けて実斐と悠音の二人を見やった。

「…………」

「それが、実斐さんにどんな関係があるの?」

「実は、あの大楓の鬼を封じる檻はね、完全には消えていないんだよ。悠音ちゃんが彼を解放した後も、神迎の神事は続けたせいかもしれないね。不完全な封印が残っているんだよ」

 だからこそ、しばらくのあいだ鬼が解き放たれたことに気付かなかったのだと、日向は苦笑する。

 その言葉に、悠音は思わず息をのんだ。

 あの太陽のように見えた"カギ"を壊した後も、まだあそこには実斐を封じる力が残っているというのだろうか?

「もちろん、不完全な檻だから紅鬼くんが封じられることはないと思うけど。諸々の状況や因果を考えるとね、その檻の欠片があるからこそ、在るはずのない君が今もここに存在できているんだと思うんだ。その源の水流が消えれば、君は元の時代へと還されるんじゃないかな」

 言いながら、日向は実斐の顔をじっと見やる。

 鬼を封じるための檻は、在るべきものをなくすことによって作られる。当時の禰宜が選んだ"鍵"はだった。

 だからこそ、完全に封印が解かれれば、そこに居た時間さえも無かったことになる。

「まあ、もちろんこれは僕の推測でしかないんだけどね。水流が消えかけていることを本能的に感じて、それを維持しようとその姿になっているんじゃないかな。まあ……それが意識的なのか無意識な行為なのかまでは、僕には分からないけど」

 鬼の姿はその力が具現化したものであり、それを保つのには甚大な妖力ちからが必要なのだということは、鬼を封じる藤城神社の宮司という役職がら、日向も知っていた。だからこその推論ともいえる。

「はあ? このような屈辱的な姿になってまで、何ゆえ我が水流を維持せねばならぬのだ。くだらない」

 心底嫌そうに眉をひそめて、実斐は腕組しながらぷいっと横を向いた。

「そんなことをしても我には何の益もなかろうが。そうまでしてに居る理由など、我にはない」

「ここには悠音ちゃんが居る。それがだろうかねえ?」

 出来ることなら鬼を悠音から遠ざけたいとは思うのだが、二人の様子を見ていると、必ずしもそれが良い事とは思えないから始末が悪いと日向は思う。

 目の前に佇む"人の姿をした鬼"は、態度や口こそ悪いけれど、伝説のような酷薄さも怖ろしさも感じられないのだ。

「でもなんで当時の禰宜は時の流れなんかを鍵にしたのかねえ。そんなものを鍵にして檻を作ったって、封印が解けたら元の時代に戻ってきちゃって封印が無駄になるって分かっているはずなのにね。破られない自信でもあったのかな」

 ご先祖様のやったことは理解できないとばかりに、日向は苦笑した。

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