さよならを君に。
東城みかん
さよならを君に。
私の家族は、世間一般には転勤族と言われるらしい。族だなんて、まるでテレビで見るヤクザのようで最初は嫌だったのだけど、どの引っ越し先で出来た友達もそう言うものだから、いつの間にかもう慣れてしまっていた。
我が家がこれまでに引っ越しをしたのは、私が小学2年生のときと、その1年後にそれぞれ1回ずつ。まだ私が幼稚園児だったときにもしたらしいのだけど、そのときの記憶はあまり残っていない。
だけど小学生にもなれば、私はもう既に物心がちゃんとついていた。短い付き合いながらも友達と別れるのがつらくて、その2回とも長い間泣き喚いたのをよく覚えている。
だけど、私はもう慣れてしまったのだろうか。食卓に座る両親の真剣な顔を見て、なんとなく予感はしていたのだけど。
「鈴音。本当に申し訳ない。父さんの仕事で、○○県に引っ越すことになった」
12月初旬。高校受験を目の前にしたその時期に、食卓で私にそう切り出したのは父だった。私の顔色を窺うような、それでいて私が決して刃向かってこないことを確信しているような父の眼差し。その隣に座る母は何も言わず、黙り込んでいた。
だけど私は、こういうときどんな表情をすればいいのかが分からなくなってしまっていた。この街にいたのは6年間で、その間の思い出がひとつも無いわけではない。もちろん悲しさはあった。だけど何回もの別れを経験していくうちに、無数の傷で曇った眼鏡で見る風景みたいに、いつの間にかぼんやりとしか自分の感情の輪郭を掴むことが出来なくなってしまっていた。
○○県は今の住んでいる地域の海を挟んで向かい側、真正面にある県だ。他のところに比べたらかなり近い方ではあるけれど、そう頻繁に来ることは出来ないだろう。
だけど、もう私の中学校の生活は終わりに近づいていて、どのみち高校への進学で彼らと離れ離れになるのはずっと前から決まっていた。それに、父の転勤はどうせ変更が効かない。これまでもそうだったのだ。どちらかと言うと、仕方ない、という諦めにも似た気持ちが大半を占めている。
「……まあ、仕方ないよ。高校でどうせみんなと別れるのは分かってたし」
私は顔を少し伏せ、2人の誰とも目線を合わせずにそう呟く。それを聞いた父も母も、少しだけホッとした表情を見せた。2人とも、私が拒否するのを恐れていたのかもしれない。
「今まで黙ってて、本当にごめんね。転勤の話が確定するまで黙っていようって、お父さんと約束してたの」
でもこんな時期になっちゃうとはね、と母はそう言って申し訳なさそうに眉尻を下げた。実は転勤の話は数ヶ月も前から話に上がっていて、だけどそれが確定するまでに時間がかかったのだそうだ。
引っ越しは今から大体1ヶ月後になるらしい。2週間後に学校が冬休みに入って、それから大体1週間と少し。それまでにある程度の荷物は先に現地の新しい家に届けておいて、残った物と私たちが当日に移動する。今までとそう変わらない手はずだった。
「急な話で本当に申し訳ないけど、それまでに友達にちゃんと挨拶しておいてくれ」
「いや……みんなには最後まで言わない、かな」
恐る恐る会話を締め括ろうとした父にそう言い放つ。父は表情をあまり動かさなかったけど、一瞬面食らったような間が空いて、私は弁明するみたいに再び口を開いた。
「だってさ、あと2か月で受験じゃん? クラスの子達だって、勉強頑張ってる子の方が多いからさ。迷惑はかけたくないの」
本音だった。
友達と別れることはやっぱり、悲しい。だけど、それにはもう慣れてしまっている自分がいた。そもそも、みんなと別れるのは前から決まっていたことなのだ。
決して、強がりではなかった。
でも、だからこそ、こんな時期に私が迷惑をかけるわけにはいかない。もし私が転校してしまうことを言ったなら、仲のいい子たちは特に、勉強をそっちのけにしてお別れ会とかの何かしらのことをしてくれるのは目に見えていた。そうでなくとも、みんなの勉強への集中を少しでも切らしてはいけない。そう思っていた。
「まあ、心配しなくてもみんなとは連絡先交換してるから。みんなに挨拶しに行くのは、少なくとも受験が終わってからにするよ」
でも交通費とかは出してね、と冗談めかして付け足す。その言葉で一応2人は納得してくれたみたいで、それ以上は何も言ってこなかった。
父も母も、2人とも私に気を遣ってくれている。それは私もよくわかっていた。
引っ越し先には当然ながら、友達どころか知り合いすらいないけれど、ここよりもずっと都会だ。ここで出来た友達と別れるのは嫌だけど、あちらでも友達は出来るはずなのだ。きっと、慣れてしまえば寂しくなんてない。これまでもそうだった。ご飯を食べながら気持ちを切り替えた後、2階にある自分の部屋へ向かう。
上の階へと続く階段が纏う暗がりに包まれて、何故だか落ち着くような気がした。
*
「……本当に、秋山さんはそれでいいの?」
翌日の、放課後の職員室。既に傾いた日が朱く部屋のあちこちを染める中、担任の先生は私にそう問いかけた。埃と共に吐き出された暖房の風が、鼻を掠める。
私は、はい、と一切の間を置かずに頷く。
「卒業式の日には来るので、みんなにはその時に挨拶したいと思います。だから引っ越しのことは、当日まで言わないで下さい」
昨日、自分の部屋に上がってから決めたことだ。その答えを口にした私を、先生は悩ましげに見つめた。そしてそのまま深い呼吸を一回して、そして真っ直ぐ私の目を見つめた。
「うー……ん。うん。わかりました。鈴音さんのことだから、鈴音さんが決めるのが一番なんでしょう。だけどもし誰かに言いたくなったり、見送りに来て欲しかったら、いつでも誰にでも言っていいんだからね」
「……分かりました。ありがとうございます」
私は椅子から立ち上がった。
先生に一礼をして、そのまま職員室を出る。ドアを閉め、少し安心したような気持ちで、夕陽に少し暖められた廊下を歩いていく。
思いの外話の分かる先生でよかった、と思う。担任の先生とは言っても、今まであまり関わってはいなかったから、私が望んでもいないのにお別れ会をしようとか、そういった見当違いなことを言われるかと内心身構えていたのだ。
クラスメイトたちは、流石にもう皆帰ってしまっているだろう。すっかり人気がなくなった校内を歩きながらそう考えていたのだけど、教室に着いてみるとまだ1人だけ居残って勉強をしていた。参考書のような本を眺める顔がこちらと反対側に向いているので、誰かは分からない。だけど、制服で女の子だということは分かった。集中しているようなので、私は勉強の邪魔にならないように静かにドアを開けた。
そんなに音は立てていない、そのはずだったのだけど、彼女は驚いたようにこちらを振り向いた。
「あ、鈴音! やっと帰って来たー!」
「なんだ、風花か」
そう言って私は自分の席に置いている荷物へと向かう。
風花は私の小学校からの友達だ。今のクラスは別々だけど、受験勉強が本格的になるまでは、よく遊びに行ったりしていた。
なんだって何よー、と言いながら風花はすぐに教科書を閉じて荷物を片付け始めていた。多分私を待っていたのだと思うのだけど、風花とは特に約束事はしていなかったはずだ。
「どしたの? 何か私に用でもあった?」
「いや、特に。一緒に帰ろーってだけ」
「あー、なるほどね。りょーかい」
教室に備え付けられた時計を見ると、短針は既に6時を指していた。
何をしていたのかを聞かれるかと思い、内心身構えていたけど、風花は思いの外気にしていない様子だった。安堵が、微かに胸にこびり付いていた緊張を拭う。この子とは私がこの地域にやってきたちょうどその時期からの付き合いだから、嘘や誤魔化しをするとすぐにバレてしまう。
「あ、そうだ。今からカフェ行かない?」
「え、カフェ? んー、別にいいけど」
風花からの突然の誘い。そういえば最近、勉強で忙しいとは言えあまりどこかに一緒に行ったりしていない。日は既に暮れていたから一瞬迷ったのだけど、こんな機会はもう無いかもしれない。そう思ってついて行くことにした。
「あ、ちなみにどこ行くの?」
「そりゃ、あそこしかないっしょ」
私の家と、風花の家はかなり近い。ほとんど同じ団地に建っているから、お互いに徒歩で3分くらいしかかからない。あそこ、というのは、多分その私たちが住む団地のすぐ側にあるカフェのことだと思う。
外に掲げた看板の、独特なクセのある筆記体みたいな英語の文字が絶妙にダサい。もちろん私も風花もなんて書いてあるかが読めないから、よく行く割に店名があまり分かっていない。
だけど、そこは2人ともの家と近い上に、どのメニューも基本的に安価で美味しいから、受験期に入るまでは私たち2人や他の友達と一緒に何度も訪ねていた。そういえば、あそこにも最近は全くと言っていいほど行っていないから、本当に丁度いい機会だと思った。
2人で一緒に、自転車置き場まで歩いて行く。
私が荷物を荷台に載せた時には風花はもう自転車に乗っていて、私はそれに慌ててついて行く。学校の校門を抜け、道沿いに自転車を走らせる。帰り道の自転車は、何故か風に押されているような気がして気持ちがいい。
それは風花も同じだったのか、受験だるいねー、とか、学校であの子が一番かわいい、だとか、何度も使い回して擦り切れたような話でさえもよく弾んだ。
結局カフェに着いた頃には夕陽はすでに沈みきっていて、太陽の熱で溶けたような空の朱色は、既に冷えきった深い紺色に変わっていた。
自転車を止めて入った店内は、私が最後に来たときとほとんど変わっていなかった。数ヶ月ほどしか経っていないから当たり前と言えば当たり前なのだけど、変わっていない、というのは、それだけで魅力のように感じる。
私と風花はいつもより少し長めに悩んだ後、同じパフェとカフェオレを頼んだ。口にパフェを入れるまでの合間でさえも話を続けようとする風花に、私も相槌を打つ。クリームから顔を覗かせたフルーツたちが、天井の照明に照らされて輝いている。
このカフェに来るのも、多分これで最後になる。
引っ越し先は、この街よりもずっと都会だ。きっとこの店より美味しいパフェが食べられるのだろうし、ここより写真映えする店だって、きっとあっちにはこの街より比べものにならないくらい沢山ある。
だけど、それが一体何になるのだろうか。
私はここから居なくなって、どこに、
「──音は、どこに行くの?」
「え?」
思わず、聞き返した。そして、風花の話を途中から聞いていなかったことに気づいた。
ごめんぼーってしてた、と私は笑ったけど、風花の表情は少しだけ真剣なものに変わっていた。ぱっちりと大きくて可愛らしい風花の二重の瞳が光をまとって、私に向けられる。食べ終わったパフェの容器が、固く冷ややかに光を閉じ込めていた。
「だから、鈴音は高校どこに行くの?」
なんとなく、風花の表情の理由が分かった気がする。言われてみれば、私は風花や他の友達にも、志望校がどこだとかは言っていなかった。誰にも聞かれなかったし、自分から言うこともなかったのだ。
「あー、私はやっぱりS高かなー」
当然だけど、嘘だ。
S高はここの地域では2番目に偏差値の高い学校で、たしか去年までの風花の成績ではギリギリ行けないくらいだったはずだ。
どのみち私は引っ越ししてしまうから、それが風花の耳に入るより先に、元から私たちは離れ離れになると思ってもらった方が風花を傷つけないで済む。そう考えた結果だった。引っ越しならまだしも、進学先が違うのはありがちな別れだ。
だけど、風花の見せた反応は、私が予想していたものとはどれともかけ離れていたものだった。
「え、ホント!?」
先程までの表情から一転、風花の表情にはいつもの明るさが宿っていた。マズイ、と嫌な予感が心臓を叩くのと、風花が得意げに話し出すのはほとんど同時だった。
「実はね。私最近めっちゃ成績伸びてさー、このまま行けば北高行けるかもーって塾の先生が言ってたんだよ!」
鈴音もいるんだったら言うことないねー、と風花はコップに残ったカフェオレをズズ、と飲み込む。
「え、マジ? 凄いじゃん!」
一瞬の間を開けて、私は、辛うじてそう言った。声が不自然になっていなかったか気が気ではなかったけど、風花は気にした様子もなく笑みを浮かべ続けていた。
大丈夫だ、と私は自分に言い聞かせた。何もマズくなんてない。私の予想と思惑が外れてしまっただけで、嘘がバレたわけではないのだ。
「あ、でもさー、いくら学力が上がったところで私の今までの成績が上がるわけでもないじゃん?」
風花は依然として会話を続けようとする。それが、話題が出てこない私にはありがたい。
「……あー、まあそれは確かに」
「だからね、今日みたいにカフェ行ったり休み時間に友達と話したりするのは明日からやめとこーって決めたの」
「おー偉いじゃん。でも風花には休み話さずに勉強するの無理そう」
絶対横道逸れるじゃん。だんだん心に余裕が戻ってきて、私は冗談めかしてそう言った。
「はー、見てろよアンタの入試の点数絶対超えっから!」
風花もそれに乗ってくる。弾けるような私たちの笑いが店内に響き、慌てて二人とも口をつぐんだ。
今が一生続けば良いのに、とかドラマみたいなセリフが頭をよぎる。私は、風花に嘘をついているけれど、この気持ちは嘘なんかじゃなかった。
2人して吹き出した。注文したものを完食したにもかかわらず、私たちの話題は尽きることがなかった。結局家に帰る頃には、夕食の時間を大幅に過ぎてしまっていた。
少し母は怒っていたけれど、後悔なんて欠片もない、いい1日だと私は思った。
*
それからというもの、風花は本当に本気で勉強をしているようだった。数日後、たまたま近くのクラスに用があったからクラスに様子を見にきたのだけど、ドアから見る私には全く気付く様子はない。宣言通りに休み時間も英単語帳を眺めている姿は、なんだか様になっていた。
去年の風花とは考えられない変わりように、少しだけ寂しさを感じる。きっと、風花はS高にも受かるだろう。
私だって、引っ越しがあるからといって受験があるのには変わらない。
これで引っ越し先の高校に落ちてしまっては示しがつかない。私も頑張ろう、そう一人ごちて自分の教室へ向かった。窓から差す光が、やけに暖かかった。
そうして適当に日を過ごしているうちに迎えた今日で、もう2学期、そして私にとってはこの学校で最後の登校日になってしまった。
明日から始まる冬休みは大体2週間程度で、短いとは言え曲がりなりにも長期休みに入るというのに、クラスの空気はなんだか澱んでいる。まあ、そのほとんどが受験勉強で埋まることを考えると仕方ないのかもしれない。
あの日から、風花とは会っていなかった。私からは特に会うような用件もなかったし、多分それは風花も同じだっただろう。お互いに勉強の邪魔はしたくなかったのだと思う。
大掃除も終業式も、この学校では最後だと考えるとなんだか感慨深く感じた。最後に長期休み恒例の担任の先生による諸注意が終わって、そうして私たちはやっと束の間の自由を手にする。もちろん課題付きの、だけど。
だらだらと帰宅したり塾へ行こうとするクラスメイトたちを尻目に、私は彼らと逆の方向へ歩いていく。途中何人かの友達に帰ろうと誘われたけど、ちょっと用事があると言って断った。
我ながら最後の最後まで嘘ばかりだな、と思う。用事なんてない。だけどちょっとだけ、今日は1人で帰りたい気分だったのだ。
自分でも誰にしているかは分からない、トイレに行くふりをしながら適当に校舎を見て回る。
少し昼を過ぎた冬の太陽は弱々しいけど、その分光は優しさをはらんでいる気がする。窓に形取られた光が廊下をまばらに照らしていて、カメラも持っていないのに、今更ながらこの風景を写真に収めたくなった。
歩き回るうちにだんだんと人がはけ始めていて、気がつけばもう校舎にも、外にも生徒はほとんどいなくなっていた。
名残惜しいけれど、ずっとここにいるわけにもいかない。階段を降りて、私のクラスの自転車置き場へ向かう。やはりクラスでまだ学校に残っているのは私くらいなもので、他のクラスの置き場を見ても自転車は数台しかなかった。
サドルにまたがり、正門を目指す。目の端を流れていくのは、いつもと変わらない見慣れた風景だった。見飽きた、とも言っていい。でも、だからこそ、今は目に焼き付けようと思う。
自転車置き場から走る小道を行く。体育館に隠されるように建てられた、プールサイドに人はいない。
ファイトー、とバレー部かバスケ部かもわからない掛け声を背中に浴びて、ゆっくりと走った。落ち葉を踏む音と錆びれた音を出しながら、私を乗せた自転車が門へと迫る。
その瞬間、私は大きくペダルを踏んだ。勢いよく前輪が学校を飛び出し、自転車から私へと、今日までずっと慣れなかった揺れが伝わった。
けれど、私は振り返らなかった。黒いアスファルトに覆われた道を、懸命に疾走する。いつの間にか、私は立ってペダルを踏んでいた。
涙は流れていない。それは、卒業式の日にとっておくつもりだ。
1人ぼっちがなんとなく心地よい、冬の昼下がり。
引っ越しの日はゆっくりと、だけど着実に近づいてきていた。
*
時間が経つスピードというのは、いつも私が予想する早さよりも一歩先を行く。
気がつけば、もう引っ越しの日は明日に迫っていた。
家は日が経つにつれて、次第に置かれた物よりもがらんとした空間の方が目立つようになっていた。私の部屋も段ボール以外では、もう勉強机くらいしか残っていない。その椅子に座った私は、教科書も開かずにただぼうっとしていた。
まるで集中が出来ない。いつもと同じ部屋にいるはずなのに、無駄に広く感じる空間が私の存在を忘れてしまったような居辛さがあった。
カーテンを少しだけ開けて見る。太陽はもうとっくに沈んでいて、暗闇を溶かしたガラスが私の顔を写していた。
気晴らしに、散歩にでも行こう。上着を羽織って玄関に向かう。
「ちょっと散歩に行ってくる」
と、リビングに向かってドア越しに声をかけ、そして返事を待たずに外へ出た。一応財布は持ってきたけれど、特に何も欲しいものは無い。
外に出たのはいいものの、どこへ行こうか。ふらふらと迷いながら道を進む私の歩みはかなり遅い。特に行きたい場所もなかったから、とりあえず近場をうろうろすることに決めた。見慣れた景色を少し歩くだけでも、良い気分転換にはなるだろう。
この街の夜は、そんなに静かというわけではなかった。犬の吠える音や、つんざくようなバイクの音がちょくちょく聞こえてくる。だけどそのいつも通りな様子に、少しだけ落ち着くような気がした。
10分ほど歩いただろうか。
暗がりの中長い間出歩くわけにもいかないし、そろそろ帰ろう。そう考えて元きた道を戻ろうとした私の耳に、自転車が近づく音が急に聞こえた。
その音で、私はさっきまであまり周りを見ていなかったことに気づいた。
すみません、と謝ろうとして振り向いた私の背後。そこに居たのは、制服に身を包んだ風花だった。
「あれっ、鈴音じゃん!」
余りにも予想外な出会いに、え、と私の口から音が漏れ出た。風花は1人、テンションを上げていく。
「偶然だねー、散歩でもしてたの?」
「あ、うん。集中出来なくて。風花は塾?」
「そういうこと。もー今日は疲れたから勉強したくないー」
風花はでろんと自転車のハンドルに覆い被さった。
まさか丁度このタイミングで会うのは予想外だったけど、たしかに近所だからあり得ない話では全くない。それにしてもここ最近、風化には無駄に驚かされてばかりな気がする。大体悪いのは私なのだけど。
「鈴音はちゃんと勉強してるの?」
「まあそりゃあしてるけど、最近集中出来てないんだよね……」
「おっしゃ、これ勝ったな」
何にだよ、と私は笑いながらつっこむ。暗がりで顔は少し見づらいけど、風花も笑ってくれていた。
勉強に息抜きは大切だ。きっと風花も、見た感じよりもずっと疲れているのだろう。
だけど私は、今ならあの部屋でもなんなく集中出来るような気がしていた。
風花は自転車から降りた。そうして、2人で歩きながら道を行く。多分2人でこういう風に歩くのはこれで最後になるのだろうな、と考えると、あと何十キロの距離でさえも、二人で一緒にいるのなら歩けるような気がしてくる。
だけど、もちろんそういうわけにもいかない。楽しいこの瞬間を邪魔されるわけにはいかないから、心にチャックをして私は風花と話を続けていた。
「それじゃ、また今度。絶対一緒に合格しようね」
別れ際。住宅街の路地で、風花は風に乗せるように静かに呟いた。喋りすぎたからだろうか、私はなんとなく、喉が痛いような気がする。
「うん」
「約束だからねー」
少し冗談めいた感じで、だけど念を押すように、風花はそう言って再び薄暗い街へと自転車で走り出して行く。ここの辺りは少し街頭が少ない。そんな暗がりの中でも、風花はしっかりと前を見据えて遠ざかって行く。
私はその背中を見送ってから、また歩き始めた。
街頭に照らされて、影が伸びる。
約束だからね。
風花は、私にそう言った。
私を何も疑いもしないで、そう言った。
だけど私は、その約束を守れない。あの瞬間、うん、って頷いたのに、私はその約束を守ることは出来ない。
街の夜は、中途半端に薄暗い。
私はもっとこの夜の色が、自分自身の足元すらも見えないくらい濃かったらいいのに、と思った。そうして、私はその闇に溶けて消えてしまいたかった。
UFOでも、神隠しでもなんでもいい。誰にも原因が分からないように消えてしまえばきっと、約束を守れなかったのも仕方ないって、そう思えるはずだから。
夜の道を、たった1人で歩いていく。
引っ越しの日は、もう明日に迫っていた。
*
「じゃあ、もうそろそろ出発するぞ」
父はそう言って、ハンドルに手をかけた。
名残惜しさを排気ガスに乗せて、車がゆっくりと動き出す。
引っ越し当日の朝は、薄暗い灰色をしていた。肌寒さは車を乗っても同じで、エアコンが少しづつ張り詰めたような冷たい空気を塗り替えていく。
「安全運転でお願いね」
助手席に座る母が父に向かってそう言った後、私の方をちらりと見たような、そんな気がした。
ゆっくりと、少しづつ遠ざかっていく家の外壁は、少しくすんだ色をしていた。年月が幾重にも積み重なって、そうしてようやくできる色。私たちが来た6年前には、きっと雪のように見事な白色をしていたのだと思う。
さよなら、と私は心の中で呟いた。既に父が走らせる車の窓は家を写すのをやめていて、見慣れた街並みが川のように流れていく。当然だけど、見送ってくれる友達は一人も来ていなかった。父も母も、そのことには何も触れないでくれている。そのことは正直、私にはありがたい。
クラスのみんなは今頃、必死に勉強をしているのだろうか。
もし私が引越しすることを言っていたら、どれくらいの人たちが来てくれていたのだろうか。
そんな無意味な思考を私が巡らせている間も、窓に映る見慣れた風景は次々と後ろに流れ、そして過去のものへとなっていく。
だんだんと感傷に深く沈みこもうとした私に、何か大切なものを忘れてしまったような焦りと喪失感が胸を貫いた。私は窓から目を背け、どこに目線を向ければいいのかも分からないまま顔だけ下に向かせる。
だけど私は、天気が悪いと気分が沈んで良くないな、と無理矢理心に蓋をするみたいに、手荷物から適当に参考書を手に取って開いた。少し滲んだ視界をあくびのせいにして、指で軽く拭った。
酔い止めは飲んでいないけれど、出来る限り遠くに行くまでこうしていたい。
中途半端な強がりをする私は、だけど、そんなに強くなんてなかった。そのことがただ、私には悔しい。
車の排気音がどこか遠いところのように感じられる。CDの洋楽だけがただ懸命に陽気さを空気に溶かしているけれど、私も父も母も、誰も話そうとはしない。運転していて前を見据えている父はともかく、母は窓の外をじっと見つめ続けている。
だけどそれが、変に会話をしようとするよりかは余程心地が良い。私は、懸命に英文を目で追っていく。
今はただ、誰とも話さずに下を見続けていたかった。
それから、どれほどの時間が過ぎただろうか。揺れる車内で揺れる文字を読んでいたから、余計に時間が長く感じられた。
その間にも流れる洋楽は、依然として場違いに陽気だった。だけどそれに反して、糸が張り詰めるような静寂が車内を満たしていた。
「あ、雨」
その静寂に耐えられなかったみたいに、母が1人、おもむろにそう呟いた。
思わず私は参考書から顔を上げて、外を見た。私たちの車は既に街を越えていて、いつの間にかあの街と引越し先を繋ぐ橋の上を走っていた。きっともうあの街が見えないほどに、遠いところまで来ていた。
私は数時間ぶりに外を見て、ここまで来ればもう安心だ、と思った。何に安堵したいのかも分からないふりをしたまま、そう思いこもうとした、と言ってもいいかもしれない。
少なくとも、私は後ろを振り向く勇気が無い。遠ざかっていくあの街の、私との距離を、知りたくはなかった。
ずっと続いている揺れのせいで、参考書を持つ手に力が入る。
外には母が言ったように、小雨が降り始めていた。窓にも既にいくつかの水滴が付いていて、そのどれもが風に吹かれて流れていく。名残惜しそうに、だけど諦めたようにゆっくりと、私を乗せた車とは逆の方へと流れていく。
雨が、次第に激しくなっていった。車の天井がトタンのような音を出して、陽気に歌い続ける英語の歌詞が聴き取りづらい。
窓にはもう、びっしりと水滴が付いていた。風もさっきより強くなっていて、水滴たちは凄い勢いで窓の下へと落ちながら滑っていく。
あの街が、ある方へと向かって。
参考書の文字が揺れる。さっきまでは集中出来ていたはずなのに、今はもう文字がぼやけて読むことすら出来ない。
この瞬間にも車は走っていく。あの街に背を向けて、逃げるように走っていく。
私は、後ろを振り向いた。
振り向いてはいけないと思っていたけれど、私はそれでも振り向いた。涙を長袖で雑に拭いて、私は目を見開く。後部座席の向こうの、1番後ろの窓ガラス。流れる水滴のせいで、まだ視界は少しぼやけていた。
だけど、辛うじてあの街が見えた。
雨で煙った建物のシルエットだけが、私の目に写った。
慣れているって、私は思っていた。誰かと別れることも、誰かに忘れられることも、私は慣れているって、そう思っていた。
そうじゃなかった。
私は何にも慣れてなんていなかった。
私は、私たちは元々あと1ヶ月もしないうちに離れてしまうはずで、だから平気だって、そう思っていたのに。
トタンを叩くような雨音がうるさい。陽気な癖に耳に入ろうとしない曲がうっとおしい。
嗚咽が漏れる。心配するような空気が背中の方から流れてくるのを感じるけれど、気にしてなんていられなかった。
私は、後ろを見つめ続ける。
6年間、何もないわけではなかった。
カフェに行った。
休み時間に、馬鹿みたいな話で盛り上がった。
おしゃれな店に行ってみたり、そこで友達みんなと写真を撮った。
風花に彼氏が出来たときなんかは、自分のことのように喜んだ。
いつか、私も誰かを好きになったなんてことも、あったのかもしれない。
そんな思い出たちを乗せて、それでも車は構わずに走っていく。
あのカフェが。
あの学校が。
あのおしゃれな店が。
あの友達、みんなが。
街と共に、遠ざかっていく。
思い出になんて、したくなかった。ずっとあそこに暮らしていたかった。
思い出たちがいつの日にか、シルエットみたいに輪郭をぼんやりとしか掴めなくなることを、私はずっと恐れていた。
不意に、風花の顔を思い出した。
疑うことなんて考えたこともないみたいに、きっと誰よりも可愛くて優しい、風花のあの顔。
謝ろう、と私は思った。
卒業式の日。私はあの街にもう一度訪れる。きっとそのとき、あの街に私の居場所はないのだろう。そのときには全てが思い出になってしまっていて、私の居場所はあの街には無くなっているのだろう。
それでもいい。私は、謝らなければならない。
謝って、そしていつか、新しい家にも遊びに来てもらおう。きっと風花には、私なんかよりもずっとオシャレが似合うはずだ。
涙をもう一度袖で拭いて、そして私は前へと向き直る。その間にも、車はぐんぐん前へと走り続けていた。
あの街が、遠ざかっていく。
さよならを君に。 東城みかん @toujoumikan
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