第20話

妻が去っても、この部屋は何も変わらなかった。

人ひとりがいなくなっても、家具の配置はそのままで、空気の重さも同じだった。

もともとお互い仕事が忙しく、一緒に過ごす時間は少なかった。

泣くほどの悲しみはない。ただ、どこかで何かが終わったという実感だけがあった。

心も愛も枯れ果てていたのかもしれない。


しかし、心にはぽっかりと確かに穴が空いている。少なくとも12年間共に暮らしてきたパートナーである以上、どこか思うところはあるが、穴埋めは意外にも簡単に埋められた。

「結構綺麗にしているんですね。男性の一人暮らしは散らかっていると思っていたのに」

彼女は僕の事情などお構いなしにズケズケと入ってきた。



妻が出ていった翌日、彼女はあの時のアドバイスが役に立ったかと笑いながら尋ねてきた。

事情を話すと、彼女は短く「そうなんですね」とだけ言った。気を遣ってか彼女の方から食事のお誘いがあり、僕はその誘いに乗った。

妻の事を色々と話をした。

馴れ初めの話、新婚旅行の話、お互いの家族観の話や、、、いつからセックスレスになってしまったのか。

思えば誰かにこんな話をしたのは初めてのことだった。

彼女は聞き上手だった。時折、こちらの言葉の切れ端に相づちを入れ、まるで痛みの深さを測るように見つめてくる。


以前に話していた。「ナースって結構モテるんですよ。」

それは職業の一般論ではなく、彼女自身のことを指していたのだ。

「でも、不思議ですね。こんなに話してくれているのに先生って全然悲しそうじゃないというか。」

彼女はワインを指先で揺らしながら言う。なんというか、、、

「むしろ、ほっとしている?」


鋭い。

女には、どうしてこうも嘘がつけないのだろう。

そういえば、妻も僕の心をいつも覗いていた。

たぶん、だから逃げたのだ。


抱きしめた時の反応は意外にも冷静だった。僕の予想では驚かれるかと思っていたが、むしろ待っていたかのようにも思えた。

ベットで「気持ちいい」と思ったのはしばらく忘れていた感情だった。

10年という歳月が、白いシーツの中であっさりと塗りつぶされていった。


「ねぇ、なんで私を抱いたの?」

僕の胸に顔を埋めて言った。

「分からない。だけど君に触れたいと思った時には体が勝手に動いていた。」

「答えになっていないわ。」

言葉が詰まる。

それでも、問いを返すように呟いた。

「じゃあなんで僕を受け入れてくれたの?」

シーツを握りしめて小さな息が胸に吹きかかる。

「寂しかったんです。先生と一緒で。」

僕が寂しい?

自分自身のことなのに分からなかった。僕は本当に、寂しかったのか?


これは愛なのか。

それとも、愛を思い出そうとしているだけなのか。

けれど、妻とは感じたことのない熱を確かに感じていた。


「君はいつもこんなことを?」

「もしかして誰とでも寝る女だと思っています?」

彼女は体を起こし僕の肩に両手を乗せ跨る。

「言ったでしょう?ナースはモテるって。でも言い寄ってくるのは愛情に飢えて構ってほしい人が大半。別に私じゃなくてもいいんです。」

僕の腰の性毛と彼女の性毛を合わせる。

「でも先生は違うんです。私よりも長い人生を歩んでいるのに、愛を知らない。最初から空っぽなんです」

主導権は完全に彼女に渡っていた。

「だから私の中で、愛を知ってください。先生がいないと私も空っぽになってしまうから。」

動きが重なり、呼吸が絡み合う。

体と体の境がわからなくなったとき、彼女の声が震えた。

「ねぇ、聞こえますか? これが、生きてる音ですよ」


だが激しく鳴り響く音も徐々に鳴り止んだ。

眠りにつく直前、彼女の匂いが肺の奥に残っていた。

それはなぜか、血のように温かかった。

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