恋知らずのほろにがケーク 弐

 本条家子息の克哉を無言で屋敷まで案内したのは、一週間前の話だ。馴染みの女中に克哉と風呂敷を押し付け逃げ帰ったことは、今のところ咎められていない。

 克哉と再会した日から、杏は本条家への使いを頑なに断り続けた。そうして、やっと心が落ち着いてきた頃合いを見計らったように満面の笑みの母が現れた。かさついた手でよそ行きのあわせに着替えさせられたのは、つい先刻のこと。しぶる杏に招待されたのだから、悪いようにはされないわと背を押した母は心得顔だった。

 慣れた屋敷の裏口ではなく、門の前に立ちつくした杏は途方もない気持ちいっぱいだ。何かの間違えではないかと頭の中が渦巻く。

 引き返せない所まで来て怖じ気づく杏を咎める者も促す者も誰もいない。

 視線を落とせば、所々ささくれだった手と杏色の布地が目に入った。家族全員に似合うと太鼓判をおされた杏色の袷は一番の気に入りだ。珊瑚や山吹色の花が舞い、緑や白花色の萩の影から飛び出した蝶が踊っている。髪も母が流行りの形にまとめてくれた。

 ガキと言った男のことを脳裏に思い出し、これなら見直すかもしれないと心が騒ぐ。

 拳を固く結んだ杏は精一杯の声をはりあげた。

 借りてきた猫のように訪れた杏が案内されたのは、半円状にガラスが並ぶ一角だった。屋敷内に草履のままで通された驚きが落ち着かぬまま、絵空事で見るような部屋に通された杏はたじたじだ。

 眼前に迫るのは飴色の丸机と対となる透かし模様の掘られた椅子。窓からの陽射しを浴びて琥珀のようにきらめく。

 椅子を引いた執事に促され、杏は仕方なく腰をおろした。座ったら壊れると思ったが、見た目よりも丈夫でびくともしない。

 大人しく待っていると数分もたたない内に扉が開けらる。

 杏は慌てて視線を下げた。

 後ろに女中を連れた克哉が迷いなく進み、靴音が途絶える。


「足労かけたな」


 朗らかな声は杏の緊張をほぐす。しかし、気の利いた返事の技量も度胸も臆病な少女にはなく、瞬きのような礼を返すのが精一杯だった。

 俯いた杏の視界に革靴の先を入り、そっと様子を窺う。心の片隅で見返すつもりでいたのに、目を丸くしたのは杏の方だ。

 鬼が人間になっている。

 そう思わずにはいられないぐらい、こざっぱりとした姿の青年が立っていた。のびっぱなしの髪は散切り頭になり、獣のように見えた目元は僅かに垂れて愛嬌がある。浅黒いと思っていた肌も汚れていただけのようで本来の色を取り戻していた。


「この前は案内してくれて助かった。鈴美すずみ屋のお嬢さんらしいな。最初はわからなかったが、泣き顔を見て、ぴんときてな。あの頃と変わらないと思っただけなんだ」


 克哉は自分で椅子を引き、腰を落ち着かせた。その間に目線だけで女中に指示を出し、話を続ける。


「後からガキなんて失礼極まりないとばあやに叱られて、やっと気付いてな。この前は悪かった」


 この前の礼と詫びだと思って受け取ってくれ。そんな言葉と共に甘酸っぱい香りが差し出された。

 白い皿にこんがりと焼けたの三角が乗っている。表面は蜂蜜を塗ったようにツヤツヤと輝き、横から見える断面には薄い生地が重なっている。その間には白花豆の甘煮のような粒が詰められ、上にのる黄みを帯びた餡は潰した粒が見えずなめらかだ。初めて見る色形を和菓子に例えたが、おそらく和菓子ではなく洋菓子だろう。それぐらいなら杏も気付いていたが、味は想像もつかない。


「英国流のアップルパイだ。りんごが転がっていたから作ってみたんだ」


 克哉の言葉を聞きながら、杏は『あっぷるぱい』なるものから目を離すことができなかった。あっぷるのことが何のことだかわからないが、パイなら一度だけ食べたことがある。西洋街の土産だと兄がこっそり買ってきてくれたのだ。その時の『みーとぱい』は濃厚な牛酪バターの匂いをまとった香ばしいものだった。しっとりとした生地は口や歯の裏にくっつき、肉の旨味と野菜の甘味がよく絡んだ。嗅いだことのない香りが口一杯に広がり、異国の風を感じたような気がした。食事だと思っていたパイが甘い香りの菓子にもなるとはどういうことだろう。好奇心がむくむくと膨れていく。


「口に合うかどうかわからないが、食べられなくもない。ほら、お食べ」


 餌を与えるような言葉をかけられた杏は思考を止めた。ガキから野良猫扱いに変わったのはいい方向に転がったと思うべきか否か、人付き合いに慣れない杏にはよくわからない。確かなことは気分がよくないということだ。

 輝きが半減をしたように見えるアップルパイは出されたまま、いつまでも形を変えない。

 腹が減ってないのか、と克哉が杏の皿へ手を伸ばす。

 それを止めたくても杏は見ているだけしかできなかった。


「口を挟む無礼をお許しください」


 控えていた女中がぴしゃりとした声で許しを請うた。

 克哉は手を止め首を傾げながら、なんだと促す。


「克哉様。相手の様子を見て、ちゃんと説明してくださいませ」

「そのつもりなんだが」


 克哉の返しに、勝手知ったる女中は肯定も否定もせず深く礼を取った。顔を上げると同時に杏に体を向ける。


「このアップルパイは克哉様が作られたもので、りんごを使った洋菓子でございます。克哉様は英国に五年いましたので、本場のものと変わらない立派な出来でしょう。お嬢様は遠慮せずに召し上がってよろしいのですよ」


 やわらかい口調は諭すようでもあり、昔話をするような抑揚もある。

 克哉は不思議そうに瞬き、わかりにくかったかとぼやいた。

 女中をよく見れば、いつも世話を焼いてくれるその人だ。杏はやっと肩から力をぬくことができた。気を張らずとも、出せれたものを食べればいいのだ。母だって、出されたものはきちんと食べなさいといつも言っていた。唇を湿らせて、狙いをアップルパイに定める。


「いただきます」


 小さな両手を合わせた杏はいざ食べようと思い、菓子楊枝を探した。

 和菓子屋ということもあって、つに並ぶのは和菓子ばかりだ。いくら新しいもの好きの父でも洋菓子は目の敵にしていた。まして、それを食べるための道具なんて初めて手にする。杏はそれらしく置かれている三つに割れた銀食器を持ってみたが、使い方がわからなかった。


「いつまでそうしているつもりだ。行儀など気にせず、好きに食べたらいい」


 呆れ顔の克哉は銀食器で小さく切り分けたアップルパイを口に放り込み始めた。使い方は菓子楊枝と変わらないらしい。横にした銀食器で切り分け、割れた先にアップルパイを突き刺す。こぼれる粉も勢いに任せて口に入っていった。

 気持ちのいい食べっぷりに誘われ、杏も彼を真似てアップルパイに挑む。

 よく焼き上げられた上の生地はさっくりと割れる。果肉同士の間を通りすぎ、下の生地はなかなか切れない。丁寧に力を込めて割り、くずれ落ちないように慎重に刺す。手の皿で気を付けながら頬張れば驚きの連続だ。

 あられよりも軽い食感。甘い香りをりんごの酸味がさらい、口いっぱいに牛酪バターとりんごの香りが混ざり合う。しゃくりしゃくりと蜜の溢れる舌触りを楽しんでいると、まったりとした甘みが包みこむ。

 上にのったものは餡だと思っていたが全くの別物だった。こんなになめらかで濃厚な味は初めて食べる。

 杏はアップルパイに夢中になった。きっと、甘みだけでは食べきれないだろう。酸味と甘み、ほんの少しの隠し味。すべての塩梅が絶妙だ。


「はは。どうだ、おいしいだろう?」


 克哉は目元を和ませて笑った。まだ半分も残る杏の皿とは違い、彼の皿は空っぽだ。珈琲を片手にくつくつと笑っている。

 口の中のものを飲み込んだ杏は克哉を真っ直ぐに見た。気恥ずかしさはなかなか消えてくれないが、胸に広がる感動を伝えたい。


「りんごも、パイもおいしい、です。この、なめらかな餡もおいしい……塩と、ニッキが、いい仕事をしています」

「よくわかったな」


 たれがちな目が丸くなる。

 本当はシナモンが欲しかったが、手に入れるのが面倒で諦めたんだ、と説明してくれるが、せっせと食べる杏にはぴんとこない。

 杏が食べ終わった頃を見計らって、そういえば、と克哉は身を乗り出してきた。


「名前を聞けてなかったな。いや、五年前に聞いたのかも知れないが、とんと覚えていないんだ。もう一度、名前を教えてくれないか?」


 ちなみに、杏が名前を聞かれるのは二回目だ。アップルパイに満足していたので、些細なことは気にならなくなっていた。牛乳がたっぷりと入った紅茶を飲み込んで、もう一度名乗る。


「杏、です。鈴宮すずみや杏」


 あん、かと舌で転がすように言った克哉は快活な笑顔を杏に向ける。


「さすが和菓子屋の娘だな。餡子のあん、か」


 いくらアップルパイに元気をもらったとはいえ、否と言えるほどの勇気は杏にはなかった。


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