深更の銃撃☆

 一呼吸おき、熊谷は、ああ、と嘆息の様な声を漏らした。

「あの時の火事の光景、今でも覚えている。戦国の武将もかくやと思った。朝永公はまだ二十歳前の若年ながらも、あの迫力、気構えはそうそう得られるものではない」


 熊谷はその目をまるでこれから眠りに落ちるかの様にゆっくりと閉じ、けれどそのまま低い声で話し始めた。

「それがしが武士になったのは、幼き日に見た錦絵への憧れだ」

 熊谷が語り出したのはこれまで水野が聞いたことがない、熊谷自身の話だった。

 

 熊谷が生まれ育った村には時折商人や講の御師が訪れて、土産に江戸の錦絵を置いて行った。幼かった熊谷は、たまに手に入るその錦絵を飽かずに何度も眺めていた。

「強きを挫き弱きを助け、忠義を貫く勇敢な武士の姿。それがしはずっと、自分がその錦絵の武士になる事を夢に見ていた。夢を叶えるために、剣術の腕を磨き、生まれ育った土地を捨て、新徴組に登用された。だが、それがしとあの錦絵の武士との間は一向に縮まらない」

 ゆっくりと開けた目には、これまでにない熱が零れていた。

「朝永讃岐守の火消装束姿は、それがしが夢に見ていた武将の姿そのものだった。凛々しく華やかで、敦盛公よりは年嵩か、義経公よりも雄々しさが勝った」

 昔話の英雄と羽代の当主の姿を同時に語る熊谷の声音は少年のように弾んでいた。武州の片隅の農家で、擦り切れるまで錦絵を眺めていた、その時のように。


「これまでもずっと思っていた。それがしの夢はいつ叶うのかと。だがたった今、思い至った。あの朝永公の姿をこの目で見た、その時にそれがしの夢は叶っていたのだ。あれが自分の夢の具現で、もうこれ以上、それがし自身が自分の夢を叶えることは無いのだ、と」

 芯からの武士になりたい。それが農民から出て郷士となった熊谷の心からの望みだったのだ。そして新徴組は、熊谷の夢を叶えてくれるものでは、なかった。自分の望みがこれから先にも叶うことがない、そう悟った熊谷の声音からも眼差しからも急速に熱は失われ、同時に限られた小さなうつわに満ちる充足があった。


「もう一度は」

 感情の抑揚を欠く声で熊谷が呟いた。これが熊谷のいつもの口調だと、どこか痛々しい思いで水野は熊谷の横顔を見た。

「岩見様がどこかで捕まえた浪士か何かを尋問していた時ではなかったか。我が家中の者を不当に監禁することは許さない、と当主の朝永様自らがやってこられた」

 覚えていないのか、と熊谷がいつもの淡々とした口調で水野に尋ねた。

「あの頃は色々なことがあり過ぎて、どこぞの家中のお役人がうちの藩士を釈放しろと、新徴組の詰所だけでなく酒井様のお屋敷にも毎日のように詰め寄っていました」

「我らは撃たれたのだぞ。その羽代の守護、朝永讃岐守様に」

 そんなことがあっただろうか。だが鉄砲を向けられることも常態で、薩摩浪士との市街での銃撃戦も最近では珍しくない。水野は命の危険に鈍くなっている自分に気づいていなかった。

「威嚇の空砲ではありませんでしたか」

「一発目は確かに。だが二発目は実弾だった。それがしの肩先を掠めて、戸板に穴をあけた」


「それは何の話だ」

 ふいに二人の後ろから声が掛けてきた者があった。振り向けば声の主は坂元で、新徴組士が浅葱の羽織を纏っていても坂元は黒の紋付き羽織である。

 目付け役とはいえ人手があっても足りないこの頃は、坂元の他にも黒い羽織の庄内藩士が新徴組の中に混ざって巡邏に出る。人出が足りない、という理由以外にも、機があれば地方の浪人や郷士の寄せ集めである新徴組を庄内藩士と行動を共にさせ、家中に同化同調させようという庄内酒井氏の思惑がそこにはあった。

 

 水野は声を掛けてきた坂元に対し立ったままの略礼で応じ、坂元の問いには、先ほどまでの感情の乱れを速やかに覆い隠して露にも見せぬ熊谷が答えた。

「坂元様、これは岩見様が亡くなる半月前ほどの話です。薩摩藩所縁の者が市中の討幕派と密談を行うという情報を得て我らが現場に向かったのですが、あと一歩のところで取り逃がしてしまいました」


 そう、そういう事だったと熊谷の説明を聞きながら水野は過去の記憶を手繰り寄せ、そして岩見が尋問していた相手があの秋生だったことを思い出して、熊谷の説明に自分の言葉を足した。

「密談があるという現場近くに、前にお話したことのある秋生という者がいたので、何か見聞きしていないか岩見様が取り調べていたところ、我が家中の者を不当に監禁することは許さないと讃岐守様自らがお出ましになったのです」


 朝永讃岐守と秋生の名が同時に出てきたことに坂元は敏感に反応し、さらに訊いた。

「それでなぜ朝永様がそなたらに鉄砲を向けたのか。それなりの事情があるだろう。強引な尋問だったのではないか。まさか大名相手に無礼なふるまいがあったのではないだろうな」

 坂元の目元が厳しくなる。

 羽代は小藩ながら朝永氏は譜代大名、場合によっては江戸城内で審議沙汰になってもおかしくない事案だ。だが、すでに坂元が調べ尽くした新徴組内の記録に、該当するものはなかった。


「我らは岩見様の命に従い、取り調べを行っていた空き家の戸口を見張っていただけで尋問の状況は分かりません」

 熊谷の淡々とした説明に、水野が思い出した状況を加えた。

「一刻も経たないうちに讃岐守様が馬に乗り、ご家中を何人か連れて来られました。ひどく気が立っておいでで、こちらの説明を待たず持たれていた洋銃を撃たれたのです。けれどそれは空砲でした」

「家中の方々が讃岐守様を宥めようとされており、それがしも尋問を終えるまで少々お待ち下さいと願ったのですが」

 返事は実弾による銃撃だった。


「岩見様は、剣の腕は確なものでしたが、捕えた者を痛めつけることはしない方でしたので、我々も尋問に岩見様一人があたることに何の心配もしておりませんでした」

「秋生は顔見知りでもあったので、内々で済ませようとしておられたのではないかと思っていたのですが」

 

 朝永弘紀は騎乗したまま空き家の戸口に突進し、馬の足で戸を破った。走り寄ってきた羽代家中の手勢は、こちらを攻撃するというより自分たちの主を止めるのに必死で、水野と熊谷にも手伝えと声を掛けてきた。状況が飲み込めぬまま、けれど直ぐに岩見の姿が家の奥から現れた。岩見は水野と熊谷の姿を見て、戻るぞ、とひと言、告げた。


「このことは他言無用だと岩見様は我らに言われました。妙だとは思ったのですが、その後、羽代家中から新徴組や酒井様に何か言われることもなかったので、それ以上は」

 水野と熊谷の話を聞いた坂元は、その一件こそが岩見に掛けられた薩摩藩への内通の疑いに通じるものだと思った。


 薩摩の密談の情報と、捕縛の失敗。岩見が独断で行っていた秋生への尋問と、朝永讃岐守の強引な要求。そして、新徴組内部でも隠された岩見の死。


 何か、あった。

 それは漠然とした予感ではなく、確信に近いものだった。

「今夜は江戸城の火事のことで何か呼ばれるかも知れん。明日以降、もう少しその讃岐守様の件についてお前たちに話を聞きたい。水野も思い出せる限り、当時のことを思い出しておけ」

「分かりました」

 岩見の死について、まだ残る思いのあった水野は躊躇いなく応えた。熊谷も一礼してそれに応じた。


 ふいに蹄が地を蹴る音が聞こえた。駆け足でこちらに向かってくる馬上の者は浅葱の羽織を着ていて、暗くなりかけた冬の夕方にも新徴組士であることが分かった。減速することなく待機している組士たちの真ん中に突っ込んで、その者は声を張り上げた。

「三田の薩摩屋敷が、今度は儂らの屯所に鉄砲を打ち込みやがったぞ」


 一八六七年十二月二十三日夕方、江戸城二の丸が炎上したのと同日に、三田の新徴組屯所に薩摩藩邸から銃弾が浴びせられた。


 これを問題視した旧幕府側は、十二月二十五日未明、庄内藩の他、三つの藩がおよそ千人の兵力を集めて三田の薩摩藩邸を包囲し、日の出とともに猛攻が始まった。


 容赦なく打ち込まれる砲撃に薩摩藩邸にはすぐに火の手が上がり、建物は全て焼け落ちた。薩摩藩邸内の死者は五十人を数え、百人以上が捕縛された。生き残って逃げ出した薩摩浪士数十人は、敢えて解放されていた道をひたすら南に遁走し、追っ手を撒くために品川宿に火をつけた後、海に飛び込んで海上の薩摩藩が所有する蒸気船翔鳳丸に引き揚げられた。


 同じく海上に待機していた旧幕府の軍艦回天が砲撃を加えたが、翔鳳丸を捕らえることはできず、翔鳳丸はそのまま大阪に向かった。薩摩藩邸襲撃において新徴組を含む旧幕府側の死者は九人だった。


 薩摩藩邸攻撃を終えると、旧幕府江戸留守居役は、直ちに江戸に入る五街道の関所の新設に着手し、江戸を本拠地とする総力戦に備えた戦闘態勢に入った。


 十二月二十八日、江戸城二の丸の炎上ならびに新徴組屯所への発砲と薩摩藩邸襲撃の情報が大阪にいた徳川慶喜に届いた。この知らせを聞いた徳川慶喜ら旧幕府の重鎮は、朝廷との協議を中止して薩摩討伐へと方針を変えた。


 この成り行きは、薩摩藩の思い通りのものだった。

 薩摩の西郷隆盛が、江戸や関東近郊で浪士を煽動して旧幕府軍を挑発し、全面的な武力衝突へ誘導していたのは、自らの戦力が旧幕府軍に勝ると確信していたからである。


 ここに鳥羽伏見の戦いが開戦、近代兵器を充分に備えた新政府軍の圧倒的な武力の前に、徳川慶喜を総大将とする旧幕府軍は敗北した。正確には勝敗が決定する直前に総大将である徳川慶喜が海路を使い江戸へ逃走した。江戸へ戻った徳川慶喜は朝敵となった。


 一八六八年一月七日、庄内藩主酒井忠篤に、旧幕府の征討軍に加わって徳川慶喜を討伐するようにという勅書が下った。

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