最終話 雪原

 新徴組士の名を捨てぬまま、庄内藩酒井軍に従軍して敗戦を迎えた水野は、庄内領地の松ヶ岡荒地に開墾士として送られた。


 この時、江戸に残っていた新徴組も新政府軍に捕縛されて松ヶ岡に送致されていたが、庄内の地で久しぶりに再会したその中に、熊谷の姿はなかった。水野は江戸から送られてきたばかりの新徴組士に熊谷の行方を懸命に尋ねたが、分かったのは彰義隊と共に上野の戦闘に加わったということのみで、その後の熊谷の消息は不明だった。


 新徴組の他、庄内藩の下級藩士が送り込まれた松ヶ岡の地は、人の身体も潜り込めないほどに雑木が密生していた。


 手に持った剣を鍬に変え、新政府の命令によって荒れ地を耕す松ヶ岡の開墾は多大な苦難を伴い、力尽きて死ぬ者、逃げ出すものが相次いだ。水野の父も生まれて初めて過ごす庄内の厳しい冬に倒れて帰らぬ人となり、母は弟妹を連れて酒田の港町に出て商家に働き口を見つけた。


 一人、松ヶ岡の地に残った水野にとって、新徴組の同士が家族であり兄弟であった。それは他の組士にとっても同じことだった。多くの者が庄内に身寄りを持たない新徴組は、帯刀したままで農具を振るい、武士としての衿持と組士内の固い結束で松ヶ岡開墾の苦難を克服しようとした。


 その強すぎる結束に、視察に来た明治政府の役人からあらぬ謀反の疑いをかけられることもあったという。


 夜中も松明を灯して続けられた開墾の労働の合間、水野は時折、熊谷のことを思い出した。死んだ、とは考えたくなかった。鍬を持って松ヶ岡の開墾に従事する自分の姿と、士分を捨て故郷に戻って畑を耕す熊谷の姿を重ね合わせた。

 今日も明日もそのまた明日も、地を黙々と耕すという作業に、自分の未来は自分で切り拓くという思いを重ねた。


 そうして文字通り血のにじむ労力の末に切り拓かれた耕作地には、明治政府の指示により茶の木と桑の木が植えられた。雪深い庄内の地では、他の土地で根付いた茶の木は育たなかったが、桑の木の栽培は成功した。

 繭のまま運ばれてきた蚕は、この地で孵化した後は桑の葉をよく食べて、上質な絹糸を紡ぎ出すようになった。松ヶ岡の養蚕事業は次第に軌道に乗り、絹糸の生産量は飛躍的に増加した。


 養蚕は、松ヶ岡の他、明治維新によって職を失った多くの武士たちの士族授産事業として全国各地で奨励された。日本国内の絹糸の増産は着実に進み、明治新政府を支える海外貿易の主要な輸出品となった。富国強兵という明治政府が国内の安定を求めて国民一律に指示した標語は、江戸時代から引き継いだ人的資産に多くを依存して駆動を始めたのである。


 この明治初期の士族授産事業のうち、全国のどこよりも先んじて成功したのが庄内藩の松ヶ岡開墾事業であった。だがその功績は世に広く伝えられることなく、ただ祖先の名誉を誇りに思う人々によって、脈々と彼の地に語り継がれている。


 維新の動乱が収まった後の東京では、過日に威容を誇った多くの藩邸は朽ちるに任され、あるいは藩邸を去る際に家中の者の手によって打ち壊された。そこにも茶の木、桑の木が植えられたが、それらはやがて枯れ果てた。


 新たに江戸の地を支配した明治政府は土地の名を東京と改め、治安を守る警察部隊を設置した。しかし古くからその地に住む人々は、庄内藩酒井氏や新徴組を慕い、薩摩言葉を話す警察官を信用しようとはしなかった。明治政府は新徴組の悪評を流布させ、その存在を歴史の記録から消し去ろうとする情報工作を行った。


 実際のところ、その工作の必要はなかった。地方から次々と人々が流れ込む新都で、江戸の町を守った彼らの記憶は次第に消えていった。


 明治の新しい世の始まりは、多くの者に過去との決別を促した。

 振り切れなかった過去、捨てたくなかった過去、おおよそそれまでの全ての過去から目を逸らし、先の世を見据えなければ生の道から振り落とされる。それはまさしく時代の変革期であった。


 そうして、それまで人の心の内にあった何かが一つ一つ、忘れ去られていった。


 庄内平野を見下ろす冬の月山の山頂きに月は登り、白く輝く。

 降り積もる雪は地に朽ちる古いもの達の記憶を覆い、雪原と化した田畑は春の雪解けを静かに待ちわびる。


 時を越え、数多の土地で繰り返されるこの国の歴史の浮き沈みを、人々が上げる声を飲みこんでなお山河は変わりなく、ただ無言のままに見つめ続けるだけである。

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冬青木坂の追憶 葛西 秋 @gonnozui0123

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