第18話
殺してもあるいは死んでもいい命があると思うかい?
回答を探しても未だに見つけられていない。いくらネットや数千を超える哲学書を読み漁っても、命はあるべきところに帰るだとか、生まれてきた意味を探すために生きているだの、意味を見つけられた時こそ初めて死を許されているのだの、命がとても大切にされているのがよく分かる。
「逆に自分が殺されてもいい理由が言えますか?もし答えられないのであれば、あなたに人を殺す権利はない」のだと。
何とも卑怯な質問だとも思う。自分自身を人質にすればどんな理不尽な問いに対しても同意する訳にはいかない。
誰だって自分の命を天秤にかければ、命の重さは何倍にも重みを増し身動きが取れなくなる。そんな人間を私は何人も見てきた。
そして今日も自分の命を天秤にかける人を相手にする。
「血糖値が以前より上がっていますね。最近食生活は改善していますか?」
男性医師は眉をひそめ患者に語り掛ける。
「ああ、言われた通りにやっているよ。」
パイプ椅子に股を大きく開き座る大柄な中年男性。
カルテを見る限りには34歳と記載されてはいるが、服の上からも確認できる丸く膨らんだ腹や耳が隠れるくらいの乱れた髪のおかげで、その見た目は実年齢よりも老けて見える。
「普段の食生活では炭水化物や脂っこいものは控えるようにして野菜を多く摂取するよにはしているよ。」
男は仏頂面で返事をする。
この部屋には私と患者の2人しかいないと言うのに、さっきから患者の男性は視線を合わせる事はなかった。まるで、私の後方にいる誰かに向かって喋っているようだ。
「まあ、たまに付き合いで外食でラーメンを食べに行くこともあったはするけどな。」
「そうですか。まあ、付き合いで食べることは仕方ない事もあるかもしれませんが、療養中はなるべく控える様にしてくださいね。」
こちらが目線を男性からあえて逸らしたとしても、一向にこちらをみようともしない。いろんな人間を見てきたからこそ大体の事は分かる。
典型的なタイプだ。
「ちなみに、週にどのくらいの頻度で外食を?」
深みのある声で問いかける。
男はそれにも動揺せず答える。
「たまにだよ、た・ま・に。」
この男は言葉の意味が理解できていない。それほど難しい質問はしていないはずだが会話が成り立たない。
「もう一度聞きます。週に外食の頻度は?」
私は声を鋭くさせ更に問いかける。
「ちなみに、外食にはコンビニ弁当やインスタント食品なども含まれますので自分で自炊した以外の食事の全てです。」
「そんなのいちいち覚えていねぇよ。」
尋問する刑事と中々口を割らない容疑者のようなやり取りのようで一向に話が進まない。
自分の落ち度を認めず、現実から目を逸らし、相手の意見を聞き入れない頑固さを持ち合わせていない。そのくせ相手が考えを改めるか諦めるまで時間を耐え抜く無駄に
忍耐力が高い。
「そんな事よりもよ。ちゃっちゃっと薬を渡してくれよ。知っているんだぜ、アメリカとかでは肥満を解消させる新薬とかあるんだろ?テレビでやっていたよ。日本にも似たようなもの位あるだろう?それをくれればいいからさ。」
「よくご存じですね。」
確かに肥満症の改善に役立つとされる薬はあるのだが、それはこの男に与えるには高価すぎる品物であり、おそらく何の解決にもならない。
怠惰、怠慢、不精、渇望、無為、惰性、惰行、惰気、様々な事を放棄した結果がこの男の体を作り出したという事を自覚してはいない。楽な生活を送った結果で苦しんでいるはずなのにその上に楽に改善できると思っている。
どこまでも愚かでどもまでも醜い。
「薬はあくまで補助ですので、今は生活習慣を改善することから始めていきましょう。基盤が整っていないと薬も効果は十分に発揮することはできません。まずは生活習慣を直すことに、、、」
男は私の話を遮るかの如く、舌打ちを立てる。
「あ~もう、そんな事よりもさ薬をくれってばよ~。それでさ解決するだろう?」
今の僕にはこの愚かな患者を救うことは難しいだろう。
どれだけ博愛に満ちた顔でも人の心を決して癒しても救う事はできはしない。内に秘めた黒い感情を表には出せばどれだけ自分の張りつめた思いを癒す事ができるのだろう。
どんなな感情を抱いていようが、常に笑顔の仮面を被り続けなければならない。これは僕が先輩の医者から教わった事だ。「医者やカウンセラーが不安を見せてはいけない。医者が迷えば患者を余計に不安を与えることになるからだ。だから医者は希望を見せるために常に笑顔でなければならない」と。
何とも慈愛に満ちた精神。どこかの修道院が言いそうな言葉に虫唾が走ると思っていたが、不思議と僕の耳にはよく残っている。
素晴らしい言葉だ。
面倒見のいい先輩だった。患者にも評判がよく後輩からも上司からも信頼されているエリートだったよ。こんな根暗な僕にでさえも気遣ってくれるいい人だったよ。
普段の行動や言動を見ていれば納得するし、尊敬もする。
だから僕も笑顔を取り繕い今もこうしてやってこれている。
必死に自分の感情に背きながら今も必死に。
だけどこの感動と同時に一つ疑問に思うことがある。
「誰が僕を救ってくれるのか?」
「はあ?」と患者が初めてこちらを見た。
「救ってくれるって、救うのはあんたじゃなくて俺の方だろ?」
怪訝そうな面を浮かべじっとこちらを見る。
僕自身を幸せに、または希望に導いてくれる人がいない場合はどうすればいいんだ。
尽くせば尽くした分だけ幸せ、あるいはそれに近い対価をくれるのだろうか。
「患者を救うのがお前ら医者の仕事だろ?」
いいや、間違ってもこいつにはない。こんな奴から受け取るものなんて何もありはしない。
もういいと言い男は椅子が倒れる勢いで立ちあがり、扉を開き出て行った。
静まり返った部屋に看護婦が「大丈夫ですか?」と声をかけたが僕は気にしないでくれと伝えゆっくりと扉を閉める。
何だか疲れた。別に患者に対してではない、そんな事は今回が初めてでもないし昨日だって、なんなら未来予知ではないけども明日も同じ様な事が起きると分かっている。
一体何が嬉しくて医者という仕事をしているのかが分からない。
特別な病気ではない限り、大抵の悩みは自己意識の改善でどうにでもなるような悩みが多い。食生活の改善をしているのに変わらないだって?そんなものは食べるべきものと食べないものの区別を見極めれば解決することだ。薬は魔法じゃない。必ずリスクもあるし、そこに救いを求めている限り本当の解決にはならい。いつも変化がみられない患者の話を聞いても、私はちゃんとやっているや、それでも病状は改善しない。そんな奴には甘い蜜ならぬ甘い言葉をかけてあげる。
「あなたはよくやっていますね。その調子で継続していきましょうね。」
こんな安い言葉を受け取り事態は丸く収まる。
みんな正当化して甘えているだけだ。自分に酔っているだけだ。
みんな自分を認めたくないだけだ。
だから自分を甘えさせてくれる存在を常に探しているんだ。
人を助けるのは他人じゃない。自分で自分を助けるんだ。つまりは自己解決。
「医者って何で必要なんだろうね?」
壁際で資料を整理している看護婦は静かに硬直し息を止める。僕の愚痴を聞き捨て無反応に振る舞いその場の空気を張り詰めさせる。
「先生疲れていらしゃるじゃないですか。最近休んでいますか?」
「睡眠はいつもたっぷりとらせてもらっているよ。知っているかい?30後半ともなると自然と寝る事だけは大事に確保するように生活リズムをコントロールするよになるんだよ。悲しいことに若い時のように無茶できなくなっている。」
「違いますよ。そういう事じゃなくて、何かリフレッシュとかしていますか?趣味っとかあと奥さまと旅行に行ったりとか。」
趣味ね。
勉強一筋で他に興味を持つことも無かったからもんだからこんなつまらない人間になっていしまったのかもしれない。妻とも仕事が忙しい理由で最近は一緒に活動することもなくなっている。
最後に妻との思い出も新婚旅行のハワイで過ごした7日間で終わっている。それからはお互い仕事が忙しくて家での会話が少なくなっている。妻も病院勤めでなかなか時間が合わなくなっている。
「そうだね、なかなか妻とも過ごす時間が無くてね。」
「それじゃあ可哀そうですよ。女の人は構ってもらえないと思うとすぐに愛想つかされて他の男性を求めてその内いっちゃいますよ。」
「それは君自身の事をいっているのかな?」
ムスッと彼女は僕に近づく。
「失礼ですね、私そんなに軽くないですよ。そうじゃなくて、先生は患者を大事にする仕事ですけど一番身近な人を大事にしないとダメですよってことですよ。きっと寂しがっていると思いますよ。」
寂しがる妻の顔を思い浮かべようとも思ったけども、最近はいつも決まった表情していないから想像する事すらできないでいる。喜怒哀楽のどの顔も見ていないような気がする。もちろん愛想のない無表情って訳でもないけども。
「もしかして奥さまの顔を想像できなかったりしています?」
鋭いな。女性は時に見透かしたかのように男の心中を察知する能力に長けている。
「先生分かりやす過ぎです。」
分かりやすい位に軽蔑な眼差しを向けられて心が痛くなる。
「とにかく先生は今度の休日はとことん休んで下さい。でないと体だけじゃなくて心も壊れてしまいますよ。」
「ちなみに君は休みは何をしているのかね?」
「何ですか?私に興味でも持ったんですか?」
にやにやと笑いながらおちょくる彼女だが。
「いや、単純に僕はどうも休み方というものを知らないようでね、君は休み方を心得ているようだし参考にしようと思ってね。」
「そんな難しく考える事ですか?心の思うままにしたいことをすればいいんですよ。」
まあシンプルで単純明快な回答だこと。
「誰かと食事したり、映画見たり、旅行に行ったり、できる事なんていくらでも出てきますよ。」
「君はお付き合いしている人がいるのかな?」
「いませんよ。」
即答だった。
「色々と言っては何だが君が話している内容にはどうも誰かと過ごすイベントが多いような気がするのだが、てっきり誰が相手がいるものだと。」
彼女は間髪入れずに答える。
「いえ、特定の相手がいないだけで過ごす方はいますよ。知ってます?ナースって結構モテるんですよ。」
「つまり相手は複数いると?」
ニヤリと顔がゆがむ。
「そうですね、合コンとかで知り合った男性と毎週休みの日にどっか行ったりしていますね。女医さんとかよりもナースの方が男って警戒心が緩むのかな?なんか女医さんだと自分よりも頭が切れそうとか収入面でも負けそうとかプライドが高そうとかで。その点ナースは世話好きとか警戒心が薄れるのかな?自分が困ったら介抱してくれそうとかで男の自尊心を傷つけずに済むだと思うんですよ。」
そういうものなのか?自分は妻以外の女性とお付き合いしたことが無いから分からないが世の中の男性は女性にそういう引き目などを感じているのか?
「結局男性が女性に求めるのは従属に動いてくれる人な訳ですよ。ナースって基本的に尽くす仕事じゃないですか?」
そんな事もないと思うがと言おうと思ったが止めておいた。言ったところでそれを否定する権利は今の僕にはないと思ったからでありこれ以上耳に痛い話は終わりにしたい。
というかこの女、自分は軽い女じゃないと言っていた割には行動している事はやっぱり軽いじゃないのか?それとも女性にとっては普通の事なのか?
しばらく彼女との会話が続いた後に、新たな患者がやってくる。
さて仕事の時間だ。
しかし、永遠に同じ事が繰り返されることなんてない。
いつだって変化はとても些細な事から物語は変化する。
未知の味 コード @KAMIY4430
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