最終話 バスストップ

 その絵葉書を目にした瞬間、光喜はめまいを覚えた。あまりの驚きに心臓が早鐘のように脈打つ。そして、目をしばたたかせ彼女を見入る。


 絵葉書には油絵で小高い丘に咲き広がるひまわり畑の風景画が描かれており、風景画の下のメッセージ欄には、毎日のようにお見舞いに来てくれているお礼に続き、これからは大学受験に集中してほしいこと。そして、いつかアムステルダムのひまわり畑を一緒に見に行こうとのメッセージが書かれてある。


 それは光喜が入院中に聡美ちゃんに宛てて送った絵葉書だった。


 幼馴染みであり彼女でもあった聡美ちゃんは、時を重ねて可愛らしい女の子から美しい女性へと見事な変貌を遂げていた。

 同時に、それだけの歳月が流れてしまった事実を知ってしまい光喜は動揺する。痛みを感じるくらい心臓が激しく高鳴り、こらえきれず両手で胸を押さえた。


「その人はどうなったのかね」

 老人は心配そうに光喜の方ちらりと見ながら訊ねた。


「その人――病気で亡くなっちゃいました。まだ高校生だったのに。――彼って本当にナイスガイだったんですよ。たぶん彼を狙っている女子は多かったと思う。幼馴染みからやっと彼女に昇格できたのに、たった二年しか付き合えなかったんですよ。それに、毎日お見舞いに行ってあげたのに、大学受験前だからもう来なくていいとか冷たいことを平気で言うし。それから、一緒にここに行こうって約束をしておきながら、勝手に先に死んじゃうし・・・・・・」

 快活にしゃべっていた彼女の声がかすかに震えた。


 聡美ちゃんのことが本当に好きだった。――毎日、お見舞いに来てくれて献身的に授業の内容をオレに教えてくれた彼女。

 オレは大学受験を控えた彼女の足枷あしかせになってないだろうか。

 悪口とは縁遠い彼女の口から女子達の悪口が出たとき、彼女も大学受験のプレッシャーに潰れないよう懸命に戦っているのだと感じ取った。


 彼女のことを愛おしく想う。彼女のこれからを大切にしたい。――その想いが強ければ強いほど、彼女と瞳を交わし唇を重ねる度に、罪悪感が積み重ねられた。


 それは、心のどこかで自分にはもう未来がないことを予見し、彼女には明るい未来が開かれていてほしい。幸せであってほしい。――そう願ったからこそ、無意識に彼女を遠ざけてきたのではないか。


「その男は、お嬢さんをのことを本当に愛していたのだろう。そして、愛するが故に本心を語ることなく自ら身を引いた。――お嬢さんの本当の幸せを願って」

 光喜の心を代弁するかのように老人が語る。


「だから、ナイスガイすぎるんですよ! 始めてできた彼氏にそんなカッコいいことされたら、後々の恋愛に悪い影響が出るでしょ? おかげで、ここに来るまで相当時間かかったし」


「さて? どういうことかな?」

 彼女の言いたいことが、どこか割愛されたように感じられたため、老人は聞き返した。


「えっと。だから、これは私の卒業旅行なんです。――ずっと忘れることができなかった彼の事を忘れるための卒業。そして、ようやく忘れる決心がつきました」

 彼女は軽く瞳を伏せた。伏せた目線の先には左手の薬指で指輪が輝いている。


 ああ。そうか――。光喜の心に、彼女が誰かの大切な女性ひとになってしまったという一抹の寂しさと、彼女の幸せを見届けることができたという安堵感が同時にこみ上げてきた。

 そして、すっかり大人びた彼女の横顔を愛おし気に見つめる。


「ねえ、おじいさん。――ちょっと独り言を言ってもいい?」


 彼女はベンチからすくっと立ち上がり、瞳に大粒の涙を浮かべながら、悪戯っぽく老人に笑みを向けた。そして、自分を落ち着かせるかのように息を吸い込む。


「あのね。――光喜君。一緒にひまわり畑見ようって約束したのに、一人で来ちゃってゴメンね。光喜君が死んじゃって、それでもあなたを忘れることができなくって・・・・・・ずっと苦しい日々だった。――そして、幸せを求めているくせに、幸せから目を逸らすように仕事に打ち込んできた・・・・・・」

 言葉を詰まらせながら、大きく鼻をすする。


 光喜はベンチから立ち上がり、そっと背後から彼女を包み込むように抱きしめた。

 優しく、愛おしく、守るように。――そして、ありったけの愛しているを心に込めて。


「――けれど、ようやく私の事を見つめてくれる人と出会えました。私も彼とこれから先を一緒に歩んでゆきたい。――だ、だからね。・・・・・・光喜君、私はあなたとの思い出を、すべて忘れるためにここに来ました」

 彼女のあごが小刻みに震える。新たな一歩を歩みだすための決別だったのに、彼女の心は激しく揺さぶられる。


 泣きじゃくる子供をいたわるように、慰めるように彼女の頭を優しく撫でた。彼女の小さな頭から漂ってくる、昔から変わらないシャンプーの香りを感じ取り、思いがけず胸の奥から熱いものがこみ上げてしまい、呼吸いきができなくなる。


「ぐすっ・・・・・・ねえ、光喜君。お、お願いだからさ。――天国から降りてきて一緒に見ようよ。・・・・・・とても・・・・・・とっても、綺麗なんだよ」

 喉の奥から嗚咽が漏れた。小さな肩が震えている。頬を伝わる大粒の涙は、陽の光を受け輝きながら一粒また一粒と落ちてゆく。


 老人は慈しむように優し気な眼差しで、ただ彼女を見守る。


 ふと、彼女は涙で滲んだ視界の端に、ベンチの上に何かが落ちている事に気が付き、それを拾い上げた。


 それは四つ折りにされた一枚の紙だった。その紙には、箇条書きでリスト化されたものが書き連ねられており、それらすべてに二重線が引かれていた。


 老人は、彼女が手にした『やりたいことリスト』に書かれてあるがいつの間にか引かれている事に気が付き、はっと息をのんだ。

 そして、すぐに安堵したかのような満足げな表情で、ゆっくりと大きく頷く。


 彼女の背中を優しく包み込んでいた光喜の姿は、この地上せかいから消えていた。


「フフッ――おじいさん。・・・・・・やっぱり神様っているのかもね。――今ここで、この紙を拾うことができたのも、やっぱり神様のお導きなのかな」

 彼女は涙を拭いながら、大切そうに紙を胸に押し当て、くるりと老人の方を振り向いた。


 花が咲いたような――それこそ、ひまわりのように輝く笑顔で。


◇  ◇  ◇


 暗闇の中を一台のバスが走っている。暖炉の熾火おきびように暖かそうな灯りが照らす車内には光喜ひとりしかいない。


 このバスはどこへ行くのだろうか。――バスはヘッドライトをつけて走っているが、その先に何も照らし出されない。

 窓から見える景色は真っ暗というより闇そのもので、どこをどれくらいの速さでどこへ進んでいるのか皆目見当もつかない。


 分かっているのは、バスがまっすぐ前を進んでいるという感覚だけだ。


 凛とした面持ちで光喜は前を見つめる。

 停車しないバスはない。バスは常に目的地を目指して進む。そして、バスが止まり降りたそこは終点ではなく、今度こそ起点なのだ。


 光喜は希望を宿した瞳で、力強く闇の先を見詰める。必ずやって来るみらいを信じて。


~おしまい~



 最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。 

 作者:Cockatielsより

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バスストップ Cockatiels @paruhaku

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