恋知らずのほろにがケーク 参
使いに来た杏が調理場の勝手口で女中を待っていると、思いもよらぬ姿が現れた。
気だるげな様子の克哉だ。調理場に目を配り、杏に気がつくと寝起きのような声で声をかけてくる。
「アンか。使いに来たのか?」
杏は機械仕掛けのように頷き、一拍置いて口を開く。
「こ、こんにちは」
「こんにちは。料理長を知らないか?」
問いに杏は首を振って答えた。
そうか、とだけ言葉を落として声の主は去っていく。
足音が遠退くまで動きを止めていた杏は思い出したように大きく瞬きをした。克哉の大人しい振る舞いに肩透かしを食らった気分だ。
克哉はいつだって元気な挨拶をしてくれる。何をしてようと、相手が誰だろうと変わらない。
心臓に悪いと思いつつも、たまにかけられる声が嬉しくて、そのたびに杏は頬が熱くなる。
そんな克哉が先程見せた顔は別人かと思うほどに温度がなかった。場の空気を乱すのが玉に瑕だが、真っ直ぐで快活な性格は周りを明るくしてくれる。その姿が見る影もない。
理由に見当もつかない杏は風邪でも引いたのだろうかとあらぬ心配をするしかなかった。答えのわからないまま、女中から重箱を受け取り出口へ向かう裏庭を歩く。
「ねぇ、旦那様と克哉様のお話聞いた?」
杏の耳に飛び込んできたのは潜めた女の声だ。ちょうど建物の影にいたので、出るに出られない。息を殺して会話が終わるのを待つ。
聞くつもりはなかったのだが、出てきた名前が気になり、ついつい音を拾っていた。
「喧嘩したってのは聞いたけど、詳しくは知らないよ」
「私、掃除で下の階にいたんだけどね。そこまで響いてきてたの。恐ろしかったぁ!」
「相当怒ってるんだね、旦那様」
「そうなのそうなの! 怒鳴るのが旦那様だけならまだしも、克哉様まで大きな声なもんだから会話が丸聞こえだったのよ」
「へぇ、何て言ってた?」
「おそらく跡取り問題よ。そう、そうよ……うん、たぶん」
「なんだい、その曖昧な言い方は。あたしにも分かるように話してくれよ」
「それがね……旦那様はお前は長男だろ、家を継がんでどうするって言うのはわかるんだけど……克哉様がぱてしえ?になるって言ってて」
「ぱてしえって何のことだよ」
「私も教えてほしいぐらいよ。また、坊っちゃんの
「突拍子もないこと言うからねぇ、坊っちゃんは。その分、気取ってなくて楽ちゃー楽だけど」
まだ何かを話しながら女達が去っていく。
こっそりと杏は顔を出した。
紅葉が見事な庭園が広がるだけで人の影はない。
居ても立ってもいられなくなった杏は克哉を探そうと踵を返し、一二歩進んだ所で足を止めた。克哉を見つけ出して何をするというのだろうかと自問する。気の利いたことが言えるわけでもない、背中を押す力もなければ、手助けする知恵もない。ただの子供に何ができるのだろうか。
杏の足は仕方なく帰路につき、影を踏むように裏口を出た。心は上の空だ。
自分にできることを考えて、思い付いては却下してを無駄に繰り返す。せめて笑顔にできたらと悶々としながら蹴った小石は何処かにいってしまった。
石が飛んでいった方を見れば地蔵が変わらず並び街道を見守っている。左端に供えられた、見慣れぬ小さな紅色。
いつもはない色が、きらきらと輝く菓子と克哉の笑顔を杏に思い起こさせた。少女は唇を噛みしめ、振り替えら。裾がめくれるのも構わずに元来た道を駆け始めた。
· · • • • ✤ • • • · ·
本条家の調理場に転がるように駆け込んだ杏は上がった息を調えるのも惜しんでアップルパイの作り方を訊いた。夕食の下準備をする場内は突然の来訪者のおかげで手が止まる。目を丸くした料理長は数回瞬き、杏の願いを快く引き受けた。
家に帰り、りんごの芯を取り終えた杏は包丁を机の上に置いた。皮がついたままで、形は不揃い。煮たらやわらかくなるから大丈夫と料理長は言っていたが不安でいっぱいだ。
父と兄は集まりがあるからと早々に店を閉め出掛けていった後だ。頼りの母は、杏がいぬ間に使いに行ったきり、とんと戻ってこない。
料理長に聞いた
菓子職人でもある父もこういう説明をする。菓子作りは経験と勘が大切だ、と。そうは言われても、初めて作る杏には経験もなければ勘もない。手伝いの米炊きで得られた勘など知れている。
りんごを煮るにしてもそうだ。砂糖を大きな匙五杯と言われたが、どの匙のことか、さっぱりわからない。遠慮せずに匙の大きさぐらいは確認すればよかったと後悔しても後の祭だ。
りんごは切ったら色が変わるから、手早く調理するようにと言われたので気が焦る。竈に火も入れてしまったし、料理長に聞きに行く時間もない。
茶色になるまで煮ると言われたが、どれぐらい茶色に煮るかも杏にはわからなかった。
砂糖は家で一番大きな匙で我慢してもらい、少しずつ煮詰めよう。そう杏は腹を決めて取りかかったが、それが大きな間違えだった。
煮込み始めるとりんごから水が出て、ふつふつと泡ができる。りんごはまだ白いままだ。しっかりと混ぜながら火を通していたのに、焦げくさい匂いがしてきた。りんごを取り出すにも皿などの準備をしておらず、鍋を引き上げるにしても敷物もなければ鍋を掴む布巾も見当たらない。
慌てる杏を急かすように匂いは濃くなるばかりだ。右往左往する杏を助けたのは台所に飛び込んできた克哉だった。
息を止めて驚く杏を後ろに追いやり、
「焦げくさいと思えば何をしているんだ!」
克哉の雷に杏は身をすくませた。
頭に血がのぼった克哉は勢いを殺さずに怒鳴る。
「何も起こらなかったからよかったものの、怪我や火事の心配もあったんだぞ!」
杏の視界が涙で歪む。怒りを向けられたこともそうだが、気が抜けてへたりこみそうだ。
嗚咽まじりの謝罪が響く中、克哉は重い息を吐いた。大きく息を吸った後、もう一度、深く息を吐いて細く息を吸う。意識して心を落ち着かせ、転がる鍋に視線を落とした。
「料理長に面白いものが見れると言われて来て見れば、ただのりんごじゃないか……て、泣くな。りんごが焦げたぐらいで泣かなくてもいいだろう。ほら、新しいりんごをやるから泣き止め。……お前、本当によく泣くな。体から水がなくなるぞ」
見当違いも甚だしい気遣いに杏は悔しさが立ち上がるのを感じた。いつもの杏なら泣き寝入りするだけだが、ただのりんごと言われて感情が沸き上がる。新しいりんごが欲しいわけではない。高ぶった感情は何に怒っているのか、何に泣いてるのか理解できていなかった。その感情ごと克哉に言葉をぶつける。
「ただの、りんごじゃありません。大切な、アップルパイです!」
泣きじゃくった顔で喉が痛いほど叫ぶ。
克哉は虚をつかれた顔で杏を見つめ返した。
杏は涙をぬぐい、目の前の男を睨み付ける。
「おいしいアップルパイを作りたかったんです」
「じゃあ、作ればいいじゃないか」
「へ?」
間抜けな顔をさせられたのは杏の方だった。
アップルパイは無理だけどな、と言いながら、克哉は台所を物色する。
「焦げたし、無理です」
青ざめた杏は何もない場所で手を振った。克哉にぶつけた暴言と泣いた恥ずかしさが今さらながら襲いかかってくる。
振り返った克哉は、お前がそれを言うかと片方の口端を器用に上げた。道具に溢れた台所を見渡し、顔だけ振り替える。
「安心しろ。補償はできないが、策はある」
そう言った顔はいつもの快活な笑顔だった。
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