第6章 謎の富豪夫人 最終話 57

「シェリー」とその人は言った。

 シェリーは目を開いた。

「レオナルド……」


 そこにいたのは、レオナルド・カトラル伯爵だった。灰色がかったブルーの燕尾服を着て、黒のシルクハットをかぶっている。胸のポケットには赤いバラがささっている。


「今日の昼食会には、私も招かれている」

 もうひとりの招待客とはレオナルドだったのか。

「なぜ? なぜあなたが……」


 シェリーはこの現実に困惑していた。信じられない。これは春の妖精のいたずらなのだろうか。

 レオナルドは緊張ぎみに真剣な目を向けた。

「クレア・オルコットは私の母だ」

「それってことは……」シェリーは胸が熱くなり言葉が出てこなかった。

「クレア・オルコットは親父おやじの愛人だった。だから、社交界には出入ではいりしていなかったんだ」


 シェリーはようやく理解することができた。これまでオルコット夫人が世間に知られなった理由は、前カトラル伯爵の愛人だったからだ。


「母は、私のために君に手を差し伸べた」

 それはなにを意味するのだろう。

「なぜなの?私とあなたは、もう終わっているのよ」


 レオナルドは照れくさそうに下を向いた。

「カトリーナとの婚約は破談になった」

「破談?」シェリーは驚いて声を上げた。


「実は…… 私の悪い噂が流れてね。なんでも女癖が悪くて、とてもじゃないがまともな結婚なんてできる人間じゃないとか言われたらしい。それで、コルトハード大公とカトリーナに呼び出されて、それは誠の話なのかと迫られてしまった。私はこう見えても正直な人間だから、いやあ、まったく申し訳ない。すべては真実ですと言ったんだ」

「なんてことを……」


「しかもコルトハード大公は、シェリーとかいう娘の愛人がいるそうではないか、と問い詰めるんだ」

「私のことが」シェリーは驚愕した。


「そこで私は、はいそうですと答えた。その娘はすでに、身ごもっていまして、もうすぐ子供が生まれてきます。我がカトラル伯爵家では愛人の子だろうが、妻の子だろうが最初に生まれた男子が後継ぎになるので、その子が男子なら私は次期カトラル伯爵とするつもりですと言ったんだ。そうしたら、カトリーナはショックで気絶してしまうし、コルトハード大公はカンカンになって怒り出し、婚約話は壊れたというわけさ」


 レオナルドは愉快そうに笑った。

「レオナルドどうしてそんな嘘を…… コルトハード大公を怒らせてどうするの? 困らないの?」シェリーにはわけがわからなかった。


 レオナルドはシェリーに近づくと、彼女の目をじっと見つめた。

「君と別れてから、いろいろと考えた。このまま結婚できるのかと…… 私は子供のころから伯爵として生きることを学んできた。結婚は政略的なものであり、愛人は慰めと子供をもたらすと教えられた。だから恋とは戯れにするものだと。でもね。そんな生き方は、どうも私には向かないということを感じたんだよ。カトリーナと暮らしていても、結局君を追いかけまわすことになりそうだとね」

「レオナルド……」


「だから、決意した。国王陛下にすべてを話した。このままではカトリーナ嬢を幸せにする自信はありませんってね」

「陛下に…… ?」シェリーは驚いた。

「国王陛下は寛大な方だ。すべてを理解してくれた。そして、それでは致し方がない。ただ、そなたがカトリーナを断るのではなく、プライドの高いカトリーナのために、彼女からの申し入れにより破談とするようにと言われたんだ」

 そのとき国王はレオナルドにそっとささやいた。そなたの本性を知れば、カトリーナはきっと嫌気をさすことになるだろうと。

 レオナルドは思わず笑った。


「だいたい私の評判は悪いからね。わざとスキャンダルを流したら、あっというまに広がってしまったよ。おかげで、やっと自由の身になれた。カトリーナはそのうち、彼女に似合う男があらわれると思うよ。それまでは、コルトハード大公が怖いから、宮廷には行かないつもりだけどね」


「レオナルド……」シェリーの頬に涙が流れ落ちた。

「いつか君が言っただろう。あなたのお母さまは幸せだったのかと。あの言葉は効いたよ。愛人として生きた母の苦しみを知っていたからね」

 シェリーはあのときのレオナルドの苦しそうな表情を思い出した。

「ひどいこと言って、ごめんなさい……」

「いや、おかげで君の気持ちもわかったんだ。それで、あらためて母に幸せだったかと聞いてみたんだ。母は権力づくで親父おやじの愛人にされたから、親父は好きになれなかったが、私をさずかったことにより、ようやく幸せになれたと言った。だが、シェリーの人生をそんな愛人の惨めなものにすることはだめだと、私をさとした。それに、彼女は絶対にそんなことは受け入れないだろうと」


「オルコット夫人が……」

 シェリーは夫人の優しさに心を熱くした。

「シェリー、初めて会ったときは、ほんの少女だったのに、いつのまにか私のほうが振り回されていたよ。こんなことになるんて、思いもよらなかった。ジェフ・クロスリーと君が親密になり始めたことを知ったときは、気が狂いそうだった。もう君を誰にも渡したくないんだ」


 レオナルドはそう言うと、その場にひざまずき、胸の赤いバラをシェリーに差し出した。

「愛する人よ。私の妻になってほしい。さもなくば、この命を絶つしかない」

 レオナルドの態度にシェリーはしばし戸惑った。

「シェリー、君がうんと言うまで、ここを動かないからね。そうしないと、コルトハード大公への嘘がばれてしまう」


「本気なの…… ?」この彼を信じていいのだろうか。

「これ以上の真実はない。君は私の人生にとって、かけがえのない女性なんだ」

 レオナルドはいっそう真剣な顔になった。


 カトラル伯爵は本気なのだとシェリーはようやく確信した。

 シェリーは決意した。彼女は顔をバラ色に染めて、静かにうなずいた。

「お受けします」


 レオナルドは安心して立ち上がると、胸の内ポケットから小さな箱を取り出した。

「これは代々カトラル伯爵家に伝わる指輪だ。歴代の伯爵夫人がはめていた。君に合うように直しておいたが、はまればいいのだが……」


 レオナルドは、小石ほどもあるサファイアの指輪を取り出した。シェリーの左手を取ると、薬指に指輪をはめた。みごとに、指輪は薬指にはまったのだ。

 青いサファイアの両側には、ダイヤモンドが輝いている。


「婚約発表は、聖アナベラ祭のときにするつもりだ」レオナルドは嬉しそうに言った。

 シェリーは気がついた。そのときに、カトラル伯爵家ではお祝い事があると、オルコット夫人が言っていた。

「あなたはそのつもりだったの?」

「そうだよ。母と話し合っていた。聖アナベラ祭で、君との婚約を発表して、例のアシュビー家のワインを皆にふるまおうとね」


 シェリーは夢のような幸福に、めまいがしそうだった。彼女はあふれる涙をぬぐうと、指輪を眺めた。

 レオナルドは、シェリーを優しく抱き寄せた。

「その指輪は、これまで権威の象徴にすぎなかった。だが、これからは愛の象徴となり、真実の意味においてカトラル伯爵夫人の指輪となる」

 レオナルド・カトラル伯爵は、自信に満ちた笑みを浮かべた。



                 了





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ロルティサの娘とわがままな伯爵 槇野文香 @jyurak2571a

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