その後について

この長文を読んでひとつ、腑に落ちたことがある。


 祖父の命日になると私たち家族は、当然のことながら墓参りをする。

 すると必ず、誰かが先に来ていて、花が手向けられている。

 十年間、それは途切れることなく続いている。


 昨年のこと、私たちが墓地へと行くと、老人とすれ違った。祖父の墓のある方向から戻ってきた人だった。

 老人はコートを着ていたのだったが、その左の袖からは、左手は出ていなかったように思う。

 果たして墓に行くと、真新しい花が供えてあった。

 あの人が備えたのかな、おじいちゃんとどういう関係なんだろう、と親戚連中は噂しあったものである。



 思うに片腕の男は、「与えられた選択肢のどちらかを自分で選ぶ」ことに、ひどく疲れていたのだろう。

 そこに、若い頃の祖父が現れた。そしてこう言ったのだ。

「あんたがツボを振りなさい。あんたが賽子を転がしなさい」と。


 男の気持ちを完全に理解することはできないが、その勝負に乗ったことで、自分を苦しめていた「選択肢の提示」に、はじめて抗おうという気になれたのではないだろうか。


「神はサイコロを振らない」という言葉がある。アインシュタインの言葉だ。物理学における不確定な要素を内包した定理に対して、「神がそんな風に不確かなことをするはずがないだろう」と反論した言葉だとされている。


 神が賽子を振らないのなら、悪魔も賽子を振らないだろう。特に「自分には未来が見通せる。すべてがわかる」などと言って、人の心をもてあそぶ悪魔であるのなら。


 だから。賽子を降るのは、常に人間であるのだろう。

 その出た目の結果を引き受けるのもまた、人間なのだ。

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神が賽子を振らないのならば ドント in カクヨム @dontbetrue-kkym

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