恋知らずのほろにがケーク 肆

 最初に見つけたのはフライパンだった。


「お前の家、フライパンがあるなんて珍しいな」


 フライパンはつい最近、巷の店に並ぶようになった代物だ。洋食を作るときに欠かせない道具で裕福な家に見かけるようになったが、普通の家ではまだ馴染みがない。


「父ちゃんが、新しいもの、好きだから」


 杏はどう答えていいか分からず、それで止めておいた。父は洋菓子を目の敵にするが、舶来品には目がない。すぐに新しいものを試す父を母は怒る所か、率先して使おうとする。フライパンを例に上げるならば、大豆を炒るのにちょうどいいのよ、と嬉々として使い、兄は使い方が違うと嘆く。杏は使えればいいじゃないかと眺めていた。

 これで代用するか、と事情を知らない克哉は顎に手をあて裏表を確認する。そして、竈の脇に置かれた銅板を指差した。


「これも使っていいか」


 何に使うかわからないが、杏は首を縦に振った。

 元々はどら焼きを焼くのに使っていたが、傷がついてきたからと捨て置かれたものだ。今は竈に合わない小鍋を使う時、底板として使われている。

 いけるな、と克哉の口端をつり上がった。

 何かを企む小僧のように見えた杏は後ずさる。

 上着を脱ぎ、腕まくりをした克哉は慣れた様子で銅板を洗い、こね鉢を取った。杏のことなど目に入れず、焦げた鍋を前にして瞳を輝かせている。


「失敗しても文句はないな」


 確認されても、焦がした杏には文句を言う資格はない。小さな口を引き締め、大きく頷いた。

 フライパンを筆頭に使い古した銅板、こね鉢、木べらを台に並べた克哉の瞳が杏を捕らえる。


「小麦粉と卵、塩、砂糖、それから油と水を準備してくれ」


 杏は言われた通りに作業台の上に材料を並べた。その合間に、背の高い机があれば楽なんだがなぁとぼやく声が聞こえるが、和菓子屋に求められても困る。正座して、作業台で真摯に菓子と向き合うのが父の仕事だ。

 作業台の向かいにあぐらをかいた洋装の男。確かに違和感があるが、我慢してもらう他あるまい。

 異国の台所に興味が沸いた杏がそれを想像する暇はなかった。克哉が菓子作りを始めたからだ。

 こね鉢に小麦粉、砂糖、一摘まみの塩を入れ、中央に底が見える程のくぼみをあける。油と水、卵を穴に流し入れ、それだけを馴染ませた。混ぜ終えた液体と粉をだまになるのも気にせず混ぜ合わせ、塊を作っていく。一つになった生地を半分に切っては重ね、軽く掌で合わせて切っての繰り返し。まとまりの悪いそれを鉢から取り出し、丸い形に綿棒でのばす。

 瞬く間に作るその姿は菓子職人を生業なりわいにする父と寸分変わらなかった。

 克哉は息つく暇もなく、煮詰めすぎたりんごを鍋からフライパンに移す。焦げは削ぎ落とさず、上部だけを掬い上げ敷き詰める。フライパンの淵、七割の高さまでくると、それに丸くのばした生地を被せ、はみ出たものは内側に押し込んだ。

 また煮詰めるのかと杏が克哉の気を疑う前に、フライパンの円に銅板が重ねられた。

 立ち上がった克哉はフライパンを持ち竈に向かう。上のかけ口ではなく、下の焚き口にフライパンを突っ込み、火から少し離れた場所に置いた。

 えも言えぬ杏を放ったまま、銅板の上には燃えかすが乗せられる。


「こんなもんだろう」


 腰に手をあてた克哉の背は堂々としていた。

 目がこぼれ落ちそうな程に見開いた杏はかける言葉が見つからない。


かまがないから代用だ。言っただろう。補償はしないって」


 職人のような手さばきを見せたとは思えない、呆気からんとした発言だった。

 二十分程かな、と克哉が懐中時計を確認する。そうしたかと思えば、台所を見渡して不思議そうに頭を捻った。


「時計がないのに、どうやって時間を計るんだ」


 訊かれたことに杏も小首を傾げる。菓子作りには時間を計るものが必要なのか。窯を使わない大胆な代用と噛み合わないが、重要なことなのだろう。

 和菓子作りを含め、料理をする時は時間を計らない。基本は鍋の様子や音を見るだけだ。父も母もそうしている。

 あえて計ると言うならば、杏は一つしか方法を知らなかった。馬鹿にされるかもしれないと思いながら、口を開く。


「時間の分だけ、唄を歌います」

「へぇ。どんな歌だ?」


 上がりかまちに腰を下ろした克哉が問いを重ねた。

 杏は上手い説明が思い付かなくて、座ったまま振り替える克哉の視線を避け続ける。


「難しい曲か?」

「いえ」

「じゃあ、歌ってみせてくれ」


 見ないのようにしてやるから。そう言った克哉は正面に体を戻し腕を組んだ。

 遠くから聞こえる烏の声が静寂さを際立てる。

 克哉を待たせるわけにもいかないが、杏は歌いたくない。声がひっくり返ったら、音を間違えたら、息が続かなかったら。悪い方にばかり思考が転がる。


「好きに歌えばいい。歌を聞きたいだけだから」


 まごつく杏の背を克哉の言葉が押した。

 ただの歌だ、と杏は自分に言い聞かせ、震える声に音をのせる。

 母に習った短い歌だ。穏やかな音が流れ、哀愁を垣間見せる。小さな声で綴る言葉は故郷への想いが込められていた。

 約束通り、克哉は背中で聞いていた。小さな声ではあるが、二番まで唄うことができたのは余計な気を回さずに済んだおかげだろう。


「それ、英国で聞いたことがあるな」


 短い歌を唄い終えた杏にかけられたのはそんな言葉だった。にわかに信じがたく、眉間に皺をよせる。


「母ちゃんに、教えられました」


 言葉の通り、生まれも育ちも海を越えたことのない母から杏は教わった。

 膝を乗り上げ振り返った克哉は面白そうに笑っている。


「意外とな、遠い異国は近いんだ。音楽や文化みたいな形のないものが、いつの間にか住み着いてる。なぁんてこたぁ、ざらにある。まぁ、何処で聞いたか忘れてたら意味がないんだが……それで、何分計る時に使うんだ?」

「……知りません」


 分と単位がわからない杏の答えに一言唸った克哉は、もう一度唄ってみろと背を向けた。手には懐中時計が握りしめられている。

 一度歌ってしまえば、緊張はほとんどなくなった。杏は前よりも幾分か大きな声で同じ歌を繰り返す。

 あいもかわらず、克哉は背を向けたまま懐中時計を見下ろしていた。歌が終わると振り返る。

 

「一分ぐらいなもんか。アン、小さな声でいいから七回唄ってみろ。そうしたら、焼き上がる」


 楽しそうな声に杏の気分も上がる。人前で歌うのが苦手なのも忘れて、音を追いかけた。

 回を増すごとに、台所には甘やかな香りが立ち始める。香ばしい匂いも隙間を埋めるように広がった。アップルパイと似た匂いに杏は心が踊る。

 きっちり七回唄い終えると、あたりは夕食前の腹を刺激する香りで満ちていた。

 機嫌よく克哉が立ち上がり、銅板の燃えかすをどける。濡れた布巾で慎重に持ち、竈の端に陣取った。

 香りに誘われて杏も駆け寄る。


「本当はよく冷やした方がいいんだが……まぁ、失敗したら失敗した成りも一興だな」


 匂いから見ても、その可能性は低いのに克哉は皮肉って言った。銅板をどけ、きつね色の生地が姿を現す。そこへ、いつの間にか用意していた大皿を被せ、勢いよくひっくり返した。

 ゆっくりと剥がせば、ほのかに紅色に染まった果肉があらわになる。立ち上る湯気は例えようがないほどに甘い。端が崩れているのも目に入らないぐらい、透けたりんごがきらきらと輝いていた。


「タルト・タタン、完成だ。正に失敗から生まれたケークだな」



 フライパンに向けられた横顔は、今まで見た中で一番の笑顔だ。

 杏はたると、たたんと心の中だけで呟いた。不思議な響きだと考えている内にケークが作業台に運ばれる。目は切り分けられるケークを追っていた。

 ただの和菓子屋に銀食器があるわけもなく、匙で食べることにした。向かい合って二人で座り、りんごとやわらかめの生地を崩して頬張る。

 口に広がるりんごと砂糖の甘み、後から来る程よい苦み。歯がいらないではと思う果肉のやわらかさと噛み締めるたびに広がる皮の香り。甘い蜜を吸った生地はほろほろとほどけて、腹の底に落ちていく。

 ほとんど同じ材料なのに、味も、食感も違う。杏は洋菓子の虜になった。見る見る内に皿を空にする杏を見た克哉は予想外のことを口にする。


「正直、俺はあまり好きじゃないんだ。煮詰めたりんごの食感がどうも苦手でな」


 今、克哉は二人で頬張るケークを好きではないと言った。この前の笑顔も今日の笑顔も何だったと言うのだろうか。ということは、杏がしたことははた迷惑な行為だ。

 何も言えない杏はタルト・タタンをじっと見下ろした。

 食の進まない杏を見かねた克哉は少女の頭を撫でる。


「でも、不思議とお前と食べるりんごは悪くない」


 杏は鼻に皺を作り、言葉の意味を考えてみた。悪くないという言葉はあいまいだ。

 杏の耳に圧し殺した笑い声が届く。ガラス張りの部屋で見た、心底楽しそうな声だ。


「一緒に食べると美味いってことだよ」


 アップルパイもタルト・タタンも好きではない克哉が杏と食べると美味いと言う。全くもって筋が通らない話だが、杏を喜ばせるには十分だった。


「アン。お前も笑えるんだな」


 そこで、杏は自分が笑っていることに気がついた。家族にしか読み取れない顔は口調も相まってからかいの的だ。自信なんてものは欠片もなく、願いなんてほとんどなかった。

 最近の自分はどうだろうか。アップルパイに感動し、克哉の一挙一動に心がざわつき、りんごを焦がしては泣いた。目まぐるしい感情に振り回されたが、笑ったのは本当に久しぶりだ。

 目の前の克哉が笑う。夕陽のあたる笑顔は五年前のあの時と重なった。


「思い出したよ。俺は美味い菓子で皆を笑顔にしたいんだったって」


 克哉の言葉により一層、胸の奥があたたかくなった杏は声を上げて笑った。久方ぶりの行為にまた心が高鳴る。壊れたか、と余計な心配をする克哉も気にならない。

 季節が巡り、旬が巡る。そして、また新しい菓子を知るだろう。

 それでも、アップルパイは必ず食べたい。この気持ちが褪せないように、思い出せるように。

 杏はそう願わずにはいられなかった。



 これは後に謳われる甘味伯爵の始まりの物語。

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甘味伯爵 事始め かこ @kac0

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