第140話 事変


 翌日の登校日。俺は起床してからというもの、複雑な思いを抱えていた。姉さんが作ってくれた朝食のトーストを齧りながら、初めての感情にどう向き合えばいいのかわからない。


 すると、姉さんが俺の向かいに座り同じくトーストを食べながら俺に目を向けて来た。



「あんたが寝坊するなんて、珍しいわね」


「……だよね」


「いや、寝坊ってほど遅いわけじゃないけど、あんたっていつも同じ時間に起きてきてたからさ。部屋に様子を見に行ったらぐっすり寝てたし。なぁに、夜更かしでもしたの?」


「いや、とくには」



 こんな俺でも、規則正しい生活が送れるように生活習慣にはかなり気を配っていた。そのおかげで、今まで病気という病気にすらかかったこともないのだ。だが、今日いきなり完璧ともいえる俺の生活習慣が崩壊した。



 いつもは決まった時間に目覚ましを掛けずともバッチリ起きれるのに、初めて眠気を引きずってしまっている。布団から出たくないという衝動に駆られるなんて、いったいいつぶりだろう。決して遅刻するという時間帯ではないのだが、まさかこんないきなり寝坊するなんて。



(というか俺、前に寝坊したのはいつだっけ?)



 そういって記憶を遡ってみるも、寝坊したという記憶そのものがこれまでの人生で存在しない。つまり、人生で初めての寝坊を経験しているという訳だ。



 普通に生活を送っている人にとっては何気ないことかもしれないが、俺にとっては新鮮そのものだ。ちょっとした焦りや羞恥心、そして心を平静に保つための感情の渦巻きが俺の胸中で起こっている。



(本来は、因縁の一つが片付いたことを喜ぶべきなんだろうけどな)



 俺の能力はほぼすべて父親から訓練された副産物であり、私生活にもその影響が色濃く出ているという訳だ。記憶としてはほとんど覚えていないが、体が自然と覚えてしまっている。


 もし父親の存在が最初からなかったら、俺は案外ずぼらな人間だったのかもな。


 そうして俺は朝食の食器を片付けて、部屋に戻って鞄を取って来る。すると、とっくに家を出たと思った姉さんがまだ椅子に座っていた。



「あれ、もう家出たんじゃないの?」


「言ってなかったけど、今日からあんたと一緒に登校するから」


「……は?」


「は? って何よ」



 突拍子もないことを言われたので気の抜けた声を出してしまい姉さんは不服そうに俺のことを睨みつけてきた。溜息をついた後、椅子からぬらりと立ち上がり俺の方へと詰め寄ってくる。



「あのね、世の中の兄弟姉妹は普通は仲良く登校する時期があるの。そして私たちは今がその時。おーけー?」


「お、おーけーぇ?」



 そう言って姉さんは俺の支度が終わっていることを確認すると玄関の方へと歩いて行った。途中で弁当を忘れるなという叱責をもらいつつ、一緒に玄関をくぐって外に出る。なんだかむず痒い感覚だ。



「というか姉さんって学校では有名人だし、もしかしなくても目立つんじゃ……」


「幸か不幸か、そんなことを言ってられる状況じゃないでしょ」


「それもそうか」



 そう言って俺たちは軽口を叩き合いながら同じ歩幅で学校を目指す。途中でもう一度SNSを確認してみるが、同じ高校の生徒と思われるアカウントのいくつかが不安だというコメントを残していた。やはり、理事長の不祥事が明るみになった余波は俺たち生徒にも大きな影響を及ぼしそうだ。


 そうしてしばらく姉さんと一緒に歩き続け流石に話題が無くなってきたタイミングで、こちらに駆け寄ってくる一人の少女がいた。



「あっ、センパイじゃないっスか! おはようございます!」



 金髪をなびかせながら来たのは相変わらず元気そうな七瀬だった。こいつも理事長の件は知っているだろうにこうも態度を変えないとは。さすがはモデルとして芸能界で切磋琢磨していただけのことはある。



「って、遥センパイもいるじゃないっスか!」


「……なに、私はおまけだと言いたいわけ?」


「いっ、いえ、そういうことじゃなくて~」



 威嚇する姉さんに思わずたじろぐ七瀬。七瀬と時折通学路で会うことはあったがほとんど俺一人だったからな。横に姉さんがいる光景にきっと違和感を覚えているのだろう。まぁ、かくいう俺も違和感が拭いきれていないのだが。



「七瀬さんはあの件を知ってるの?」


「あっ、はい。うちの理事長が搬送されて、色々ボロが出てる件っスよね」


「ええ。まったく、私たちを巻き込まないでほしいわ」



 姉さんの隣に七瀬が加わり、余計に目立つようになってしまった。しれっと距離を取ろうとするが、気づいた姉さんが俺のことを睨みつけるように見てくるので致し方なく先ほどと変わらない距離を取る。


 すると七瀬は今度は姉さんを跨ぎ俺に話しかけてくる。



「そういえばセンパイ知ってるっスか? 理事長の自宅が特定されたっぽいんスよね。なんかいろんな人が面白半分で突撃してるとか」


「ああ。画像付きでSNSにアップされてるのを今朝見た」



 昨夜の時点で随分と情報が出回っていたらしいが、こんな早朝からそんなくだらない写真を撮りに行くもの好きもいるらしい。こうなってくると世も末だと思えてしまう。


 そんなことを話していると、学校の門が見えて来た。いつもはいないのに、校門の前に教師が数人立っている。きっと理事長の件を受けて生徒に被害が及ばないように対策をしているのだろう。そこまでするなら休校にすればいいと思うのだが、どうやら進学校としての体裁がそれを許さなかったらしい。これはこれで炎上しそうな事案である。



「二人とも、今日は特に用心しなさい。今は大丈夫そうだけど、そのうち学校の方に突撃してくる迷惑なバカが出てくるから。そのときは全力で逃げなさいよ」



 そう言って俺たちは一緒に校門をくぐって上履きに履き替えた後、別れてそれぞれの教室へと向かう。廊下を歩く限りいつもと変わらない喧騒に思えたが、案の定話題はニュースになっている理事長の話がほとんどだった。廊下の話を聞いている限りでも事実と虚構がいい加減に織り交ざり、噂が尾ひれをつけて広まっているようだ。



 実は理事長は暴力団と交友関係を持っていたとか

 

 指定校推薦の枠を保護者に対して売買していたとか


 息子である信也は少年院に入っていたことがあるとか



(少なくとも、この学校の名声が地に落ちることは確実だな)



 地元では有名な進学校であるだけに、今回の一見は多くの生徒に影響を及ぼす。指定校の枠がなくなるかもしれないし、進学やいずれ訪れるであろう就職に悪影響を及ぼしてしまう。それだけあの理事長は教育界で大きな地位を得ていたのだ。



「……」



 教室の中に入ると、何か言いたげな雪花がじとっとした目で俺のことを見ていた。最初は無視しようかと思ったがあまりにも長い時間見つめられていたため仕方なく雪花の方へと顔を向ける。



「なんだ?」


「……その、少し話したいことがある」



「?」



 このタイミングで話したいこととなると、やはりこいつも理事長関係の話だろうか。それとも、現在どうなっているかわからない信也のことかもしれない。正直噂話に乗じるのはあまり好きではないが、雪花の婚約解消が信也にどのような影響を及ぼしているかわからない以上、多少の話はするべきか。



「わかった。とりあえず、廊下に出るぞ」


「……ベランダが空いてるけど?」


「……お前も、もう少し周りを見る目を培った方がいいだろうな」



 俺がそう言うと雪花がクラス中を見渡す。だが、俺たちのことを見ている奴らは誰もいない。怪訝そうに俺の方を見る雪花。だから俺は親指で窓の外を指してやった。俺が指さす先では、数人の男たちが遠目に学校を見ていた。



「あの辺でうろうろしている連中、だぶんマスコミの類だ。こっちにいつカメラを向けてきてもおかしくない」


「……っ!?」



 やはり、雪花は気付いていないようだった。姉さんや七瀬も気がついていないようだったが、朝からずっと学校の周辺を徘徊している大人たちがいた。スーツを着ていたので、最初は通勤途中のサラリーマンかと思ったのだが、一度も見たことがない連中だったので念のため警戒しておいた。俺がすれ違った奴らがいまだに学校の近くをうろついているあたり、案の定メディア関係の連中のようだ。



「……気づかなかった」


「話題の理事長の息子と婚約していた極道の女子高生なんて、いいネタだな」


「……廊下に行こう」



 そうして椅子から立ち上がり、俺と一緒に廊下に出る。普段は俺と雪花が教室内で一緒に行動することは滅多にない為もしかしたら目立つかと思ったが、今の状況ではやはり多少いつもと違う行動を取っても問題ないようだ。



(信也が学校に来ているかどうか、隣の教室を見てくるのもアリだな)



 そんなことを考えていたところで……



「おいっ」



 教室を出るのとほぼ同時に、誰かが話しかけてきた。ざわざわと多くの生徒が話しているはずなのに、やけに鮮明に聞こえるその声は、今まで聞いたことがないくらい暗い声色だった。



「……」



 そして、俺がそちらを見ると……



「見つけたぞっ、橘ぁ……」



 息を荒げながら狂気に染まった顔をする信也がいた。

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助けたはずの女の子たちに嫌われている俺、一人で生きることを決める ~でもおかしいな、あの時キミを救ったのは僕ですけど~ 在原ナオ @arihara0910

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