第19話
気が付けば、もう十年になる。
出会い、結婚し、共に過ごした時間。
長いようで、振り返れば薄い膜のように指の間をすり抜けていく。
最初の頃のような熱はもうない。
けれど、火はまだ消えてはいないと、そう信じていた。
互いに薪をくべ合いながら、愛情という小さな焔を守っているつもりだった。
けれど。
あの看護師の言葉が、ずっと頭の奥でこだましている。
「女の人って、構ってもらえないとすぐに愛想を尽かしちゃうんですよ」
帰り道、誰もいない夜風の中で、妻の名を口にした。
「秋穂は、どう思っているんだろう」
その声は、どこか他人事のように聞こえた。
秋穂と出会ったのは大学の合コンだった。
数合わせ。
どちらも、他に行き場のない空席を埋めるために呼ばれた。
浮かれた空気の中で、唯一まともな会話ができる相手が彼女だった。
静けさを求めて近づいた。
ただそれだけ。
恋でも、運命でもない。
偶然の延長線上にある日常の一部だった。
だから、燃え上がるような恋の記憶はない。
あったのは、寄り添うという習慣だけだった。
気がつくと、マンションの前に立っていた。
体が覚えた帰り道。
自分の意思よりも、惰性の方が正確だ。
「秋穂と何を話そう」
言葉を探す。
けれど、思いつかない。
伝えたいことがない。
感情がない。
「これもあの女のせいか」
無意識にそう呟いてドアノブを回した。
部屋は真っ暗だった。
いつもなら、リビングの明かりが窓の外まで漏れているはずなのに。
「まだ帰っていないのか?」
玄関の照明を点ける。
音のない部屋。
ソファの背もたれに体を預け、時計を見る。
21時。
今日は夜勤ではない。
それでも秋穂はいない。
テーブルの上に白い紙が一枚、静かに置かれていた。
その上には、たった一文だけ。
——探さないでください。
膝の力が抜けた。
いや、正確には肩の力が抜けた。
崩れ落ちる代わりに、安堵したのだ。
「そうか、秋穂はいないのか」
小さく笑った。
笑いながら、心が何も動いていないことに気づく。
驚きも、悲しみも、怒りもない。
ただ、静寂。
「あの女の言う通りだな」
看護師の声が、頭の奥で反響する。
「女の人は、構ってもらえないと寂しくなるんですよ」
寂しがるほど、愛されていたのだろうか。
僕は彼女に、何かを与えていただろうか。
否。
愛してなどいなかった。
愛という言葉の使い方を、僕はただ社会から借りていただけだった。
空っぽの部屋で、電灯の明かりが白々しく照らす。
その光の下に、二つの影が重なる。
僕のものだけ。
秋穂の影は、もうどこにもない。
冷蔵庫を開ける。
何も入っていない。
棚の上のグラスを取り出し、水を注いで飲む。
喉を通る。
それなのに、渇きは癒えない。
その渇きが、どこに向かうのかはまだ知らない。
ただ、あの夜から確かに何かが始まったのだと。
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