空気の組成においてその他と計上される0.01%

@isako

空気の組成においてその他と計上される0.01%

 玉田さんが言う。


という行為はなによりも純粋な行為です。考えてみてください。生きている人間に何かを伝えようとする。その行為はどんな形式であっても現世の利益が伴います。私たち人間からそれを取り除くことはできないのです。しかし、死者にくちなし。死者は私たちの世界に現実の影響を与えることがほとんどありません。死者にお願いをしても死者は聞きません。死者にアドヴァイスをしても死者はそれを活かせません。だからこそ、死者に想いを伝えるというのは、どこまでも私たちの心のレヴェルの話であり、それこそが純粋であるゆえんなのです」


 宗教法人「えたーなるはっぴねす」の事務所兼教会は市内にある雑居ビルの三階にある。代表である玉田さんは四十代の女性で、正座している僕たちの前に立って説話を聞かせてくれる。彼女の言葉は深い思索の海から引き揚げられた大きな岩のようなもので、僕らはそれをせっせと磨き上げたあと、その意味を探すのだ。


松戸まつどくん。君の話を聞かせてくれますか?」


 玉田さんが言う。僕と玉田さんはこの集会がある二時間前から二人で集まって、この時のための打ち合わせをしている。そしてそのことはみんなが知っている。別にいいのだ。この場がどんなふうに演出されるのか、それを考える意味がないことはみんなが分かっている。大切なのは、すべてを聞いたうえで自分の中になにを残すかだ。


「はい。僕には大切な友人がいました。中学の頃からの同級生で、半年前に交通事故で亡くなりました。彼は僕の親友で、僕らはいつだって一緒でした。彼がいなくなってから、僕は学校に行けてません。同じ高校に通っていましたが、僕にはもう学校に行く意味がよくわからなくなりました。彼がもうこの世界にはいなくて、もう一緒に

笑ったりできないんだと思うたびに吐きそうになります。吐いたりもします。ずっと悲しいです。親や先生は、そういうものはいつか薄れていくから大丈夫だと言います。でも僕の悲しさは全然なくなる気配もなくて、僕はたまにそういうのが耐えられなくなりそうです。自殺したいなと思う時もあります。でもそれじゃあ僕は彼とは同じ天国には行けないことになるので、我慢しています。今は死んだあと、天国で僕と彼がまた同じ時間を過ごす様子を想像して生きています。僕がおじいさんになってから死んだら、天国は十七歳の彼とおじいさんの僕が楽しそうに過ごしている世界になるのかな、とも思います。以上です」


 みんなが僕の話を聞いて拍手する。僕と同じように旦那さんをなくした能勢さんは、むちむちに太った顔をくしゅくしゅいわせて泣いている。それを見て僕もようやく涙を流す。能勢さんももう旦那さんには会えないんだもんな。


 ありがとう松戸くん。玉田さんは続ける。


「来週の集まりには、誰かへの手紙を書いてきてください。できれば亡くなった方に向けた手紙にしましょう。もしいい相手が思いつかなければ、まだ生きている方でもいいです。ちゃんと便箋を用意して、文字を書いて封筒に入れてきてください。先に断っておきますが、その手紙を読むのは、この世界ではあなたがたそれぞれ一人だけになります」


 それではみなさん祈りましょう。あーめんそーめんひやそーめん。


 僕らは復唱する。あーめんそーめんひやそーめん。


 集会が終わると、みんなで後片付けと教会の掃除をする。ここでの作業は善徳の蓄積に繋がるので、やればやるほどいい。ということになっている。実際気分がいい。祭壇の埃を払ったり、床に掃除機をかけたりして、教会がぴかぴかになると自分の心も同じように晴れやかになる。掃除がちょっとした趣味になって、僕は家でも掃除をするようになる。家中をくまなく回って、掃除箇所をピックアップし、週に一度のペースで一つの場所を徹底的にやる。一年かけて、家をぴかぴかにする。そういうのが習慣になる。それは僕が信仰を捨ててからも続くものになる。


 掃除が終わって解散するのが19時。みんなにサヨナラを言ってそれぞれの道を歩く。これから道路工事の現場に向かう小此木さんは教会に通い始めてから仕事が楽しくて仕方ないという。小此木さんは今32歳で、僕には現場仕事だけは絶対にやめとけと言っていたが、最近は違う。「マツ。仕事なんてなんでもいいんだよ。大事なのは自分の価値を見つけることなんだ。信じられるものを見つけて生きることが一番大事なんだよ」僕は尋ねる。「小此木さんは何を見つけたんですか?」「もちろん死後の世界だよ。今世でできる限りの善徳を積んで、おれは天国にいくんだ。おれが固めたアスファルトをみんなが車で走る。走りやすい綺麗な道路はみんなを幸せにする。それって善徳だろ?」小此木さんは幸せ者だ。自分の価値を見つけたのだから。


 駅の改札で呼び止められる。向洋むかいなださんは高校生で、同じ教会に通う仲間だった。彼女は実は僕と同じ高校の生徒で、いま一年生なのだという。彼女はちゃんと毎日学校に通っている。


「松戸くん、ちょっと時間ある? どこかで話せないかな」


「いいよ」


 駅前の喫茶店に入る。彼女はアイス・カフェオレを注文した。僕は水だけをもらう。女の子と一緒に喫茶店に来たりするのは初めてだったけど、僕は特になんとも思わなかった。十代の後半に差し掛かってから、僕は女の子に対する興味を失っていた。でもそれは、最初からなかったものを、ようやく見つけただけの話なのかもしれない。向洋さんは比較的綺麗な女の子だと思う。でもそれは、本当に僕には関係のない話なのだ。


「松戸くんはもう小説を書かないの?」彼女はいきなりに切り出した。彼女はかつて僕が所属していた文芸部にいるので、部誌に残っている僕の小説を読むことができる。僕の小説は部内でもひどい評判で「脈絡がない」とか「幻想的なものに頼りすぎている」とか散々言われていた。なぜか向洋さんは、僕の小説が好きだと言う。


「書かないよ。小説を書くことは、僕としては善徳にはつながらないことだから」


「でも私、松戸くんの小説すごくすき。ロマンチックで、儚くて、手に乗せるととけてしまう雪みたいで、すき」


 僕はそういう比喩を聞いても心は踊らない。かえって馬鹿にされているような気分にもなる。でも彼女は一年僕より年下で、きっとまだ僕がそういうのを聞かされていらつくというのは想像がつかないんだろうと僕は想像することができる。だから彼女を非難したり追及したりはしない。それは悪徳だ。

 〈彼〉が死んでから物語は僕にとってほとんど意味のないものになっていて、唯一僕を温めてくれるのは彼との将来を約束してくれる天国の物語だけだった。


「ありがとう。残念だけど、もう書かないよ」


 物語の魔力は僕から失われてしまったのだ。とでも、あの頃の僕なら書くのかななんて思う。僕はもう文字を読もうとも思わないし、映画や漫画をみようとも思わない。意味がないんだから。こんなに簡単に意味がなくなる世界に執着する意味はないよね? と言いたくなるが、そんなことを言って向洋さんを傷つけるのもまた悪徳だ。僕はく生きなくてはならない。


「じゃあ手紙は? 手紙は書くの?」


 手紙。それは僕にとって目下の問題になっていた。本来なら手紙なんて書かない。書きたくない。〈彼〉への気持ちを文字で形に残すなんてことは絶対にできない。僕のことばには、もう意味なんかなくて、そんなもので〈彼〉について記述することは、決してしてはいけないことなのだ。僕は今日のスピーチの内容だって、もう忘れたいくらいに嫌だと感じていた。


 でも玉田さんは書いてくるように言った。僕が他の人間のことについて手紙を書くことはできるけど、そしてその手紙の中を誰かがみて、僕がスピーチで話した〈彼〉のことを書いていないじゃないかと指摘されることもまずないのだけど、だからといっててきとうなことを、例えば洗面台の水垢の落とし方なんかをつらつらと書いて来週持っていくというのも絶対にしてはいけないことだ。ほかのみんなが本気の手紙を書いてくるのに、僕だけが教会の集まりをバカにした文章を持っていくわけにはいかない。それは悪徳だ。


「書くよ。多分僕は書くだろう」


 だったら……。向洋さんが何かを言いかける。だったら? だったら小説だって書けるじゃないか、って? それとこれとは別の問題なのだということも、いつか彼女には分かるだろう。


「ねぇ。松戸くん。学校さ、来ない? 授業には参加しなくていいから、部活だけきたっていいって、園辺先生も言ってた。先輩たちも、松戸くんの様子が気になるっていつも話してるよ」


「いいよ。僕には意味のないことだから」


 向洋さんは、ほろほろと涙をこぼし始める。同じ教会の仲間を泣かせるのは悪徳だろうか。彼女と同じことを〈彼〉が言ったとしたら僕はどうしただろうか。無駄な妄想だった。無駄な物語だ。無意味で無価値なことというのがこの世界には多すぎて、そういうのが僕をくたびれさせてしまったんだよ。向洋さん。


 僕は一週間かけて手紙を書く。朝七時には起きて、家族のみんなと朝ご飯を食べる。もう家族の誰も僕に学校に行けとは言わない。かなり気楽になった。僕は仕事や学校に行くみんなを見送ったあと、家の掃除を少しして、そのあと手紙を書き始める。


 この手紙は今の僕の信仰に基づいて書かれているんだけど、僕は何も書きたくてこれを書いているわけではないので、もしこれを読むことがあったとしてもうどうか僕のことを嫌いにならないでほしいと始める。だいたいは、君がいなくて悲しいというようなことを書く。君が死んでから、僕の生活はこんな風に変わっていて、世界はかなり退屈でつまらないものになっている。と続けた。そこまで書くと僕はもうなにも書けなくなった。こんな二・三行で終わるようなことしか〈彼〉のために用意できないのか。と失望した。小説を書いていたころならもっと文章は進んだだろう。意味のない描写や書きたいだけのシーンでかさましをして文章の全体量を整えることだってできた。でももうそんなことはできなくて、僕はすでに何よりも大事な〈彼〉への気持ちさえ言葉として失い始めていたのだった。吐いた。吐いた後を片付けて、僕は僕のみじめな手紙をさっさと便箋に封じて宛名を書いた。君に届きませんように。と祈りを込める。


 一週間たって、僕は手紙を持って教会に向かう。みんなが集まるのは夕方からだけど、僕は別に用事があるわけじゃないので、昼から行く。僕は毎日、お昼から夜までを教会で過ごしている。玉田さんは忙しいひとなのでいつもいるわけじゃない。たいていは事務所に住み込みで働いているあばらさんが相手をしてくれる。ここにいればコーヒーメーカで作ったコーヒーを飲めるし、信仰に関係する勉強もできる。夜までここで過ごして、湶さんにさよならを言って帰るのが僕の習慣になっていた。


 13時過ぎに教会に着くと、いるのは湶さん一人で、彼はNHKをテレビで流しながらストレッチみたいなことをしていた。「こんにちは」股関節をゆっくりと伸長させている湶さんが僕に言う。僕は頭を下げる。


「松戸くん、手紙は書けたかな」湶さんが言う。湶さんは大学二年生の頃に心を傷めてここにやってきた。今はこの支部を管理することを仕事にしている。いわゆる出家信者ということになる。


「書いてきました。湶さんはどうですか」


「コーヒーでも淹れよう」湶さんは僕の質問に答えなかった。


 熱いコーヒーを飲むと心が落ち着く。今日はお焚き上げをするというのは、前から聞かされていた。書いた手紙は河川敷で燃やすことになっている。燃やして天に送る。そうすると死者にも手紙は届く。地獄に墜ちたひとに手紙を送りたい場合、天に送るのでは宛先違いになるのではないですか、と玉田さんに聞いたとき、彼女は「私の知る限り、今まで地獄に墜ちた人というのはほとんどいないのです」と答えた。


「君はどうしてここにいるの?」湶さんが言う。


 僕は少しだけ驚く。湶さんはそういうことを言うタイプのひとではないと思っていたからだ。彼は僕と同じで自分だけの世界を持っていて、それは多少なりとも確かな形があって、誰がどうとか何がそうあるとか、そんなものは関係がないはずだったのに。少なくとも僕個人の気持ちのことなんか、まるで興味を持たないひとだと、僕はそう思い込んでいた。


「僕は……、半年前に親友をなくして。それが、悲しくて、彼のことをいま意味づけるためには、ここの考え方がいちばん僕にあっていて……」しどろもどろ。僕はなんとか言葉を吐きだす。


「松戸くんはほんとうに死後の世界なんて信じているのかい」


 僕は何も言えない。あなたは違うんですか? あなただってそれを信じているからここにいるんじゃないんですか?


「いいかい。死後の世界があるかどうかはわからない。確かに死ぬことは怖いし、死んでしまった人たちが、我々の心の一部を少し、むこうに持って行ってしまうということも、確かな真実だろう」


 僕は頷く。言葉は理解できる。でもこのひとは何を言っているだろう。何が言いたいんだろう。


「松戸くん。考えてみてくれ。僕はここで半年近く君をみていたから、君なら理解できると信じて言う。君の深い悲しみがね、愛するひとを失ったという人間の、あまりにも残酷な傷がね、こんなところで掃除をしたり、グループセッションをしたりして回復すると本当に思っているのかい」


「それは」


「傷は癒えるかな? 同じ苦しみを味わうひとたちと一緒にいることは心を穏やかにさせるだろう。君は一人じゃない。そう思える。事実僕から見て、君は一人じゃない。でもね、君の悲しみは君だけのものなんだ。ほんとうのことを知っているのは君だけなんだぜ。君にはそれに一人で向き合う力がある。ここにいるのは弱いひとたちで、ここに必要とされているのもまた弱いひとたちなんだ」


「あなたはなんなんですか。なんのつもりでそんなことを言うんですか。おかしいよ」


「僕は君の信じる神様です」


 僕が笑うよりも先に、湶さんは僕のマグカップに手を重ねた。彼が手をどけると、そこには湯気がもくもくと立つコーヒーがたっぷり入っていた。そんなはずない。僕はもう半分以上飲んでいた。湶さんはくたくたになったTシャツを着ているだけで、袖に仕込めるようなトリックはない。


「これは奇跡ですか」


「君がそう思うならそういうことになる」


「やっぱり信仰は本当だったんだ。死後の世界はあったんだ。大河たいがはあっちで僕を待ってる」


「中川大河くんの魂はもうどこにもないよ」神様が言う。


 神様はとても退屈そうに、なんでこんなことをおれがしなくちゃいけないんだ?とでも言いたげに続ける。「大河くんには信仰がなかったからね。彼の魂は天国にも地獄にもいかなかった。ただ消えてなくなったんだ。4月10日の午後5時32分に彼の肉体は呼吸を止めて、器を失った魂は周囲の空気に溶け込んでほかと区別がつかなくなった。だから君がどんなに頑張ったってもう君は中川大河くんには会えないよ」

 

 どっこいしょ、と息を吐き出して神様は立ち上がる。目の前がちかちかしている僕をおいて、彼はどこかに行く。「ねぇ。待ってください。僕を置いていかないでください。神様」「もうわかるでしょう。君はここにいるべきじゃないんだよ」


「なんで神様なのにそんなことを言うんですか? 僕を救ってはくれないんですか」


 神様は僕の顔も見ない。玄関から普通に出て行って、もう戻ってこなかった。


***


 お焚き上げには、湶さんと向洋さんの二人が参加しなかった。他のひとたちは一度教会に集まって、準備を整えてから河川敷に向かう。


「二人がいないなんて、珍しいことね」と玉田さんが言う。僕は尋ねる。


「玉田さんは神様に会ったことはありますか」


「松戸くん。神様は私たちには会わないのよ。みんなに会うことはできないけど、誰か一人に会うのは不平等だからね。それに誰かが会って、『神様にああしろと言われた』なんて言っちゃうと、それが本当の預言か、嘘なのかわからないじゃない? だから私たちの神様はそんなややこしいことはしないのよ」


「僕、昨日夢で神様だっていうひとに会ったんです」


「あら。まぁそのくらいならいいんじゃない? かわいいと思うわ」


「彼は僕に、死んだ親友は天国にも地獄にもいないって言うんです。もう魂は空気に混ざって消えてなくなったって」


「ならそれはただの悪夢ね。人間の魂は消えて無くなったりしないもの。あなたの親友はずっとあなたを待ってくれていますよ」


 僕はもう全然玉田さんの言っていることが頭に入らなくて、もしかしたら今吸い込んでいる空気の何割かは〈彼〉だったりするのかな。なんて思っていた。


***


 お焚き上げが無事に終わって、みんなで教会に帰ると、教会は燃えていた。正確には教会が入っていたビルの、教会が入っていた階から火が出たようで、すでに消防隊が駆け付けて消火活動を始めていた。野次馬もかなりの数が集まっている。


 信者のみんなはそれを見ているばかりだった。なんの感情もわかない。誰かが言った。「おれ、仕事に行かないと」言った誰かがその場を立ち去ると、ほかの人たちもふらふらと離れていって、もう彼らはなんでもなくなった。みんな自分の時間に戻っていった。玉田さんは何も言わず、ただじっと燃える炎を見ていた。


 ビルの腹から噴き出す赤い光は地面に立っている僕らのところまで熱気を飛ばしていて、このくらい熱ければ、部屋の中はもうめちゃくちゃだろうな、と思った。もう誰もここには帰ってこないだろう。結局のところ、ここは誰の居場所でもなかったんだ。


 向洋さんが知らないうちに僕の隣に立っていて、赤い輝きに目を光らせながら言う。


「私あそこ大っ嫌いだったんだ。やけに清潔でさ。不自然なんだもん。気持ち悪かった。でもあんなにきれいに燃えるんなら、きっと神様も許してくれるよね」





 燃焼は空気中の酸素を使って行われる。空気と混じって霧散してしまった〈彼〉の魂は、今僕の中にいて、僕の周りにもいて、そしてあの炎の中で燃えてもいるのだという。

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