第7話『暁の調べ』

第7話ー01

 鎮守の杜の最奥に在る射場に悠音と実斐が辿り着くと、暗闇の中、上弦の月の淡い光に照らされて弓を引く宮司の姿がぼんやりと浮かび上がって見えた。

 矢を頭上に掲げるように打ち起こし、きりきりと引き分けて顔の横へとおろす。右手を矢筈から離して射を行うまでの、ぴんと張り詰めた一瞬。

 今まさに、日向の体勢は『会』と呼ばれるその動作に入ったところのようだった。

「 ―― っ! 日向おじさん、待って!!」

 その凛々とした姿に、慌てて悠音は声を掛ける。

 日向は自分に一番最初に弓を教えてくれた師でもあり、その腕前は自分など遠く及ばない。彼ならば、この暗闇の中でも的を外すことはないだろうと悠音は思った。

 あの矢が的に当たれば、もしかすると実斐は封じられてしまうのかもしれない。そう思うだけでひどく胸が騒いだ。

「おや。悠音ちゃん」

 会の姿勢はそのままに。ちらりと肩越し悠音を振り返り、日向はにこりと微笑むように目を細める。そうして少女の背後に佇む"漆黒の髪の青年"の存在を認めると、微笑みが小さな苦笑に変わった。

「日向おじさん、あのね……」

「ああ、話はちょっと待ってて。この一本だけやらせてもらえるかな。それで終りにするからねえ」

 にこにこと明るい口調で話す日向はまるで緊張感がない。

 けれども視線を悠音から的に戻すと、穏やかだった眼差しは真摯な弓道家のそれに変わる。

 清廉な空気とでも言うのだろうか。同じく弓をやっている悠音としては、邪魔することが憚られるような雰囲気だった。

 だからといって、実斐を封じてしまうかもしれない射をむざむざと見過ごすわけにもいかない。だから止めるように、悠音は慌てて日向の腰に抱きついた。

「そっ、それが駄目なの!」

「わわっ。危ないよ、悠音ちゃん!?」

 その行動が自分のミスだったと気付くのに、たいして時間はかからなかった。

 悠音がいきなりとびついた勢いで日向の右手は矢筈から離れ、矢は鋭く空を切る裂音と共に飛んでしまっていた。

「あっ!?」

 タンっと小気味の良い音が静寂につつまれた夜の杜に響く。その音に、矢が的に命中したのだと分かって悠音はいっきに蒼褪めた。

「さ、実斐さんっ!?」

 大きな不安が脳裏に浮かび、悠音は叫ぶように振り返った。

 しかし ――  青年の様子にさっきと変わったようなところは特になく、ただどこか不機嫌そうな面持ちでこちらを眺めているだけだった。

「……ふん。何をひとりで慌てておるのだ? あんなもので、我を封じることなど出来ぬ」

 いつまでも神職の男にしがみついたままの少女を引き離すように、実斐はすっと手を伸ばす。

 彼女のそれが"鬼"を封じさせまいとしての行動だと分かってはいるのに、何故か不愉快な気分がわきあがって仕方がなかった。

「え……だってあれ、鬼封じの神矢じゃないの?」

 悠音はきょとんと目を丸くした。

「はは。さっきのは普通の矢だよ。最近は僕もいろいろ悩みが多くてねぇ。一度しっかり精神統一でもしようかと思ってここに来たんだよ。この時間で弓をやっても怒られない場所なんて、ここくらいしか知らなくてね」

 ひょいと肩をすくめて笑って、日向はぽんぽんと優しく悠音の髪を撫でる。

「でも、なんで悠音ちゃんは僕が鬼封じの神矢を使っていると思ったんだい?」

「それは……あの……」

 やんわりと穏やかな微笑みを浮かべた宮司に、悠音は思わず口ごもった。

 彼は既に実斐のことを気付いているのだとは思いながらも、やはり自分からそれを告げる気にはなれなかった。

 今、実斐の姿は"人間"とまったく変わりないのだ。かもしれないけれど、日向が気付いていないのならその方が良い。

「……ふん。分かっておることをわざわざくとは、ほんに性格の悪い男よの」

 実斐は忌々しそうに唇を曲げた。

 大腿部まで届く漆黒の長い髪が闇に溶け込むようにさらさらと風に揺れ、美しい顔を彩っている。嫌なものでも眺めるように日向に向けられた憎々しいまでに尊大な態度は、けれども優雅ですらあった。

「まあ、どう足掻いても、そなたごときが鬼を封じることなど出来ぬがな」

「……もうっ! 自分から正体をばらしてどうするのよっ!」

 己の立場も弁えず、日向に対して雑言を吐く鬼を殴り倒したい衝動に駆られながら、思わず悠音は叫んだ。

 これでは『自分を封じてみろ』と挑発でもしているようなものだ。わざわざ自分から危険を呼びこむような真似をせずとも良いものを……。

「何を言うかと思えば。こやつは既に我のことを知っておるのであろうが。今さら何を隠す必要がある?」

 実斐は呆れたように言葉を返す。

「だからこそ、そなたはこの神職に"頼む"と言うておったのではないか?」

「……うぅ」

 その言葉に悠音は更に頬を膨らませた。

 確かに実斐の言う通り、鬼封じをやめてもらおうと思ってここまでやって来たのだ。今さら隠しても始まらないことは分かっている。

 それでも ―― やはり躊躇ためらわれただけなのに。まったく人の心の機微を理解しない鬼に無性に腹が立った。

「もう、知らないもん。実斐さんがどうなったって、私には関係ないんだった。心配して損しちゃったわよ。さっさと日向のおじさんに封じられちゃえば良いでしょ」

 さっきまでは『絶対に封じさせない』と意気込んでいた気持ちも、いっきに吹き飛んでしまったように思いっきり悪態をついて、悠音はぷいとそっぽを向いた。

 本当に彼が居なくなってしまったら寂しいくせに、負けじと反論してしまう自分が可愛くないとは思う。

 けれども、もとはといえば実斐のためなのに、どうして自分がここまで気を揉まないといけないのか。あまりに理不尽に思えてしまうのだ。

「ふん。小娘がよう申すわ。そもそも、そなたが『居なくなるのは嫌だ』と言うたのであろうが。我は別に心配しろなどと頼んではおらぬわ」

 実斐は眉間に深い皺を寄せて、不愉快そうに悠音を見やる。そういう表情ですら美しいのだから、更に腹立たしい。

「なっ、なによそれっ!」

「ふふん。真実であろうが」

 売り言葉に買い言葉。静かな月明かりの下で、言葉の応酬と共に、むくれた少女と人を小馬鹿にしたような鬼の視線が互いに睨むように絡み合う。

 その ―― 刹那。

「くっ……あはははは……」

 ふと弾けるような笑い声がした。いかにも楽しそうに、明るい笑い声がしんと冷えた夜空に響く。

「ひゅ、日向おじさん!?」

 笑っていたのは日向だった。

 弓を片手に身体を捩らせるように大笑いしながら、彼は悠音と実斐の顔を楽しげに見やっていた。

「……なんだ? こやつ、気でも触れたか?」

 思いも掛けない宮司のその行動に、口喧嘩していたことも忘れて悠音と視線を交わし、互いに首を傾ける。

 日向がとつぜん笑いだした理由など、二人に分かるはずもなかった。


「あ、ああ。ごめんごめん。ちょっと……君たちの会話が可笑しくてね」

 二人がまじまじと見詰めると、日向はいったん笑いを止めてそう言った。

 やんわりと細めた目尻に笑い涙をためながら、それでもやはり収まらないというように、くすくすと肩を揺らす。

「……い、意外だったなぁ」

 千年もの昔は人々に怖れられていた冷酷で残虐なはずの鬼が、少女と同レベルで子供の喧嘩のような会話をしているのだ。笑うなというほうが無理な話だと日向は思う。

 つい先頃、神苑の大楓の下でこの鬼が、寝入る悠音の身体に狩衣を掛けているところを見た。

 安心しきったように眠る少女と、それを気遣う風情の鬼の青年の様子がどこか微笑ましくて。日向は彼女を迎えに行った本来の目的を遂行せずに、そのままこの射場に向かったのだ。

 本当は悠音が言っていたように、鬼を封じる対策にと思って『神矢』も持って来てはいたのだけれど、大楓の許で過ごす二人のほのぼのした様子を見てしまえば、手を出すことにも躊躇われた。

 だからこそ。神職の責務と人としての情の狭間で揺れる心を鎮めようと思って、ここで射を行っていたのである。

 心を落ち着かせるのに、弓はもってこいだった。

「この藤城に棲む"伝説の紅い鬼"が、まさか冷酷非道どころかこんなに子供じみた性格だったなんてねえ」

 くすくすと肩を揺らして笑いこける日向の正直な感想に、実斐の右の眉が不快げに跳ね上がった。

「まあ、さっきと違って鬼の姿はしていないようだけど」

 可笑しそうに実斐の鋭い視線を見返して、日向はやんわりと目を細めた。

「そうやって、人に化けることも出来るんだねえ」

「……え? 日向おじさんが何かしたんじゃないの?」

「うん? 鬼を人に変えるような能力ちからは僕にはないよ」

 とぼけた口調で笑う日向に、悠音はきょとんと目を丸くした。

 てっきり彼が何かをして実斐に影響が出たのかと思っていたのに、どうやらそうではないようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る