わたしの姉さん

尾八原ジュージ

昭和三十八年 九月某日

 あなた、小説家の先生なんですってね。

 お客さんが来るって聞いたとき、わたし初めは「先生」とだけしか耳に入らなくって、てっきりお医者さんのことだと思ってしまったの。ぼーっとしているもんだから、よくそういう勘違いをするのよ。昔っからそうなのよね。ねぇ、姉さん。

 でも先生は、あえてそのわたしから話を聞きたいっていうんでしょう? 姉さんの方が頭がいいから、わたしよりもずっと上手にお話しできると思うんだけど……その前にわたし、どんなことを話せばいいのかしら?

 え? この新聞に載っていることについて? あら、わたし新聞に載っているの? いやだ、これ本当にわたしのことかしら? でもねぇ、この時のことはもう、何度もお話ししたのよ。

 でも先生は遠いところからこんな田舎に、取材のためだけにわざわざ来たのよねぇ……じゃあ、いいわ。わたしなんかの話でよければ、聞かせてあげましょうか。

 でもわたしが話すこと、みんなはおかしいって言うのよ。わたしは大真面目なんですけど。

 だから先生、どうか途中で笑ったりしないで聞いてちょうだいね。

 

 ええと、まずわたし、姉さんのことからお話ししたいわ。そうでないと、わたしがどうしてこういうことをしたのか、わかってもらえないんじゃないかと思いますから。

 そら、そこにいるのが姿子しなこ姉さん。わたしよりも五つ上で、今年で二十歳よ。

 妹のわたしが言うのも何だけど、とっても美人でしょう。色が白くって、髪が黒くてまっすぐで、顔立ちだってお人形みたいでしょう?

 あら姉さんってば、笑ってるわ。だって、本当のことですもの。わたし、まだまだ姉さんの自慢話をするつもりなんですから、覚悟しておいてちょうだいよ。

 姉さんはきれいなだけじゃなくって、とても頭がいいのよ。わたしは何をやっても普通なんですけど、姉さんは勉強だったら学校でいつも一番なの。だから東京の大学へ進むことになったのよね。女の子が大学へ、しかもこんな田舎からなんて、めったにないことでしょう? そりゃもう大事件だったわ。

 わたし、あの時は全身が涙になって溶けちまうんじゃないかと思うくらい泣いたわ。今までずっと一緒に暮らしていた姉さんが、遠くに行きたいって言うんですもの。

 もちろん、父さんと母さんだっていい顔はしなかったわね。けれど、うちにお金がないわけでなし、それに姉さんがどうしてもと言うでしょう。結局折れて、兎にも角にも試験を受けさせることにしたのよ。

 ええ、もちろん合格してよ。それでわたし、泣く泣く姉さんを東京に送り出すことになったのです。


 そうやって大騒ぎして送り出したんですけど、結局姉さんは、ほんの一年ほどで家に戻ってきてしまったの。

 姉さんは頭はいいんですけど、昔から体が弱かったのよ。それでも入学した頃はまだよかったんですけど、東京で過ごしているうちに、元からよくなかった心臓の具合が、いよいよ悪くなってきてしまったのね。

 母さんは、病気が重くなったのは都会へなんかやったからだと言っていたわ。でも、姉さんはこの頃、きっと自分は若くして死ぬだろうと諦めていたのよね。だから生きている前に広い世間を見たかったのだわ。そうでしょう? 姉さん。ほらね。

 帰ってきてからの姉さんは、しょっちゅう胸を押さえて、顔を青くして、とても苦しそうにしていたわ。でも大学の授業で習ったといって、よく聖書を読んでいたっけ。

 何が書いてあるのか教えてもらったけれど、わたしにはキリストさまの教えがよくわからなかったわ。ええと、わたしもちゃんと覚えてはないんですけど、確かこの世で苦労するひとは幸いだっていうようなお言葉があるでしょう?

 わたし、それが全然腑に落ちないのよ。

 だって、つらいことなんかない方がいいもの。天国で救ってくださる神さまよりも、生きているうちに助けてくださる神さまのほうがわたし、ずっと好きだわ。

 姉さんのつらそうな顔、わたしはとてもじゃないけど見ていられなかった。姉さんが天国に行くのなんか待っていられなかった。

 だからわたし、姉さんの部屋に「神さま」を隠すことにしたの。


 神さまっていうのはもちろんキリスト教の神さまではなくって、うちで拝んでる神さまのことよ。とても霊験あらたかだから大切にしなきゃいけないって、わたしたち、小さい頃からよく聞かされてきたの。

 なんでもむかしむかし、うちがおかいこさんを始めたばかりの頃よ。そのときの当主だったご先祖さまが、家の裏で小さな白蛇を捕まえたんですって。それがとてもきれいな蛇だったので、ご先祖さまは籠に入れて大事に飼っていたの。

 ところがあるとき、そのひとの夢に大きな白蛇が出てきて、「私の眷属を返してほしい」と頼むんですって。ご先祖さまはそこで、返してやるからうちに出る鼠を喰ってくれと言った。すると白蛇が「あいわかった」と答えて、それで夢から醒めたのですって。

 小蛇はなぜか籠からいなくなってきて、代わりに大きな蛇の抜け殻が落ちていたそうなの。ご先祖さまはそれを丁寧に畳んで、きれいな漆塗りの箱にきちんとしまって、それからそれを、神棚にあげておいたのですって。

 そしたら、それからうちにはめっきり鼠が出なくなって、せっかく育てたおかいこさんを食べられてしまうことがなくなったの。それに事業が大きくなって、どんどん家が栄えていったんですって。

 ご先祖さまはとてもありがたがって、屋敷の庭にお社をつくって、そこに蛇の抜け殻を置いて、毎日拝むようにしたんですって。それがうちの「神さま」なの。村のひとたちも「三輪さんの蛇神さま」って呼んで、わざわざ遠くから拝みにくるひともいるくらいよ。おかいこさんの守り神ということでお祀りしたから、拝みにくるのもおかいこさんを飼ってるひとが多いみたい。

 そういえば姉さん、わたしにいつだったか、よその土地のおかいこさんの神さまの話をしてくれたことがあったわね。

 確かオシラサマっていうんでしょう? 人間の娘さんと馬が結ばれて夫婦になるお話。その二人がオシラサマって神さまになったのよね。

 姉さん、この話が好きなのよね。そら、うなずいた。わたし、小さい頃からずっと一緒だったんですから、姉さんの好きなものは大体わかるのよ。

 あら、話がそれてしまったわね。ごめんなさい。とにかくうちの神さまは、霊験あらたかなありがたい神さまだっていう話なんです。

 これはわたしが生まれる前の話だけど、生糸があんまり売れなくなったときも、この神さまのおかげで乗り切ったんですって。わたし、おじいさんやおばあさんから耳にタコができるくらい聞かされたわ。今だってうちにはおかいこさんがいっぱいいるし、毎日そりゃ忙しいのよ。今の時期だったら桑の葉をトラックにたくさん積んで、朝から晩まで何度も何度も往復して運ばなきゃならないの。

 そんな風にありがたい神さまですから、わたし、神様はきっと姉さんのことも救ってくださるだろうと思ったのね。


 大学をやめて家へ戻ってきてから、姉さんは自分の座敷で寝てばかりいたわ。でもわたしが訪ねていくと、姉さんはいつだって布団の上に身を起こして出迎えてくれたわね。

 わたしに本を読んだり、東京であった面白い話をたくさんしてくれて……姉さんの体にさわっちゃいけないと思うんですけど、わたし、いつも涙が出るほど笑わされてしまったわ。

 こんなに優しくてきれいな姉さんが、どうして若いみそらでこんなに苦しい思いをしなきゃならないんだろうと思うと、わたし、とてもつらかったわ。もちろん庭のお社には毎日参って、姉さんのことをお願いしていたんですけど、それでも姉さんはよくならなかった。

 でもわたしは、この家を大きくしてくださった蛇神さまなら、姉さんのこともきっと助けてくださるだろうと思ったのね。そのためにはもっと近くで、姉さんがどんなにすばらしいひとか神さまに知っていただかなきゃだめだって、そう思ったの。

 だから夜にこっそり、お社から御神体の入った箱を取り出したのよ。箱の中には、本当に大きな蛇の抜け殻が収められていたわ。それをそおっと別の箱に入れ替えて、元の箱はお社に戻して。

 そうやって持ち出した神さまを、姉さんの部屋の天袋に隠したの。わたし、これできっと姉さんはよくなるだろうと思ったわ。


 そしたら姉さんは、それから本当に少しずつ体の調子がよくなっていったの。お医者さまがびっくりしていたくらいよ。わたしはそれを、わたしが神さまを姉さんのところに動かしたおかげだと思って、内心鼻が高かったわ。

 でも同時に、姉さんの様子が少しずつ変わっていったの。前から抜けるように色が白くって、唇が真っ赤ではあったんだけど、何ていうんでしょう、それがなんというか、ぞっとするような美しさになったの。

 前はもっと触れたら壊れそうな、硝子細工のような感じの人だったのに、いつのまにかもっとしっとりとして、しなやかで……そう、蛇のような感じになったのだわ。それでも体の調子がよくなったことには変わらないので、家のものはみんな喜んだのよ。わたしもこの頃はまだ無邪気に喜んでいたっけ。

 元気になると、姉さんには縁談が次々に舞い込むようになったわ。美しくて賢くてお金持ちの娘なんですから、当たり前よね。

 でも姉さんは、どんないい人からの縁談がきても、きっぱりと断ってしまうの。体がすっかりよくなったわけではないから、嫁いだ先で迷惑をかけてはいけないと言って譲らないのよ。

 でもそういうとき、姉さんはいつも唇の端っこにいたずらっぽい笑みを浮かべていたの。それは姉さんが、何かを隠しているときの顔なのよ。ねぇ、姉さん。

 それでわたし、ふたりっきりになったときに聞いてみたの。姉さんが縁談を断ってしまうのは、ほんとはどうしてなのって。

 そしたら姉さんはほっそりした人差し指を唇の前に立てて、「では、たか子になら教えてあげる」と言ってね、わたしに耳打ちをしたの。

 私が結婚しないのは、操を立てた方がいるからです、って。

 驚いたんですけども、そうじゃないかとも思っていたわ。だって姉さんは東京に一年もいたんですから、その間にどんな素敵な方と出会っていたって不思議ではないでしょう? でも姉さんに聞くと、そのひとは東京のひとではないって言うのです。それ以上のことはわたしにも教えてくれないのよ。

 わたし、その相手のひとにひどく嫉妬したわ。だって、そのひとは姉さんに縁談を全部断わらせて、その理由も内緒にさせて、そこまで姉さんに尽くさせて――そんなひと、今までひとりもいなかったのだから。


 姉さんの体調がよくなってきたのと、確か同じ頃からだったわ。住み込みの女中がおかしなことを言い出したのよ。

 最近姿子お嬢さんの様子がおかしいって。

 何でも夜中に姉さんの部屋の近くを通りかかると、中からひそひそ話すような声が聞こえるんですって。姉さん以外は誰もいないはずなのに、まるで誰かとお話ししているような調子で、しかもそれがなんとも嬉しそうなんで、ぎょっとしてしまうんですって。

 わたし、試しにそのことも姉さんに聞いてみたのよ。でも姉さんったら、「夜中に誰もくるはずがないでしょう」って、その一点張りなのよ。でも唇の端っこは小さく笑っていたから、わたし、姉さんがまた何か隠しているのだとすぐにわかったわ。

 わたし、きっと姉さんの「操を立てた方」が、夜中にこっそり来ているんだと思ったの。それがどんなひとなのかどうしても知りたくなって――わたしはある夜、姉さんがお風呂に入っている間に、そっと姉さんの部屋の押入れに隠れたのよ。ごめんなさいね。どうか許してちょうだいな、姉さん。

 そしてそのまま、じっと息を潜めて待ったの。

 少し経って、姉さんがお風呂から帰ってきたわ。撫子の浴衣がよく似合っていたっけ。寝る支度を終えて、電気を消して、部屋の中が暗くなった。でも月がとても明るい晩だったから、障子の向こうから光が差していたの。それで部屋の中がぼんやりと見えていたわ。

 わたしは押入れの中で、襖を細く開けたまま、誰かが来るのをじっと待っていたの。でもだんだん眠くなって、ついうとうとしたりして、どれくらい経ったかしら――

 すらっと、襖が開く音がしたの。

 でも、部屋の襖じゃなかった。その音はわたしの頭の上から聞こえたの。あとで気づいたんだけど、あれは押入れの上の、天袋に通じる小さな襖が開いたのに違いないのよ。

 そして、わたしが細く開けた押入れ襖の隙間を塞ぐように、とん、と何かが降り立った。

 それは濡れたような黒髪を長く垂らして、肌の真っ白な、見たことがないくらいきれいな男のひとだったの。暗い部屋の中なのにそのひとの姿だけははっきりとわかって、ひとめでこの世のものではないとわかったわ。だって、着ている絹の白い着物に鱗模様が織り込まれているのさえ見えたのよ。

 そのひとが姉さんのお布団にするするっと近づくと、姉さんは布団の上に起き上がって、にっこり微笑んだの。それで――

 何があったか、先生にも大体おわかりでしょうね。こんなことわたしの口から、しかも姉さんの目の前でなんか、詳らかにお話しできるようなことじゃないわ。そうでしょう? ともかくわたし、ふたりは誰も知らないうちに夫婦になっていたのだと、このとき知ったのよ。

 あのときはわたし、夢を見ているような心地だった。布団の上で、大きな白蛇が二匹絡み合っているように見えたわ。そのうち姉さんの顔がこっちを向いて――わたし、ぞっとしてしまった。

 姉さん、笑っていたの。わたしが一度も見たことがないような顔で、赤い唇を横にニィッと広げて、笑っていた。

 そうだったわね、姉さん。


 そんなことがあってから、わたし、このままではいけないと思うようになったの。

 あの真っ白な肌といい、鱗模様の着物といい……あの男のひとはきっと、蛇の神さまなんでしょう。わたし、姉さんを気に入って助けてくださったらいいとは確かに思ったけれども、姉さんをお嫁さんにしてもいいとまでは思わなかった。いくら神さまでもあんまり勝手すぎるじゃないの。そうじゃなくて?

 わたしはまた隙を見て、箱の中身をお社に戻しておいたわ。でも姉さんの様子は変わらなかった。あの男のひとは毎晩変わらず通ってきたのよ。きっとふたりの間にはもう、強い縁が結ばれてしまっていたのね。

 本当よ。わたし、何度か押入れに隠れて確かめたんですから。まぁ姉さんったら、そんなに怒らないでちょうだいな。わたし、姉さんのことが本当に心配だったのよ。

 確かに姉さんはどんどん元気になったわ。肌には血の気が戻って、お顔が艶々として、だけどもう前の姉さんではなかった。きれいだけど生々しくて、どこか怖ろしくさえあったわ。

 姉さんの笑顔を見るたびに、わたし、夜に人の姿を借りてやってくる神さまのことを思い出した。あの男が姉さんを変えてしまった。わたしの姉さんを――いざ目の当たりにすると、本当に許しがたいことだと思ったわ。

 わたしの胸の中ではいつも焔が燃えているようだった。それは日に日に大きく、めらめらと燃え盛っていったの。


 それであの日、わたしはまた何度目かわからないけども、姉さんの部屋の押入れに忍び込んだの。

 藪こぎに使う鉈を一丁持ってね。

 真夜中になるといつもの通り、廊下に面した襖がすらっと開いた。そしてこのくらい、わたしの掌くらいの細おい隙間から、あの男の人がするっと、幽霊のように入ってきたの。

 姉さんは布団の上に起き上がって、にこにこ笑っていたわ。着ていたものを脱いで、跪いた男の首にすんなりした腕を回して、いつものように抱きあい始めた。わたしはそれをじっと眺めながら、機会を待っていたの。

 そして男の背中が完全にこちらを向いたとき、わたしは鉈を握って押入れから踊り出た。そしてその頭めがけて、鉈を思い切り振り下ろしたの。

 姉さんの悲鳴が聞こえた。でもわたしは夢中だった。胸の中で焔が激しく燃えていたのよ。わたしは倒れた男に馬乗りになって、何度も何度も鉈を振るった。

 気が付くととても静かになっていたわ。わたしの手は膠で固めたようになって、まだ鉈をぎゅっと握りしめていた。

 そしてわたしの下には男のひとでなく、姉さんが倒れていたの。血がいっぱい出て、顔が真っ赤になっていた。男はどこにもいなかったわ。

 わたしが大声で泣いたり叫んだりしていたら、家中から人が集まってきた。それからお巡りさんがわたしを家から連れ出して、あちこちへ行ったんですけど、結局この病院に入れられることになったの。

 それからずっとわたし、ここの病室に閉じ込められているのです。でもちっとも嫌じゃないわ。こうやって姉さんが、ずっと一緒にいてくれるのだから――


 どうかしら先生。おかしなお話だったでしょう? みんなそう言うのよ。

 そんなきれいな男なんかこの辺りにいるはずがないし、第一姉さんだって死んでしまって――わたしが鉈で殺してしまったのだから、こんな病室になんかいやしないって言うの。

 あら、先生もやっぱり見えていないの? 姉さんのこと。今までわたしに話を合わせていたんですって? 嫌ぁねぇ。

 そら、あそこの天井の隅をよくご覧なさいよ。天井板がずれたところから、姉さんがこっちを見ているでしょう?

 さっきからわたしたちを見て、にこにこ笑っているじゃない。

 きっと姉さんはただ死んだんじゃなくて、神さまになったのよ。オシラサマの話では、馬を殺された娘が、死んだ馬の首に乗って天にのぼるのでしょう? そしてふたりで神さまになったのでしょう?

 姉さんだって、蛇の神さまといっしょになったに違いないのよ。わたしは姉さんを殺したんじゃなくて、神さまにしてあげたんだわ。だから姉さんは、わたしをずっと見守っていてくれるのよ。

 ねぇ先生、本当によく見てごらんなさいよ。あそこにいるのがわたしの姉さん。

 とってもきれいでしょう。

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