一八六八年(明治元年)二月

降伏

 庄内藩は、徳川慶喜追討の勅書は拝受しても実行に移さないまま、慶喜への寛大な処置を朝廷に嘆願し続けていた。しかしそれは受理されることは無く、一八六八年二月、酒井氏は江戸市中取締の任を解かれた。


 最早ここに守るものはないと、藩主を始めとした江戸在勤の庄内藩士全員が屋敷を引き上げ帰国の途に着いたその六日後、新徴組も江戸からの引き上げを開始した。


 新徴組詰所の中は庄内藩に従って庄内に向かう者と江戸に残る者が入り混じり、これまでの整然とした雰囲気は掻き消えていた。土埃が木枯らしに煽られてそこかしこに舞う雑然とした気配は、既にここが見捨てられた場所であることを物語っていた。


 水野の家族は中屋敷の使用人とともに、既に庄内へ向けて旅立っていた。旅支度を整えた水野とは異なり自分の長屋を片付ける様子も見せない熊谷に、水野は何となく察してはいても、その去就について訊ねた。

「熊谷殿はどうされるおつもりですか」

「江戸に残る。それがしにとって庄内は縁のないところ、この動乱の最後までここで見届けるつもりだ」

 最後、という熊谷の言葉には、不吉な予感しかなかった。

「熊谷殿も庄内藩士です。ともに庄内に参りませんか」

 重ねて聞く水野に、熊谷は首を左右に振った。そして水野の肩を軽く叩いた。それはこれまでにない親しみが込められた仕草だった。まるで真の兄弟のような。

「水野、何があっても生き残るんだぞ」

 そう言う熊谷の口元には軽く笑みが浮かんでいて、その表情はかつて十二社の地に倒れていた岩見の表情にどこか似ていた。


 何かを心の底から諦めた上で得られる無風の平穏というものがあるのだということに、そしてそれが生への執着と表裏一体であることに水野が思い至ったのは、それから何年も後のことだった。


 庄内藩への道中、水野は坂元の乗る馬の口取りを務めた。これからどうなるのだろうかと、一様には説明のつかぬ気持を抱えたまま粛々と歩いていると、馬上の坂元から声を掛けられた。

「水野、熊谷はどうした。姿が見えないが」

「それがその」

「抜けたか」

 坂元の言葉に水野は明確に応えられなかったが、それが返事だった。

「熊谷はもとより庄内の者ではなかったか。他にも何人か行動を共にした者達がいるだろう。水野、なにか聞いているか」

「ただ江戸に残るとしか聞いておりません。他には何も」

 熊谷との短い会話を思い出し、もっと何か話すことはなかったのかと悔恨の思いを隠すことができない水野の表情を、坂元はしばらく見つめた。

「そうか」

 馬上から短く寄越された坂元の返事に思いがけない同情の響きを感じ取って、水野は思わずその顔を見上げた。だが坂元の視線は既に水野から外れて前方に向けられていた。

 水野が坂元と交わした私的な会話は、これが最後となった。


 一八六八年四月、新政府は酒井氏を朝敵とし、庄内藩追討令を発令した。


 同年五月、東北の地を主戦場とする戊辰戦争が始まった。

 侵攻する新政府軍への徹底抗戦に備え、東北の地で仙台藩伊達氏を盟主とした奥羽越列藩同盟が発足し、庄内藩もこれに加盟した。戊辰戦争は列藩側の白河城奪還から始まったが、新政府軍の主戦力が本格的に東北地方に展開され始めると、列藩同盟の足並みは途端に崩れ始めた。


 新政府軍の主力である薩摩藩がもつ多量の近代兵器と、その扱いに熟練した兵士達による攻撃は、近代化に乗り遅れた東北列藩の戦力を大幅に上回っていた。


 一八六八年九月、仙台藩は一千二百人余の死者、会津藩は悲惨な籠城戦の末に二千五百人余の死者を出して新政府軍に降伏した。


 庄内藩は列藩同盟の主軸ともいえる二藩が降伏する有り様を見ながら、自らの降伏の時期を見定めていた。

 実のところ庄内藩は戊辰戦争において一度も新政府軍に敗退していない。むしろ優勢に戦いを進め、新政府軍が自国領地内に足を踏み入れることを決して許さなかった。


 庄内軍を率いる酒井玄蕃は、並外れて優秀な智将だった。引くべきところは退き、攻めるべきところは大いに攻めて必ず勝利を挙げる。戊辰戦争が始まった五月から九月に至る長期間、玄蕃の名は鬼玄蕃として新政府軍内に伝わり、玄蕃が率いる隊列の旗印である七星旗を見ただけで新政府軍が敗走したこともあった。


 武器や資金は酒田港に集結していた豪商が調達した。

 彼らは独自に武器商人スネル兄弟と取引のルートを持っており、他の列藩同盟のどの藩より、場合によっては急遽戦闘に参加することになった新政府軍の援軍よりも潤沢な装備を酒井軍に供給した。


 領民はすすんで斥候を志願し、場合によっては武器を持ち、戦闘にも参加した。庄内領各地で正規軍による戦闘の他、ゲリラ戦も主戦力に同調して繰り広げられたのである。


 幕末にいたって、酒井氏による庄内の統治は二百四十年に及んでいた。その間、酒井氏は冬の雪害、夏の冷害、川の氾濫や旱魃に対峙する歴史を重ねてきた。痩せた北の地は、酒井氏の統治の間に次第に実り豊かな大地へと変貌していった。


 酒井氏の統治能力が評価され、別の国への領地替えが幕府から言い渡されたこともあった。だが庄内領民は江戸に上京し、幕府に直接、酒井氏の領地替え反対を直訴した。結果、酒井氏は庄内に留まることになり、酒井家による庄内の統治は幕末まで継続されることになった。


 厳しい自然を相手に、武士と商人、そして農民が衝突と理解を繰り返しながら共闘してきた積み重ね、それこそが庄内藩を名実ともに長年の雄藩としてきた要因だったといえよう。


 戊辰戦争において、列藩同盟が次々に陥落する様子を知る藩主酒井氏と玄蕃の間には、共通認識があった。それは余力を残した降伏をし、できるだけ有利な和睦を新政府軍と結ぶことである。

 庄内藩以外の旧幕戦力は青森、北海道まで戦線を下げ、もはや統制のある軍の体をなしていなかった。庄内藩のみ孤軍奮闘を続ければ、いずれ新政府軍による領内の蹂躙は避けられない。

 時代の流れは、すでに決していた。


 玄蕃は戊辰戦争の最後まで勝ち抜き、そして刈和野の戦いで秋田藩ら新政府軍を徹底的に打ち破って、堂々、鶴ヶ岡城に凱旋した。

 

 この戦果を以って、庄内藩主酒井忠篤は、新政府軍に降伏することを決めた。


 庄内藩の降伏にあたり、新政府軍には西郷隆盛から内密に指示が出された。

 降伏後の鶴ヶ岡城の明け渡しに際し、城内の庄内藩士には帯刀を許し、新政府軍には武器の携帯を許さずに入城させたのもその指示の一つである。これは新政府軍に一敗もしないまま降伏することになった庄内藩に対し、西郷隆盛が示した精一杯の敬意であったといえるだろう。


 庄内藩への厚遇はこれだけではなかった。


 酒井氏は奥羽列藩に序しながら領地転封もなく、庄内藩に留まり続けることが認められた。石高も二十一万石のうち三万石を減じたのみである。仙台藩伊達氏や会津藩松平氏が転封され、石高も藩の経営が成り立たないほど大幅に減らされたのとは対照的な処分だった。

 長く続いた太平の世にあって、その権力の中枢近くにありながらも武士としての矜持も実質も、庄内藩は捨てていなかった。西郷は幕臣酒井氏の武士としての本領を見て取ったのだろう。


 戊辰戦争終結後に、庄内藩主酒井忠篤は黒田清隆を介して西郷隆盛との結びつきを深めた。西郷は忠篤に鹿児島視察を奨め、忠篤もこれに応じた。

 鹿児島の視察を終えた忠篤は、その後、多数の庄内藩士を鹿児島に留学させ、かの地で薩摩藩士と共に新たな軍事や政治を学ばせた。薩摩藩に留学した庄内藩士の内、後の西南戦争まで西郷に就き従い、西郷と共に殉死した者が複数いたことが記録に残されている。

 酒井忠篤はさらに西郷の勧めでドイツに留学して最新の軍制を学び、帰国してからは明治政府の陸軍中尉となっている。


 明治帝国陸軍から始まる日本の近代軍は、この後、ドイツ式の軍制を模倣して発達していくことになる。


 戦争終結直後、敗戦という自覚もないまま鶴ヶ岡城内に留め置かれて新政府の沙汰を待つ間、坂元は杉坂と再会する機会を得た。だがそれは旧交を温める場でも、まして岩見の話を持ち出せるような場でもなかった。

 杉坂は戊辰戦争を不敗で戦い抜いた庄内藩の智将酒井玄蕃に従い、明治帝国陸軍の兵士として中国大陸に渡った。坂元は酒井氏の命により薩摩藩へ留学し、後に明治政府の役人の一人になった。

 

 坂元と杉坂はその後、二度と会うことは無かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る