焦がれてあおい

園田汐

焦がれてあおい

 ピンセットでハッパを紙の上に移す。何往復かする。くるくる巻いて舌で湿らせ糊の部分を溶かして紙同士を接着させたら完成。ライターに火をつけて、六、七回深く吸い込む。あとは十五分から二十分待つだけ。喉が渇くからその間にコップに水を注いでおこう。カーテンを閉めてテレビを消して部屋を薄暗くする。そうこうしてるうちに、あぁ、ほらほら、来た。ベッドに仰向けに寝転んで、イヤホンをつけて、プレイリストを再生したら目を瞑る。イヤホンから流れてくる音が脳味噌の中で直接鳴っているみたいだ。思考は曖昧に形を成さないものになっていく。沈みながら浮遊している。自分の手が今どこにあるのか分からない。身体がどんな向きを向いているのかも分からない。輪郭を想像しようとしても、それは歪んで渦を巻いて消えていく。身体は輪郭を失って空間に溶け出す。音は模様を作り出す。頭の暗闇に複雑な曼荼羅のような、幾何学模様が浮かんでは音と共に変化していく。時間を認識できない。感覚だけの世界。いつまでもこうしていられる。何も考えなくていい。と言うより、考え自体が浮かんでこない。起きているのか寝ているのかも区別が無くなる。

 プレイリストを何周しただろうか、だんだんとシラフに戻ってくるのを感じる。スマホの通知音が鳴った。腕を動かして、スマホを顔の前まで移動させる。お、俺の腕、そこにあったんだな。久しぶり。ってな感じ。瞼を開けようと思ってから五秒ぐらいかかってから、ようやく開ける。

 ドライブ行かね?

 ジンからの誘いが来ている。文字を打つのがだるくて通話をかける。

「あーー、何分後?今さ、戸越公園ってわかる?そこの家にいてさ、位置情報送るわ」

「んっとねー、そこだと、、今から家出て、そだな、三、四十分って感じ。着いたらまたかけるわ」

 了解。と言い終える前に通話は切れていた。

「どっか行くの?」

 いつ帰って来ていたのだろう、家主が水の入ったコップを差し出してくる。喉乾いてるでしょう?と。

「ありがと。ジンがドライブしようって」

 一息に水を飲み干す。この瞬間の水が世界で一番美味しい飲み物だ。これは譲らない。

「ジン君って、ユウ君のインスタにたまに出てくる綺麗な顔してる子だよね?」

「そそ、だから俺、あと三十分ぐらいしたら出るわ。帰り、どのくらいになるか分かんない。明日仕事?」

「明日はね、午前中だけ家で仕事してる。夜は飲みに行くかなー。鍵持ってくの忘れないように気をつけてね。いないかも知んないし」

 少しお腹が減ってることに気づく。冷蔵庫を開いて板チョコを取り出す。パキッと気持ちの良い音を立てて噛み砕かれたそれが舌の上で液体になっていく。

「そんなものばっかり食べてるのに、何で太んないんだろ。羨まし。さっき作った青椒肉絲、タッパーに入れてあるから好きなときに食べていいよ。でも、二日ぐらいのうちに食べちゃってね腐るから」

「料理作ってたなんて全く気がつかなったわ」

「とんでる時のユウ君、微動だにしないし、触らない限り何してても気がつかないよね。死んじゃってるみたいで面白い。イヤホンからの音漏れやばいし、どんな音量で聴いてんの」

「俺には、あの時間を音楽を聴くこと以外に使うやつの気がしれない。そのためにあんじゃん」

「まー、確かに、音楽聴くと気持ちいいけどさ、ワタシはご飯食べるのが最高かな。あ、だから、痩せないのか、、」

 しょっぱい物も少し食べたくなって青椒肉絲をタッパーから手でつまむ。

「ん、美味しい。ありがと。帰って来たらまた食うわ」

 スマホが音を立てて震える。ジンからだ。しょっぱい指を舐めて綺麗にしてから通話に出る。

「着いたよ」

「了解、今行く」

 じゃ、また後でね。アウターを羽織ってブーツの紐を結ぶ。玄関で手を振るその手首は異常に細い。これ以上、細くなりようもないのに、どうやったら自分が太ってるだなんて思うのだろう。暴食した後だって、トイレで全部吐き戻してるんだから、骨と皮しかない身体じゃないか。冷蔵庫で冷やしたチョコみたいに音を立てて簡単に折れてしまいそうだ。パキッと。

「久しぶり、元気してたか?」

 切長の目を細くして笑う。

「まあ、ぼちぼちってとこ。いつもと変わんないよ。ここまで来てくれてありがとな」

 シートベルトを締める。

 どこ行く?

 ん、まあ、とりあえず適当に走らせよ。

 じゃ、よろしく。

 音楽、ユウのスマホ繋げてかけて。ユウセレクトでさ。

 おーけー。

 スピーカーから、宇多田ヒカルのデビュー曲が流れ出す。

 宇多田ヒカル、やっぱ、エグいな〜。これ、十六だっけ?十七?

 多分、十六。

 天才ってことか。わけわかんねーな。

 だな。

 会話は途切れ、ジンの鼻歌が薄く聞こえる。ハンドルを握る指がリズムを取っている。四車線ある道路には、自家用車よりもトラックの数が多くなる時間。コンビニからスウェットで出てくる人。まだ春になる手前、寒そうに肩をすくめている。バス停のベンチで寝ているスーツ姿。五反田で飲んだ帰りに力尽きたのだろう。財布を盗まれないことを願う。

 お、この曲、初めて聴く。

 これね、一緒に作ってる男の人が好きなんだよな。

 会話は静かに、ポツポツと、続く。降っては止みを繰り返す雨のように。

 車がコンビニに止まる。

「ちょっと、タバコ買ってくるわ」

「じゃあ俺もついでに、あと三本ぐらいしかないし。あったかいコーヒーも買おかな」

 これと、あと百五番ください。

 会計を済ませて一緒に店を出る。

「一服してこ」

 自分のタバコに火をつけたあと、ジッポの火を俺に差し出す。

「ありがと」

「まだ、さみーな。早く春になって欲しいな」

 吐き出す白い息はどこまでが煙でどこからが寒さのせいか分からない。完全にシラフに戻っていると思っていたけれど、タバコを吸ったせいで、さっき吸ったハッパがまた回り出して、少しよろける。

「お、どうした?」

「すまんな、さっきまで吸っててさ。もう完全に抜けたと思ってたんだけど、タバコ吸ったらまたちょっとだけ回っちゃって」

 ハッパ、ウィード、大麻、マリファナ、ガンジャ、そう呼ばれるそれ。

 ジンが俺の髪に鼻を近づける。

「本当だ。ハッパの匂い。あ、持ってきてねーだろうな?もし持ってたら、勿体無いけど今捨てとけよ。万が一、警察に止められたりしたらあぶねーから」

「大丈夫。持たないし、自分では買わない主義」

 そうだったな、なら安心。そう言って吸い殻を爪先で踏みねじる。

「抜けるまで、シート倒してぼーっとしときな。車は適当に走らせとくから」

「や、割と頭はすっきりしてるから、ありがとな。大丈夫」

「そか、じゃあ行くか」

 車はまた走り出す。

 今日の家は、女の子?

 そだな。

 どんな子なの?

 んー、フォロワー。

 あーあ、またフォロワー食っちゃって。ユウ顔は良いからなぁ。

 顔、は、ってなんだよ。お前だって綺麗な顔してるくせに。

 自分の顔がいいことは否定しねーのな。でもよかったよなぁ俺ら、それなりに良い顔で産んでもらえてさ。生きやすいよな。

 まあ、な。けど、俺から連絡したわけじゃねーよ。家のガス止まっちゃってさ、ストーリーにそのことあげたら。じゃあうちきなよ〜って。

 食うっていう言い方、俺は好きじゃなかった。なんだか搾取する側とされる側がいるみたいで。インスタグラム、フォロワー数、七千人ちょい。何の活動もしていない一般人にしては多い方。顔。それっぽく撮った写真。タトゥー。特定の層には刺さるだろうなっていう投稿たち。実際、刺さるように意識して作ってるし。

 ジンがタバコに火をつけるのにつられて、自分のタバコに火をつける。もう回らない、完全にシラフに戻っていた。

 ユウ、最近、どう?

 どうって、例えば?

 んー、大学とか、生活とか?

 大学は、行ってねーな。単位全部落とすと思う。てか、確実に落とす。

 ゼロ単位か、カッケェな。ユウは、我が道行ってますって感じで、羨ましい。

 単位取得数ゼロ、何もかっこよくなんかない。恥ずかしいだけだ。たまにニヒルに笑ってる自分をぶん殴りたくなる。我が道、か。そもそも、道も何もない。逸れていってそのまま崖から堕ちていってる気分だ。怠惰な生活への焦り、堕ちていく事に対して悦になったり、恐怖が頭をかすめたり、大多数のように一般企業に就職して働く人々への優越感と冷笑、けれど、嫉妬。全部忘れたくなってハッパを吸う。誰かと同じベッドの上で夜を明かす。そこに道なんて無い。繰り返してるだけ。止まらないメリーゴーランドに乗ってる気分、キラキラしてる、楽しいけれど、いつ終わるのだろうかと不安になってくる。俺は降りられるのだろうかと。

 かっこよくなんかねえよ。ジン、お前はどうよ。

 俺はね〜、それなりに上手くやってるよ。普通に来年卒業できそうだし、内定も幾つか貰ってる。

 そっか、良かったな。

(何が欲しいか分からなくてただ欲しがって)

 と宇多田ヒカルの声が綺麗だ。

 歌、うめーな。

 ジンのその言葉を最後に車は静寂に包まれた。もっと、ありきたりなポップスでも流してたら良かった。雑音になり得る音楽なら良かった。完成された音楽は静けさを際立たせすぎる。

 車の速度が落ちたような気がしてメーターを見る。速度は落ちてなかった。法定速度ギリギリ、誰にも怒られない程度のスピードで進んで行く車。スピードを上げて欲しかった。何もかもを後ろに置き去りにできるぐらい。振り返る余裕なんてないほどに。

 先に痺れを切らしたのはジンの方だった。気がつけば車は海沿いの道に優しく停められていた。

 タバコに火をつけて、長く吐き出してスマホを俺に見せる。

「このさ、アカウント、お前のだろ?」

 画面を覗き込む。そこには確かに俺のもう一つのアカウントが映し出されていた。写真に詩を添えた投稿をしているアカウント。フォロワー数、二百五十六人、誰にも存在を言っていないアカウントだ。どきどきして顔が熱くなる。

「あーー、うん、そう俺。恥ずいよな、こういうの。なんか、本気でやってるっぽくて。ハッシュタグ詩が好きな人と繋がりたい、とか、写真好きな人と繋がりたい、とか書いちゃってるし、、けど、どうして分かった?」

 ジンは少し、寂しそうな顔をして、それから真剣な顔で俺をみる。俺は、その視線がキツくて、目を逸らしてしまう。

「ヘラヘラ笑うなよ、良いじゃん。好きだよ俺、特にこれとか。この前会った子がさ、詩とか好きって言うからインスタでちょっと漁って見てたんだよ。お前さ、タトゥーちらっとだけ見せてる投稿あるだろ?このアカウントで。それで、ユウじゃん、ってね」 

「やめろって恥ずいから」

 ジンが見せようとする画面を俺は見れない。こいつが友達のやっていることをからかったりなんてするわけがないのは分かっている。ただ、恥ずかしくて消えてしまいたかった。

「なんか、腹減ったわ」

 話を変えてしまいたくて、思ってもいないことを口にする。 

「どっか入るか。って言っても、車だし、ユウは酒飲まねーし、ファミレスぐらいしかねーな」

 優しくて察しがいいから、こいつはもうこれ以上、この話題で踏み込んでくることはない。

「ググってよ。近くのファミレス。とりあえず、街の方に向けて車戻らせるから」

 良かった。この話題がこれ以上続くことなく終わって。ジンの悲しそうな表情を振り払いたくてタバコに火をつけようとする。二回失敗して、三度目でやっと着火する。指が微かに震えていた。

 店内は思ったよりも人がいる。パソコンをいじってる大学生らしき二人組。読書をする中年男性。デカい声で笑い合う女性二人。と、それに似たような人たち。

「お前、ほんと甘いもの好きな。どこ行ってもプリン頼んでるやん」

「甘いもの、脳みそが喜ぶじゃん。それにここのプリン、結構レベル高いんだよ。一口食ってみる?」

「や、いいわ。ピザ食ってんだぞ?そういうな〜、ギャップ?タトゥーそんなイカついのにさ、甘いもの好きとか、しかも一番食べてるのがプリンだとかさ、みんなそういうところにもやられちゃうんだろうな」

「知らねーよ」

 二人でニヤニヤと笑い合う。俺らはいつもこんな感じだ。こんな感じの時間を何度も過ごしてきた。

「今度はさ、俺の家で吸おうぜ。まあ、お前、ずっと寝転がって音楽聴いてるだけなんだけどさ、俺が就職しちゃったら、そんな機会も、ほとんど無くなるだろうし」

「だな。誘えよ。いつでも行くから」

「にしてもさ、ファミレスも、どこもタバコ吸えなくなっちゃったな。別に、席分けりゃそれで良くね?」

「だな」

「っしゃ、食ったら帰るかー」

 ピザも結構うめーよ。そう言いながらバクバクと口に放り込み始める。食べながら喋んなよ。ちゃんと手で隠してんだろが。内容の無い会話をしては笑い合う。これが俺らの日常。

「書けよ。実は楽しみにしてんだ」

 帰り際、車を降りる時、ジンがこちらをさっきと同じ、真っ直ぐな視線で見つめて言う。

「運転ありがと。楽しかったわ」

「おう。また誘う」

 上手に車を切り返してすぐに見えなくなった。

「ん、もう帰ってきたんだ。夜とかになると思ってた」

 静かに鍵を開けて静かに靴を脱いだつもりだったのだが、起こしてしまったらしい。

「ごめん。起こしたか」

「大丈夫、今何時、?」

「六時前」

「んーーー、もう起きちゃおっかな。ユウ君は、今から寝るでしょ?」

 立ち上がり、ウォーターサーバーからコップに水を注いでいる。

 ベッドに寝転がると、どっと、疲れが出る。きっとあの話題のせいだ。思い出すだけで恥ずかしくなった。

「来て」

「えー、起きるって決めたばっかなのにー」

 あの話題を思い出さぬようにと、急いでパジャマのボタンを外す。もー、朝から、、しょうがないなぁ、頭上から声が聞こえる。さっきまで布団に包まれていた肌は暖かかった。わ、ユウ君の手と足、冷たい。外寒かったんだね。そう言いながら、細い指が俺の髪をとかす。

 肩を噛む。腕も。首も。頭を空っぽにするために、めいいっぱい、身体を動かす。まるで相手のことなんか考えずに。

 終わった時には、背中を汗が伝っていた。顎からもポトリと垂れる。

「ごめん」

 そうつぶやいて立ち上がり、コップ並々に水を注いで一息で飲み干す。吸いさしのハッパに火をつけてゆっくり吸い込む。独特な匂いが鼻から抜けていく。早くハイになりたくて、何度も深く吸い込む。

 シャワーを浴びて戻ってきた彼女が髪を拭きながら言っている。どうしたの?今日、凄かったね。遠くで声がする。イヤホンをして、目を閉じる。かすかに、胸の真ん中に触れる指の感触を感じた。多分、そのすぐ後、世界は音に包まれて、身体は溶け出していった。これでもう、何も考えずに済む。起きたら、冷蔵庫に入ってる青椒肉絲でも食べ、、よ、う。一度、身体がふわりと浮いて、ストーンと堕ちていく。終わりのない下まで。

 起きると、部屋にひとりだった。カーテンを開けると空がゾワゾワするほど赤く染まっていた。それが夕焼けなのか朝焼けなのか、俺には区別がつかなかった。

 

 それから、三日間ぐらいはその家にいたと思う。合計で一週間ほどだろう。また来てね〜。とフラフラと揺れていた手首はやっぱりパキッと音を鳴らして折れそうに細かった。

 下北沢にある、お気に入りの喫茶店で今日からの宿をどうするかを考えている。ガスを再度開栓してもらえないほどお金に困ってるわけではない。そもそも、ガスが止まったのも、お金がないからではなく、ただ振り込みがめんどくさくて渋っていたからなのだから。けれど、自分の家に帰る気にはなれなかった。帰っても待っているのは足の踏み場もないほどに、服やゴミの散らかった床と、カビの生えた浴槽、白く汚れた姿見の鏡、そしてそれらを包むカーテンのない部屋。ベッドはこの前、寝しょんべんをしてしまって、シーツとカバーを急いで外したっきり、シーツもカバーもまだ洗濯していない。その状態から、皆が言う綺麗な部屋にまで戻さなければいけない、そう考えただけで気が滅入る。もういっそ火事にでもなって仕舞えばいいのに、そうすれば、片付ける必要もない。ゼロに戻る。全て焼き払って仕舞いたい。そんな想像に耽っていたけれど、ガスの止まっている部屋で火事だなんて、おかしいにも程があるな、と、つい笑いが声になって漏れ出てしまう。カウンターの隣で読書をしていた客がこちらを見たのが感じられた。

 今日、泊まりにいっていい?

 千葉に住んでいる三つ年上の女の子にLINEを送る。そのままマッチングアプリをひらいて何人かに今日暇?と声をかけてみる。あとは誰かから返信が来るのを待つだけだ。

 することもないから、そのままマッチングアプリを眺めている。あるプロフィールが目に入ってきた。

 映画のエンドロールを最後まで観ない奴に死ぬ間際に走馬灯を観る資格はねぇ!!!

 思わずまた声を出して笑ってしまう。本人の写真は載っておらず、ただ白い壁の写真のみが載せられていた。久しぶりにこんなに面白いプロフィールに出会って、嬉しくなった。その一文は、乱暴で、根拠もなく、無責任だったが、心から共感できた。これは、ライクしておこう。このアプリのシステムは単純で、気になった人に対して、ライクをする。もしもお互いがライクをし合えば、そこから会話をスタートできるというシステムだ。

 冷め切ったコーヒーを飲み干す。冷たいコーヒーは舌にまとわりついて気持ちが悪かった。

 店を出ると、手と首に少し寒さを感じた。午前中はからりと晴れていた雲ひとつない空は、雲はひとつもないまま、優しい薄紅に変わっている、花びらのような空だった。あてもなくぶらついていると、知らず知らずのうちに足は馴染みの場所へ向かうのか、お気に入りの雑貨屋に着いていた。ヴィンテージのオイルライター、昔の企業ロゴ入りの灰皿、誰かが昔使っていたフィルムカメラ、ハンドメイドのピアス、狭い店内は人がすれ違うことすらできないほどだ。ライターのケースの前で足を止めて眺める。

「全部、手に取ってみてもいいですよ」

 レジにいる初老の男性が声をかけてくれる。

「ありがとうございます」

 くすんだ金色のものを手に取る。心地いい重さが手に馴染んだ。ピカピカじゃなく、鈍く光を反射する。

 結局、そのオイルライターと、小さなターコイズのピアスを買った。まち針みたいで可愛かった。まち針、なんていう言葉、頭の中で言うのも小学生以来な気がする。

「これね、日本製なんですよ。綺麗な形してますよね。ヴィンテージだけど、まだ誰にも使われていない新品ですよ。使い込んだらもっと味が出てきます。箱もありますけど、どうしますか?」

「箱は、大丈夫です。大事にします。ありがとうございます」

 にこりと笑いながら袋を渡してくれる。その笑顔には嘘がない。その目尻の皺もそんな笑顔を繰り返してきて刻まれたのだろう。外に出る前に店内の鏡を借りてピアスを付け替える。うん、良い色だ。

 店を出てスマホを開くと通知が二件きていた。

 今日は無理だけど、明日からなら良いよ〜!何泊?

 久しぶり!暇だよ〜

 完璧だ。

 じゃあ明日から泊まりに行く!未定だから帰って欲しくなったら言って!

 ね、久しぶり!いまシモキタに居るんだけど、そっち行って良い?

 二人に返信をしてコンビニへ向かう。ジッポのオイルとコンドームを購入する。

 オッケー仕事終わるの六時ごろだから、七時ごろにお家来て〜

 良いよ!お家覚えてる?部屋片付けてメイクするから一時間半後ぐらいに来て!

 二人ともに了解と返信をする。もう少しぶらついたら、喫茶店でもう一杯コーヒーでも飲むことにしよう。

 古本屋を三軒回って本を二冊買った。悪童日記(アゴタクリストフ著)、ウエハースの椅子(江國香織著)、どちらも既に持っているけれど、旅先や古本屋で見つけるとつい手に取って買ってしまう。悪童日記なんて、もう五冊目だ。トートバッグは本二冊分重くなったが、足取りは軽くなった。

「お邪魔します。高井戸めちゃくちゃ久々だわ」

「どぞどぞ〜来てくれてありがとう。久しぶりだからびっくりしたよー。三ヶ月ぶりぐらいだよね」

「多分、そうかな」

「そだよ。この前来たの、十一月が終わる頃ぐらいだもん。ライブ観に行った帰りとか言ってたよ」

「あー、たしかに。それ以来会ってなかったのか」

 

 暗い外、ワンルームの窓の下には大きな道路、たまに大きな音を立ててバイクが走っていく、ゴミ箱にはくしゃくしゃに丸められたティッシュ、テーブルの上にはコンビニの惣菜のゴミと飲みかけの緑茶割り。窓を開けてタバコを吸う。まだ夜はとても冷えている。ベッドでむき出しの肩がもぞもぞと動いた、布団を首元までかけなおしておく。そういえば、今年のあの文学賞は歳下だったな、とふと思う。ネットの記事を読んでいると、手がぴたりと止まった。その作家の写真が目に飛び込んでくる。あいつだ。一昨年、一緒に英語の授業を受けていた、あいつだった。俺にとっては二回目の一年生の時、よくお互いの和訳を確認しあったのを覚えている。小説の新人賞に高校生の頃から何度も応募していると言っていたことを思い出す。へー、すげーじゃん。そう言いながら心の中では、結局諦めて一般就職でもするんだろうなと、小馬鹿にしていた。そうか、成ったんだな。何者かに。あいつは成った。

「すげぇ、」

 漏れ出た声。尊敬する。と思おうとしたけれど、それよりも深くドロリとした嫉妬、焦り、恥ずかしさが混ざった何かがそれを邪魔する。グラグラとマグマのようにその赤黒い何かが俺を支配していく。苦しかった。血の味がしてきて、知らず知らず頬の裏を噛んでいたことに気づく。俺は?あいつが必死こいて自分の内側から何かを生み出していたとき、部屋を汚して、誰かの家に入り浸って、エモいエモいとインスタの投稿に寄せられる声に酔って、嫌なことがあれば音楽とハッパで頭を空にしていただけ。そんなんで、どうして嫉妬している?この生活が好きなんだろう?ふらふらと、どこにも留まらず、自由気ままな自分が。必死にならず、みんなのことを、少し離れた場所から眺めている気になれるこの生活が。嫉妬する要素なんてどこにもないじゃないか。少し前の知り合いが、夢を叶えただけ、俺は俺の好きな生活をしているじゃないか。目に飛び込んできたそいつの顔写真がスマホの画面よりも鮮明に頭の中に浮かぶ。

 ベッドに潜り込んでも寝られない。目を瞑るとあの顔が俺を見つめている。いや、多分俺のことなんて見ていない。覚えてもいないだろう。ハッパを吸ってトリップしてしまいたいけど、この家にハッパはない。だから、ベッドの中のもう一人を眠りから無理やり覚まして、くしゃくしゃにまとめられたティッシュを二つ増やす。

「ごめん」

 息が乱れて上手く声が出ない。仰向けの身体にうつ伏せに覆い被さる。

「もう、朝だよ。ほら、外、明るくなっちゃった」

 なんとか身体を動かして仰向けに隣に移動する。

「ほんとだ」

 カーテンを閉める音、かけられる布団。ようやく眠気がやってきてくれた。眠気というより、疲れ果てた身体が強制的にシャットダウンしようとしている感じ。

 目覚めは最悪。あの顔が夢にも出てきた。

「どうしたの?なんか、すごく苦しそうな顔して寝てたけど」

「ちょっとだけ、悪い夢をみちゃって。今何時?」

「今ねー、三時二十八分。コーヒー淹れようか?あと、板チョコいつも食べてたよね。コンビニで買ってきたよ」

「ありがと、貰うわ」

 冷蔵庫で冷やされていない板チョコはどこか頼りなかった。それに、いつもはビターを買うけれど、それはミルクで少し甘すぎた。流し込むように飲んだコーヒーは薄かった。タバコはなんだかザラついた味がした。

「少ししたら俺出るわ」

「そっかー、今日も泊まってけばいいのに」

「ダチと予定があってさ、今度また来る。ありがとな、泊めてくれて」

 高井戸から千葉の村上駅まで、電車で一時間半、乗り換え二回。何度も昨日買った本を開いては入り込めなくて閉じる。結局、本を読む気にはなれずに、ダフト・パンクを大音量でイヤホンから流している。これまで何度も聴いた、世界で一番かっこいいと思っているアルバムを。不意に出てきたため息が思いのほか大きかったのか、目の前に立つスーツ姿の男女の視線が降りてくる。二つ先の駅で一人が降り、さらに三つ進んだ先で、もう一人が降りた。電車が進んでいくにつれて、乗っていた人はどこかの駅で降り、目的地へと向かっていく。乗車してきた人もまたどこかの駅で降り、それぞれの目的地へと向かっていった。しばらく経つと空席が目立つようになった。俺の隣には誰もいない。右斜め前にスーツにコートを羽織っている女性が立つ。席は空いているのに、座ろうとしない。腕から下げているビニール袋には惣菜か弁当が入っているのか、唐揚げみたいな匂いが鼻から侵入してきて、空腹が刺激される。

 結局その女性は俺と同じ駅で降りて、俺とは逆方向に歩いて行った。何もない駅前、大きなスーパー、青いコンビニ。

 駅着いたよ。

 そう連絡すると

 オッケー!ちょっと買い物したいからコンビニの前で待ってて〜今家出る

 と返ってくる。

「よっす。久々〜」

 パーカーにサンダルで近づいてくる。

「寒くねーの?」

「油断してたら案外寒くて今凍えてる」

「家にご飯ないからさ、適当になんか買ってこ」

「いいね。さっきさ、電車の中でずっと唐揚げの匂い嗅いでて、もう死にそうなんだよ」

「唐揚げいいね〜、おいおい、これ以上太らせないでくれ」

「そうか?全然変わってないように見えるけど」

「わたし、腕と脚は太んねーのよ。腹がやべーのよ」

「そかそか、でも、食べないの?」

「いや、食うに決まってるだろ!買うぞ買うぞ、唐揚げでも餃子でも酒でも」

「酒はお前が飲みたいだけだろ?」

「あ、バレた?ユウ君飲まないもんね。わたしだけ飲ませていただきます。明日から二連休だし!」

 くだらないバラエティを観て、笑いながら食べる飯は美味かった。

 

「確かに、腹、結構出てるね」

「いや、これは飯食った後だから!」

「変わるの?」

「いや、実際変わんない」

 お湯に浸かりながら二人膝を折りたたみながら話す。

「こうやって二人で同じ湯船にいてもどちらも欲情したりしないのなんかウケるね。あ、欲情って浴場とかけたわけじゃないから」

「風呂に入ってんのにさみーわ」

 知り合った直後に二度ほど身体の関係を持ったけれど、その後、俺らがセックスをすることはないまま、もう知り合ってから二年ほどになる。どちらかが、身体の関係をやめようと言ったわけではなく、相性が悪かったわけでもなかった。ただそうなるのが自然だった。お互いを知るための御挨拶、そんなセックスだった。そんなわけで、今では一緒に風呂に入るわ、お互いの性事情を報告し合うわ、夏ならお互い裸で部屋を歩き回るわ、の関係。その軽くて、乱雑な時間と空間が俺を安心させるから、定期的にこいつの家に来てしまう。

「相変わらず、タトゥーが増えてくね〜、何これ、右腕丸ごと入ってんじゃん」

「これね、なんか、覆いたくなっちゃって、一番最近入れたのこれだな」

「思い切ったね」

「ね、思い切った。でもね、なんかタトゥー入れるとね、あーー俺の右腕だって、そういう気持ちになるんだよね。なんだろ、こう、体は魂の入れ物だったのに、それが、繋がるっていうかさ、見えてる部分の自分と見えてない部分の自分との間の差がなくなってく感じ」

「ちょっと分かんないや!わたしタトゥー入れた事ないし。わたしはその左腕のヒガンバナのタトゥーがお気に入りだな〜。次、ユウ君が音楽選んでよ」

「最近よく聴くラッパーでも良い?」

「なんでもどーぞー」

 ジプロックに入れたスマホを操作する。

 そのラッパーの唯一無二な声が流れ出す。ハマると抜け出せなくなる感じでクセになる。

「シャンプーしよっと少しのぼせてきたし」

(全部が全部うまくいくように、やることやるだけ)

 あーー、そうだよなぁ、分かってんだけどな。そう呟きたくなる歌詞だ。やることやるだけ。それを突き詰めたんだろうな、この異彩を放つラッパーも、あいつも。

「このラッパーさ天使の羽のタトゥー入れてて」

「なにー?シャワーの音で聞こえないからもうちょっと大きな声でお願い」

 声量を上げて繰り返す。

「このラッパーさ天使の羽のタトゥー入れてんだよ。そのタトゥーがさ、もうね、これ以外ない!って感じのデザインで、天使の羽っていうモチーフ自体は入れてる人多いんだけどね、もう、その使い方というか、質感というか、バランスというかね、完璧なんだよなぁ。なんかやられた〜って感じ、人が入れてるの見て、うわ自分もこういうの入れたかったな〜、って気づく感じ。でも、もうさ、人が入れてるから入れらんないんだよな、やられたよほんと」

「へー、そうなんだ。でも良いじゃんユウ君のタトゥーもセンスいいよ」

 いや、そういう事じゃないんだけどな、というのは口に出さずにおいた。

「あーまじ痩せよ。これ何回言ってんだろ。わたし先に上がるわ」

「そしたら俺も、髪と身体洗って出る」

 トリートメントを髪に塗っていると洗面所からドライヤーの音が聞こえてくる。酒のっもおー、おっさけおっさけ。と楽しそうな声も。

(成し遂げて死ぬ成し遂げて死ぬ)

 浴室では、ラッパーがそう吠えている。浴室だけじゃなく、頭の中にまで響くそのリリック。

 

「ヘイヘイ、起きろ!」

 カーテンが開けられ、布団が剥ぎ取られる。

「うう、眩しい、眠い、寒い。今何時?」

「もう九時」

「まだ九時じゃん」

「休みの日は午前中から活動したいの。週に二日しかないんだから。毎日がお休みのユウ君とは違うの。ほら起きな起きな。わたしの少ない休日に付き合いなさい。それに、眠いのは夜遅くまで何か観てるからでしょ。わたしの家来るといつもあれ観てるよね。そんなに面白い?あのドラマ」

「あれって、ドクター・フーのこと?うん。すげえ面白いよ。ガキの頃から好きでさ、でも観れるサブスクが限られてて、全話あるのはお前が入ってるやつだけなんだよね」

「ふーん、そうなんだ。どんな話?」

「ジャンル的にはSFでさ。主人公がドクターって名前で、そのドクターがいろんな時空を旅するわけよ。そこで、トラブルとかに巻き込まれて、それを解決してくって話。かっこいいし、優しいし、ミステリアスだし、ワクワクするのよな。そんでいつも地球人を一人とか、二人、一緒に連れてくんだけど、ガキの頃はさ、俺も連れてって欲しいなって、いつかドクターがこのつまらない日常から、俺を宇宙へ連れ去ってくれるのを願ってたんだよね。いや、願ってたっていうか、信じてたのかもしれない。作り話って分かってるのにね、それでも本気で信じてた気がするな」

 ふーん、と繰り返す。自分から聞いてきたくせに、こいつ途中から聞いてなかったな、まあ、ついスイッチが入ってしまって喋り過ぎたのも事実か。

「よっし、起きるか」

 ベラベラ喋っていたおかげで目が覚めた。伸びをすると、くぅ〜っと声が漏れ出てきた。

「あの喫茶店いこうや」

「好きだねー、あそこ」

「だって、こっち来た時しか行けねーんだもん」

 車で十分ほどの夫婦で経営をしているその喫茶店は大のお気に入りだ。そこの豆乳と豆花は絶品で、毎回そればかりを頼む。

 

「またそれ頼んでる。豆乳ってわたし苦手。それにそのまめはな?ってやつも何か、よくわかんない味してるじゃん」

「これ、トーファーって読むんだよ。台湾のスイーツで、豆乳で作られてるんだけど何度か食うとクセになるのよこの味が。東京とかでも出してるお店あったりするんだけどね、なんか甘くし過ぎてたり、いろんなフルーツ乗せ過ぎてたりで、なんか違うんよな」

 ここの豆花は、茹でたピーナッツとほんのり甘い蜜がかかってるだけのベーシックなもので、台湾で食べた味、そのままだ。マスターが台湾の方らしく、地元の味を忠実に再現しているのだと、以前話を聞いた。ガキの頃、五回ほどだろうか、よく母親と一緒に台湾に旅行した。沖縄に住んでいたから、東京に行くよりも近かった。パイプ椅子に座って食べた魯肉飯の味、八角と五香粉と豚の油の香り、臭豆腐の屋台の前を息を止めて早歩きで歩き抜けたこと、夜市で海老を釣ってその場で焼いて食べたこと、夜市の周辺で手首から先がなかったり、両膝から下がない人たちが物乞いをしていたこと、今でもその湿度まで鮮明に思い出される。

「そうなのね、じゃあ一口もらお」

 俺の右手からスプーンを奪ってひと掬いして口に運ぶ。ぷるんと豆花が震える。

「うえ、やっぱ苦手だわ。なんか、すっごい中途半端な味じゃない?」

「苦手なら俺の楽しみを減らしてんじゃねーよ」

「だって、あんなに語るんだもん、もしかしたら美味しく感じるかもって思うじゃん」

「まあ、お互い、好きなものを食べようや。俺もお前がいつも頼む、そのモッフルっての歯に詰まるから苦手だしさ。なんで餅でワッフル作るんだよ。普通のワッフルで良いじゃん」

「えー、美味しいのにモッフル、それに普通のワッフルよりヘルシーなの!」

 この店に来るたびにこの論争をしている気がする。

「でもさ、ここ本当良いお店だよな。タバコも吸えるし、都内とかもう、吸えるとこめちゃくちゃ減っちゃったもん」

「だねー、どっちも喫煙者のわたし達に優しいお店だよね。でも、住んでるとこの近くにはないの?都内じゃなかったよね?川崎だっけ?」

「んーあることにはあるんだけど、夏はクーラー効き過ぎ、冬は暖房効き過ぎで、ゆったりできないんだよね」

 元住吉駅、川崎市中原区、川崎の外れ、隣駅の日吉はもう横浜市だ。その日吉駅に大学のキャンパスがあるから、上京してくるときに周辺の一番安い物件を選んで借りた。それなのにろくに通いもせず、一年生を二回して二年生になり、そして来年からは二回目の二年生だ。一浪してまで入った大学なのに、と周りは言う。ほっとけよ、一浪しても結局俺はこのレベルの大学にしか届かなかったんだよ。と言い返すことはしない。東京で生まれ、沖縄で育ち、また首都圏に来た。もともと親族は誰も沖縄出身ではなく、母親と二人で沖縄に住んでいたけれど、俺の上京のタイミングで、ジジババも、もう歳だからと、母親は実家がある宮崎に移り住んだ。そのため沖縄の家はもうなく、愛着のある実家というものが俺にはない。父親は上野に住んでいる。仲が悪いわけではないけれど、大学生活は一人暮らしがしたいから、と一緒に暮らす提案は断った。二歳までしか同じ家に住んでなかったので一緒に住みたかったのだろう、父親は少し寂しそうな顔で、分かった、と言っていた。たまに新宿や神保町で一緒に飯を食う。川崎市、中原区。東京にも川崎にも染まれない。都会でもなく、川崎区のように治安がとても悪いわけでもない、所在なさげな土地。そんな土地で宙ぶらりんな生活をダラダラと送っている。

「タバコ吸ったら出よっか。どっか行きたいところある?」

「お前が運転だるくないなら、海の方にドライブでもしようぜ」

「がってん承知の助」

 古いよそれ、と笑いながらも、俺もたまに使うな、と思う。スマホを見ると、マッチングアプリからの通知が来ていた。

「お、マッチした」

「え、見せてよ。どんな子?」

 映画のエンドロールを最後まで観ない奴に死ぬ間際に走馬灯を観る資格はねぇ!!! 

 のあの子だった。

「面白いねこの子、ユウ君が好きそうじゃん」

「だろ?メッセージ送っとこっと」

 どれだけおしっこ漏らしそうでも、エンドロールが終わるまでは立ちません。

 っと。多分こんな感じのメッセージの方が食いつき良いだろうと考えて送る。

「よっしゃ、行くかーー」

 少し残っていた豆乳を飲み干して立ち上がる。二人で会計を済ませる。

「また来てくださいね」

 夫妻の優しい笑顔が暖かい。

「美味しかったです。また来ます」

 俺、こいつのこういうところ、好きだな。そんなことを考えながらドアを開けて待っている。

 外に出ると、もう真昼だった。

 強くなった日差しが気持ちよくて目を瞑って伸びをした。

 

「天気良すぎー、前にこの海来た時、夏だったよね。めちゃくちゃ暑かったね」

「ほんとな、眩し、波がキラキラしてんね」

 海の匂いを鼻から吸い込む。懐かしい匂い。高校生の頃、よくダチと夜な夜な近くの橋で渡れる島まで散歩をした。瀬長島という名前の島。地元民がバーベキューをしたり、小中学生がバッティングセンターに遊びに来たりする島だった。何年か前にホテルが建ってからは、観光地っぽくなって様変わりしてしまった。あのバッセン、潰れたよ。と最近、地元の友達が言っていた。砂浜に座って、タバコを何本も吸いながら、くだらない話を夜が明けるまでしていた。明るくなったら帰った。タバコの匂いを消そうと、帰ったらすぐにシャワーを浴びてていたけれど、今になって思えば、絶対にバレていただろうな。その日の授業はほとんど寝倒して、教師に肩を揺さぶられて起こされては不貞腐れていた。そうでなくとも、国語の授業なんかは、家から持ってきた小説を読むか寝るかの二択だった。反抗したかったのだろうか、誰かに見て欲しかったのだろうか、本当に眠かった気もする、国語の授業なんかより、小説を読んでいた方が有意義だったことも確かだ。

「ねえ、あのカップル可愛くない?彼氏が彼女の写真撮ってあげてる」

「ん、ああ、あの二人か。確かに、可愛いな。楽しそうだな」

「ああいうのを幸せって言うんだよね〜」

 幸せ。幸福。

 最後に幸せだなと思ったのはいつだっただろう。そもそも今までにそんなことあっただろうか。快楽と苦痛なら、ほとんど毎日感じているのに。

 

「あーー、幸せ!」

 海辺を散歩した後、アウトレットモールをぶらついて、今、回転寿司のテーブルに座っている。目の前でサーモンを頬張りながら、口に出した通り幸せそうな表情を浮かべている。

「海辺のカップルみて、ああいうのが幸せって言ってたじゃんか」

「あれも幸せ、これも幸せなの!だって、回転寿司って美味しくて安いじゃん?それにこんなに種類があって、どれでも選び放題なんだよ?そんなの幸せに決まってんじゃん」

「帰ったら、なんか映画でも観ようぜ」

「いいねー。ユウ君セレクトでよろしく」

 

 観たのは、アイルランドのダブリンに住む高校生たちがバンドを結成し、窮屈な環境の中で自分たちのしたいことをやってやる、という映画だ。何度も観ている。いや、こんな説明ではあの映画を表すことは出来ていない。映画や小説、音楽の感想を言うことが苦手だ。観なければ、読まなければ、聴かなければ、分からないことだらけだ。それに、人に説明しようと口に出した瞬間から、鮮度が落ちる気がする。だから、人に何かを勧める時、とりあえず観てくれ、読んでくれ、聴いてくれ、保証するから。と無責任なおすすめの仕方しか出来ない。

 夜中、またドクター・フーを一人で観ている。

「また、観てる」

「ごめん、起こした?」

「大丈夫、喉渇いただけ」

 目を擦りながら水を注いで俺の隣に腰を下ろす。しばらく一緒に観ていたけれど、一話観切るまえに隣から寝息が聞こえてくる。身体を抱えて、持ち上げ、ベッドへ運ぶ。重い、確かに、これは増えたな。もう少しで腰を痛めるとこだった。布団をかけて、座りなおしたら、一時停止していた画面を再生する。画面の中ではドクターが機械の身体を持つエイリアンから地球を救っている。

 通知で震えたスマホを開くと、エンドロールの女の子から返信が来ている。

 仲間ですね!ちなみに、一番好きな映画は何ですか?

 一番好きな映画ですか、難しいですね。好きと言うのはちょっと違うんですけど、一番大事な映画は、ダンサーインザダークです。

 すぐ返信がくる。

 ダンサーインザダーク!え、ほんとですか?あの、あたしもそうです。好きって言うのはなんか違うっていうのもめっちゃ分かります!

 そうなんですね!それ、めっちゃ嬉しいです。もし嫌じゃなかったらなんですけど、LINE交換して通話で話しませんか?

 こういう、趣味が合うような人とは通話で話した方が絶対に仲良くなれる。それに、共通の話題がある場合、よほどの通話嫌いでない限り断られることはない。

 もちろんです!ID送りますね!!

 ありがとうございます!

 思った通りだ。

 追加しました〜。俺本名はユウっていいます!

 ありがとうございます!ユウさんですね!あたしはミユです!!

 基本的にマッチングアプリで実名を使う人はいない。俺は頭文字を取って、yという名前でやっている。

 通話、かけちゃっても良いですか?

 はーい!

 ベランダに出て通話をかける。

「こんばんは。はじめまして。ユウです」

「こんばんは。ミユです!お互い夜更かしですね」

 そこから当たり障りのない話をする。お互いの年齢や、出身地、学生なのか、社会人なのか、バイトはしているのか。自然とお互いタメ口になっている。

 そんな話題も尽きたところで、最初のダンサーインザダークの話を切り出す。

「ダンサーインザダークの話なんだけど、あのさ、ミュージカルシーンが普通のシーンよりも彩度が高くなるの、ゾワッとくるよね」

「え、分かる。目が見えなくなってく主人公の現実の視界とは逆に、妄想のダンスシーンでは彩度が高いの、刺さった」

「本当な、刺さるってかもう、貫かれたよね」

「分かる。貫通した。それにあの、ラストシーンがねぇ、」

「あーー、うわ、思い出すじゃん、あれはねえ、あーもう、うん、」

「だめだ、これ以上思い出したら苦しくなっちゃうね。ユウの他に好きな映画とか大事な映画は?」

「んーー、ジョゼとか?」

「ねえ!また苦しくなっちゃうやつじゃん!!」

「すまんすまん」

 楽しい会話は明け方まで続いた。こんなに長く、熱量を保ったまま、人と会話をしたのは久しぶりで頬の筋肉が少し痛くなっていた程だった。

「ねえ、今度実際会って話そうよ」

 そう誘ってみる。

「だね、そうしないとダメだねこりゃ。直近でいつが空いてる?」

「俺はねー、いつでも空いてるんだけど、休日は街に人が多いから、次の月曜とかどう?」

「ちょっと待ってね、今日が金曜日、というか、土曜日の朝だから、三月八日ってことか、んーーー、あーー、良いよ!」

「本当?大丈夫そう?少し迷ってたけど、なんか予定あるんなら別日でも俺は余裕で空いてるよ」

「んーん!大丈夫!」

「そか、おっけい。じゃあ月曜日ね。待ち合わせ場所とか時間は、まあ、おいおい決めよう。今日は、もう寝よう。脳みそがオーバーヒートしてるわ」

「だね、昂ってて眠れるかな。でも、きっと目を瞑ったらすぐ眠れそう。喋りまくってヘトヘトだし」

「うん。楽しかった。ありがとう」

 じゃ、と通話が切れる。

 タバコに火をつける。去年の夏、明け方に毎日聴きながらタバコを一本吸ってから寝ることが日課になっていた曲を流す。夜と朝はまだ冷える。後もう少しで始発の電車が動き出す時間。この季節だとまだ暗い。

(君が朝を恐れぬように)

 優しくも力強い声がスマートフォンから流れている。

 部屋に戻ると暖かかった。ベッドに潜り込んで目を瞑る。眠りはすぐにやってくる。

 

「ほら!起きろ!」

 また布団を剥ぎ取られ、カーテンが開けられる。

「うー、なんでいつもそんな激しい起こし方なんだよ」

「ユウ君優しく起こしても全く起きないからだよ。今日も貴重な休日を有意義に使うんだから、付き合いな」

「分かったわかった、何時?」

「八時!」

「はえーよ」

「今日はね、車で少し行ったところのモーニング食べに行きたいの。ほら早くしないと間に合わなくなっちゃうから急いで準備して!わたしはあと化粧するだけだから」

 眠りが深かったのか、三時間しか睡眠をとっていないのに頭はスッキリしている。

 熱いシャワーを浴びて、コンタクトを入れる。

「お前の服借りて良い?」

「良いよ〜、その辺にあるやつ使って。オーバーサイズのやつあるから着れると思う。それにユウ君細いし。まじで、羨ましいわ」

「ありがと」

 適当に服を見繕って、着替える。

「うわ、わたしみたい」

「当たり前だろ、お前の服なんだから」

「確かに、当たり前か。よっしゃ行くか〜」

 ドアを開けて外に出る。

「今日も天気いいね。気持ち〜。絶好のモーニング日和だ」

 つられて空を見上げると陽が眩しくてくしゃみが出た。

 

 夜。

「何泊してっても良いんだけどさ、明日ね、男の子がお家に来るんだけど、夜から次の日の朝ぐらいまでどこかぶらついてて欲しい。わたし明日から仕事だから朝普通に出るけど、夜まで適当に過ごして、八時ぐらいまでに家出といてくれると助かる!玄関にある合鍵使って大丈夫だから」

「もちろん。お安い御用よ。てかさ、俺、明後日予定あるから、明日起きたら帰るわ。鍵はポストに入れときゃいいっしょ?」

「あ、そーなん?ならそれでよろしく」

「へいよ。また今度ふらっとくるわ。じゃあ今日は、ドクター・フーいっぱい観ちゃお。何ヶ月か観れなくなっちゃうし」

「そんなに好きなら、ユウ君もこのサブスク加入したら良いのに」

「や、いつでも観れるようにしちゃうとね、まじで永遠に観ちゃうから危ないんよ」

「そかそか。あーー、二連休が終わる!やだなぁ」

「でも明日は男の子来るんやろ?楽しめるじゃん」

「あ、そうだった。顔が良いんよ顔が!ありゃ、顔だけで酒が進んじゃうね。にしてもこの休日楽しかったよ。ありがと付き合ってくれて。またいつでも来なね〜」

「お前のその裏表のない明るさ、好きだわ」

「いやいや、あるよ。ユウ君には何の気も使ってないだけ!ちゃんと使い分けてんのよわたしも」

「何じゃそりゃ、失礼だろ!」

 脇腹をこづいてじゃれ合う。きっと、こいつとは十年先も友達でいる気がした。祝い事なんかあったら、泣いちゃうかもな、とも。

 

 翌日、この二日の早起きで癖がついてしまったのか、九時ごろに勝手に目が覚めた。ベランダに出て陽を浴びる。くーーっと背伸びをすると肩や背中がパキパキと音を立てた。無理矢理起こされない早起きならば、こんなに気持ちいいもんなんだな。

 何をしよう。夜は誰かの家か、漫画喫茶で寝るにしても、きっと明日は東京で会うだろうから、東京には出ておきたい。映画でも観ようとスマホを開いて、気になっている映画の上映時間を調べる。新宿なら観たい映画何本かハシゴできるな。これも早起きのおかげか。三文の徳ってやつね。そのおかげで映画何本分かのお金は飛ぶけど。と頭の中でひとりつぶやく。そうと決まれば、パパッと準備して出てしまおう。シャワーを浴びて、干してもらっていた自分の服を取り入れて着替える。朝ごはん、適当に冷蔵庫とかにあるやつ食べてね〜という言葉に甘えて、台所をあさり、ヨーグルトと食パンとゆで卵を食べて、使った皿を洗う。そういえば、男が来るんだったな、掃除機かけとくか、玄関、リビングを綺麗にし、トイレと洗面所は重点的にかける。ベッドもきちんとベッドメイキングをしておこう。よし、男の痕跡など一切ない完璧な部屋の完成だ。

 家の鍵を閉め、ポストに鍵を入れる。

 今家出た。泊めてくれてありがとな。

 と送る。今日も晴れている。天気予報を確認すると、三日後から崩れ始めるが、それまでは快晴続きらしい。ってことは、明日も晴れてるのか、良かった。いい天気なら、井の頭公園でも行こうという話になっている。集合は十時に吉祥寺。早いな、と思ったけれど、ここ三日の早起きで癖がついたおかげで、何とかなりそうだ。叩き起こしてくれたあいつに感謝しておこう。

 結局、映画は四本観た。一本目は思い出したくないくらいに詰まらなかったので、記憶から削除しておく。二本目からは全部素晴らしかった。フェミニズムにフューチャーした三本で、観ていて苦しくなるほどメッセージ性の強い映画だった。どれもメッセージ性だけではなく、ちゃんと物語としても面白いものだったからとても満足して劇場を後にした。特に最後の一本は主役の女性が色々な異物を口から飲み込み、その行為がやめられなくなるのだが、飲み込むシーンから伝わる苦しみ、それとは裏腹にとても綺麗なカット、そして脚本の持つメッセージ性、どれもが完璧な気がした。今年のベスト決まったかもな。明日、ミユに話そう。そう決めた。

 最後の上映が終わり、劇場を出るときにはもうとっくに終電は無くなっていた。新宿に泊まれる家はないから、漫画喫茶かカラオケか二十四時間やっているお気に入りの喫茶店、そのどれかに行くしかない。四本も映画を観て、脳は疲れているけれど、いい映画を観た後特有の昂りで目はとても冴えていた。

 

 起きてる?

 ブブッと震えたスマホを開くと、ミユからそう送られてきている。

 起きてるよ。

 何してるの?

 四本映画観て、今喫茶店。

 そっか。

 寝られないの?

 んーん、寝てないだけ。

 ずっと起きてるの?

 そのつもり。

 俺も。

 寝なくて良いの?

 うん。

 じゃあさ、始発で待ち合わせようよ。

 いいよ。こっからだとね、五時八分に着く。吉祥寺で良かったよね?

 うん。あたしのとこからだと、四時五十三分。

 そしたら、ミユは始発じゃなくて良いんじゃない?

 いや、始発に乗りたいの。

 そか、なら良いけど、少し待たせるな。すまんな。

 謝ることじゃないよ。始発だし。

 充電切れたらやばいから、着いたら連絡するわ。

 分かった。また後でね。

 また明日ね。でもなく、また今度ね、でもない。また後でね。コーヒーを一口飲む。少なくて美味しくて値段の高いコーヒー。始発が出るのが、四時五十四分それまであと、二時間二十九分、十五分前に店を出るとして、あと二時間十四分、読み差しの文庫本を読んでいればちょうど良い時間だなと、悪童日記のページを開く。

 

 灰皿には七本の吸殻。八本目を吸おうとするが、タバコは残っていなかった。本はあと数ページ。残りは電車で読むとして、予定よりも少し早いけれど、切れたタバコを買うにはちょうど良いと会計を済ませて店を出る。

 始発前の新宿は車も人も、日中とは比べ物にならないぐらい少ない。高いビル達と暗い空、誰もいない道、もし日本が滅んでしまったら、こんな風景の毎日なのだろうか。誰もいない眠らない街の長く続く一本道を歩きながら夢想する。ビルを見上げながら歩いていたせいで、後もう少しのところで道に吐かれていたゲロを踏みそうになった。これは、今日食べた物も飲んだ物も全部出しちゃったな。人間の痕跡を見て、夢想していた世界は途切れる。コンビニ寄って、タバコとチョコレートを買う。駅に近づくにつれて、人も増えていく。空にまっすぐ線を引く飛行機雲が歩く方向と垂直に交わっている。そんな歌詞を歌ってたバンドがあったな、あのフロントマンは、どうして死んでしまったのだろう。何に耐えられなかったのだろうか、それとも何かに満足したのだろうか、理由を探したところで俺は彼の死に近づくことはできない。

 駅前の広場で座りながらうなだれて寝る、肩を組みながら大きな声で叫ぶ、円を描いて座り酒を飲む、よれたスーツで目を擦る、これ以上晴れようのない高い空。

 酒の匂い、汗の匂い、甘い香水の匂い、何かがすえたような匂い。朝を始めようとする人、夜を終わらせようとする人、朝と夜の境目のない宙ぶらりんな俺。人が作るには大きすぎる鉄の塊がそれらを包んで運んでいく。

 イヤホンをつけて音楽を再生する。

 あと十分ぐらいで着く。どこで待ってる?

 すぐに既読がつく。

 公園口からでたとこのマックの前らへんにいるよ。

 了解。

 結局、本読むの忘れていた。と電車を降りてから気づく。

 今降りたよ。

 送った直後、通話がかけられてくる。

「今どこ?」

「まだ降りたばっかだから、改札も抜けてないよ」

「あ、本当に降りたとこだったのね」

「そうそう、ミユは?さっき言ってた場所?」

「うんそうだよー。あたし達さ、お互い顔知らないじゃんね、だから通話しながら待ち合わせた方が分かりやすいかなーって」

「確かに、顔知らなかったな、どっちもプロフィールに顔載せてないもんな。あ、今改札抜けた」

「音で分かったよ。そしたら、そろそろ着くね。あたし、全身真っ白!」

「すぐ見つけられそうだな。俺は逆に真っ黒だわ」

 エスカレーターを早足で降りて、右を向く。

「あ、いたわ。真っ白な人」

「あたしも、真っ黒な人見つけた」

 ミユがこちらに向かって手を振る。通話を切って手を振り返す。

「はじめまして。一応ね」

 お辞儀と共に髪がはらりと揺れる。

 本当に真っ白だった。髪の毛も眉毛も肌も。

「一応な。会うのは初めてだもんな。髪も眉毛も真っ白だとは思ってなかったわ」

「いい感じでしょ?この色維持するの大変なんだよね。んで、どうしよっか。」

「んー、とりあえず、散歩でもしよか」

「散歩!賛成!」

 春にくすんだ空気の中を白が軽く舞って先に行く。

 

 早朝の井の頭公園、ザッザッザッと枯葉を忙しく踏みながらウォーキングをする男の老人。

「ねえねえ、今の人、凄い早かったね、あと背筋ピンだった」

 すれ違う飼い犬同士が吠え合い。飼い主は頭を下げ合う。

「人、いるもんだな。この人たち、何時に起きてんだろな」

「多分あたしたちには一生できないような生活習慣を送ってるんだろうね。ねえ見て。アヒルボートが全部まとめられてる。なんかあそこまで集まってると、壮観だね。ちょっと怖くすら感じる」

 目を向けると確かに圧倒されるような光景だった。考えてみりゃ、アヒルより、何倍もデカいしな、そのサイズの生き物が本当にあんなふうに集まってたら、怖いな。目を凝らすと、緩やかに上下に揺れている。それらが身を寄せ合って擦れる音が、キイとかギイとか、微かに耳に届く。その音を聞いてより一層、公園は静かに思えた。

「みんなで、寝てるみたいだな」

「お、その表現、大好き。あたしは、みんなで内緒話してると思ったよ。人間の悪口言ってるの。あたしたちのことも、おいあそこで見てるアイツらさ、白と黒でオセロみたいだな。とか」

「なるほど、内緒話か、それも良いな。や、でも俺はやっぱ寝てると思う。アヒルはみんなで同じ夢をみてるんだよ。きっと。そこはもっと綺麗な湖」

「んーー、良いね。だけどあたしも曲げないよ!」

「あいつら何話してんだ。どっちもちげーよ。とか思われてるかもな」

 笑い合った声が伸び伸びと響いた。誰にも咎められるはずもないのに、ハッとしてお互い口を閉じる。二秒後、もう一度笑い合う。

「ほら、静かにして、眠ってるんでしょ?起こしちゃうよ」

「あ、眠ってるって認めたな」

「いや、あたしはそう思ってないから!ユウ的見解にしょうがなく合わせてあげたの」

「頑固だなあ」

「お互いね。これ、乗ったことある?」

「ないな」

「あたしも。ねえ乗ってみようよ」

「いいよ。何時からか調べるわ」

「違う。今。今乗ろう」

「了解」

 間髪入れずに返事をする。きっとここでとまどったらだめだ。そう思ったから。そう思った時点で、少しとまどってしまっているのかもしれない。ただミユは満足そうに頷いていた。

「ここ立ってるとへんな感じするね」

 ミユが飛び跳ね、ギゴギゴと桟橋が揺れる。

 ボートに乗り込むのにかなり苦戦した。左右上下に浮き沈みするから池に落ちてしまいそうになる。

「うわ、これ結構怖いな」

「余裕余裕!」

「お前は俺がボート支えてたから簡単に乗れたんだろ」

 先に乗り込んだミユが中から、からかうようにこちらを覗く。

「ねえ!お前って呼ばないで!ミユって呼びなさい」

「それは、すまん。直接面と向かってると、そう呼んじゃうんだよね」

「分かったならよろしい。ほら、早く乗りな」

 足元は濁っていて底の見えない水面。何かが底にいる気がして微かに足が震える。

「ほら、乗ったぞ」

 ほとんど飛び移るようにして乗り込む。

「わ!めちゃめちゃ揺れてるじゃん。落ちちゃう落ちちゃう」

「おま、ミユが急かしたからだろ」

「あ、、今、お前って言いそうになった」

「ちゃんと言い直したから良いだろ。ほら漕ぐぞ」

「ギリギリセーフね。あたしがハンドル操作する!」

 脚でペダルを漕ぐのは想像以上の重労働だった。池の中心に行くだけで、太ももが張っているのが分かった。二人とも小さく息が切れている。

「これ、疲れるな。ちょっと休もう。浮かんでよう」

「うん。こんなに大変だとは思わなかったね」

 タバコに火をつけて薄い煙を吐き出す。

「怒られるよ、そんな事しちゃ」

「そもそもこの状況が怒られるんだから、何しても同じだろ?」

「忘れてた、確かに。だけど、池に吸い殻捨てちゃだめだよ」

「大丈夫、飲みかけの水があるから、そのペットボトルに入れる」

 桜はまだ咲いてない。カラスの声が近くからする。多分二羽分。遠くからもそれに応えるように、一羽が鳴く。これ、天井開けば良いのにな。そうしたら、もっと気持ちいいだろうに。空が明るくなっていくに連れて公園に漂っていた木の匂いも薄まっていくように感じる。平日、月曜日、トーストの焼ける匂い、米の炊ける匂い、溶けるバターの匂い、そんなものたちが、ここから見えているマンションでは漂いはじめている頃だろう。

「桜咲いてたら、綺麗だったろうねえ」

「俺も今、桜まだ咲いてないなって思ってた」

「桜ってさ、凄いよね。咲く時、葉っぱ一枚もついてないんだもん。そりゃあ、見てて綺麗だと思っちゃうよね」

「でも、今の空、ちょうどそんな感じの色してるぞ」

「本当だ。綺麗」

 もしかしたら、桜は根っこから吸い上げた養分で色をつけるんじゃなく、明け方の空、夕方の空から、色を吸い込んで、その色で咲くのかもしれない。そんな事を考えて、ロマンチストすぎるなと自嘲ぎみに笑う。

「今、何考えたの?」

「くだらない事だよ。言うのも恥ずかしい」

「だめ。言って。聞きたい」

「いや、本当に、本当にくだらない事だから」

「だめ」

 真っ白に真っ直ぐに見つめられる。

「分かったよ。桜はさ、根っこから吸い上げる養分じゃなくて、この空の色を吸い込んで、その色をつけてるんだな、って考えてた。ほら、もう、恥ずかしいわ」

「どうして?どうして恥ずかしいの?こんなに素敵な言葉なのに?あたしはそれを聞いてとっても嬉しくなったよ。ユウの中だけに留めておくなんて勿体ない。あたしにも共有させてくれてありがとう」

 苦しくなった。どうして苦しいのかは、よく分からなかった。堪えきれない、止まれと願うほどに溢れてしまう水が目から溢れる。

「あーあーあー、ほらこれ使いな」

「ハンカチも、白い、のな」

「当たり前じゃん。鼻水かみな」

 でも、という声は、良いから、と強く遮られた。

「ありがとうって言えばいいの。こういう時は」

「ありがとう」

 思い切り鼻をかむ。空気を吸い込むと生臭い池の匂いがした。それからしばらく鼻を啜る音、鼻をかむ音が繰り返された。たまにチチチと名前も知らない鳥が鳴いた。

 久しぶりにボートが動き出す。

「これさ、一人でペダル漕いだほうが楽かもしれない。多分あたしたち全然息が合ってなかったんだね。ちょっとあたし止めるから、ユウ漕いでみなよ」

 そう言われると、なるほど一人の方が脚への負担が少ない。

「あたし、ハンドル操作するから、ユウそのまま漕いで。そろそろ戻ろうか」

「オーケイ。じゃあ、全力出すわ」

 脚に力を込めるとボートはぐんぐん進んでいく。

「もっといけ!良いぞ〜」

 はしゃぐ声。

「覚悟しろよ?」

「あたしのハンドル捌き、舐めないでよ?」

 桟橋がみるみるうちに近づいてくる。

「待って!やばいやばい。ぶつかるって!」

「うお、まじだ。やべ!」

 時すでに遅く、二人の乗るボートは停泊されている他のボートに音を立ててぶつかる。胸を上下させて呼吸をする。

「あー、ちびるかと思った。てか、あつい、、全力出しすぎたわ」

 こめかみを汗が伝う。

「汗もかいて、泣いて、鼻水出して、ちびったらもう、全身から出せる水全部出してるね」

「忘れてたのに、泣いたこと思い出させるなよ。はずいわ」

「だから、なんで恥ずかしいかな。そんな事ないのに」

「もう、いいから、ほら、ゆっくり漕ぐから、いい感じに停めろよ」

「任せて」

 降りる時にも船体は大きく揺れた。アドレナリンのせいか、もう怖くはなかった。

「ねえ、このボート、スワンボートっていうんだね。ずっとアヒルボートだと思ってた」

「本当だ。俺もアヒルボートって呼んでたわ」

「じゃあもうアヒルボートで良いね」

「だな」

 料金表を眺めながらそう決める。

「七百円なんだね。すっごい楽しませてもらったし、千円置いていこか」

 五百円玉を二枚、気付きやすい場所に置いて、その場を去る。停泊場を振り返った。この時間に池を泳ぐのも悪くないね、また来なよ。多分、そう言っていた。もう一度振り返ると、白鳥達はただ静かに揺れているだけだった。

「はしっこまで歩こうよ」

 カサッ、コソリ、ジャコ、パキ。違うリズムの二つの歩幅。

「これ、可愛い。相合傘なんてひっさしぶりに見た」

 立ち止まるミユの視線を追う。薄く苔の生えた壁に相合傘が描かれている。左に、とも、右に、かず、と書かれている。ともみ、なのだろうか、ともき、なのだろうか、かずと、なのだろうか、かずき、かずこ、なのだろうか、どっちが男性でどっちが女性なのか分からない。どちらも男性か、どちらも女性かもしれない。

「これって、二人で書いたのかな?」

「んー、どうだろうな。同じ人が書いたような字に見える気もする」

「そうだね。結ばれてる二人なのか、まだ結ばれてないのかも、分からないね。ねえ、ユウはこの二人のストーリー、どんな感じだと思う?」

「え、んー、難しいな、、この二人は同性で、書いた人はもう一人のことが好きだけど、書かれた方は、ヘテロの異性愛者。とかは、あまりに物語性を持たせすぎか」

「悪くない。でも、結ばれないのは嫌だな。あたしは結ばれてほしい。というか、すでに結ばれてて、二人は中学生で、高校がバラバラになってしまうの、だから二人の証拠をここに残したの」

「なるほどな、二人の証拠か、そうしたら、第三の嘘も、必要になってくるな」

「あ、読んだの?」

「うん、一番大事な本達」

「本も映画も、一番大事なものが被っちゃうね〜。あ、こっちも見て、世界征服、だって!して欲しい〜」

 ガサガサの勢い任せの字で☆世界征服☆と書かれている。

「なんかこの壁、めちゃめちゃ良いね、詰まってるね全部」

 ガーーとアーーの間のような声で頭上のカラスが鳴く。

「ちょっと座ろうよ」

 公園をゆっくり時間をかけて一周したところ、さっき二人がボートに乗っていた池が見えるベンチに腰掛ける。陽の当たる顔が暖かくて気持ちがいい。

 

 低い犬の鳴き声で目が覚める。気付かぬうちに寝ていたらしい。

「んあ、すまん。どれくらい寝てた?」

「えっとねー、割と寝てたね」

 そうなのだろう、首と背中が痛くなっている。スマホを見ると九時を過ぎていた。

「もう九時か、いや、でも、まだ九時か」

「だね、何しようか」

 立ち上がり、伸びをすると、思わず声が漏れる。そのすぐ後にお腹が鳴る。

「何するか、決まったね。あたしもかなりお腹すいてる」

 公園を出て駅の方へと道をぶらつく。

「食べ物、何が好き?」

「俺はねー、ハヤシライスと水餃子が好き」

「え、なんで?なんでそのチョイス?」

「なんでって、好きなんだよ」

「だって、どっちもさ、じゃない方じゃん。カレーとハヤシライスのカレーじゃない方と焼餃子と水餃子の焼餃子じゃない方。あたし、絶対カレー派だし、焼餃子派」

「じゃない方なのは、そっちの二つよ。俺からしたら。絶対にハヤシライスと水餃子の方が美味い」

「これは、戦争勃発だね。第三次世界大戦が起きるよ。でも、だとしたら絶対あたし達の派閥が多数派だから勝つね」

「昨今の戦争は数だけじゃ勝てねーぞ?」

「だめ、ステゴロの殴り合いで決めよ」

 よく晴れた空の下、路地の中、腹をすかせた二人の物騒な会話は続く。

「何食おっか」

「完全に忘れてた、どうしよう」

「食べたいもの無いの?」

「えっとね、一つだけある」

「じゃあそれで決まりじゃん」

「分かった。じゃあそこに行こ」

 連れてこられたのは、駅前にあるファミリーレストランだった。

「ここ」

「ここで良いんか?」

「うん、あたし、ファミレスって行ったことないの。だから行ってみたい。ユウは?」

「俺はね、たまーに行くよ。ダチと駄弁ったりするだけだから、ちゃんとしたメニューは頼まずに甘いものばっか食べてるけど、特にここはプリンが美味いから来るとしたらこのファミレスが多いな」

「じゃあ入ろ。あ、まって、営業十時開始だって。まだ開いてないや」

「じゃあ、駅の裏側にあるファミレスに行こか」

「え、でもいいの?ここのプリン美味しいんでしょう?あたしはファミレスと呼ばれる場所ならどこでも良いんだけど」

「全然、問題ないよ。てか、腹減り過ぎてて、今はちゃんとしたもん食いたいし」

「ありがとう」

 本人は気づいていないだろうが、そう言った後の一歩は弾んでおり、ふんわりと揺れていた。

 

 赤い看板のファミリーレストランの中でメニューを開き、ああ、と大きな声を出している。

「ねえ、通常メニューは十時半からなんだって、、今はモーニングメニューしかないや、、」

「十時半か、あと四十分ぐらいだろ?おしゃべりしてりゃすぐだろ。とりあえずドリンクバーだけ頼んで十時半まで時間潰そうぜ」

「え!いいの?」

「うん。なんでさっきからファミレスのことに対しては、遠慮がちなんだよ」

「だって、ファミレスってみんなにとっては別に特別なものじゃないじゃん。それにこんなに固執するの迷惑じゃない?」

「ミユもそんなこと考えたりするんだな。良いじゃん、お前にとっては特別なんだろ?」

「そんなこと考えるよ!どんな人間だと思ってたの。失礼だな〜、それに、今、お前って呼んだの聞き逃してないから」

「あ、うそ、まじ?」

「うん、一回目はミユだったけど、二回目にお前って呼んだ」

「気づかなかったわ、すまん。まあ、一回目ちゃんと名前で呼んだから、プラマイゼロってことにしよう」

「んーーー、イエローカードだね。次は退場だよ」

「どこからだよ」

「どこからって、ここから」

「それは困る、餓死しちゃうわ」

 タブレットを操作してドリンクバーを二つ頼む。ドリンクバーを二つって何だか変な表現だなぁ、なんて思いながら。

「わあ、凄い。いっぱいあるじゃん。悩むな、、」

 実際に、わあ、なんていう言葉、初めて聞いたような気がした。

「何杯でも飲んで良いんだから飲みたいもん適当に選べば良いっしょ」

「だからー、あたしにとっては記念すべき初ドリンクバーなわけよ。悩ませて!」

 先に烏龍茶をコップに注ぐ。機械の前で何度もボタンを押そうとしては指を引っ込めている。あーー、とか、んーー、とか唸りながら、たっぷり五分ほど悩んでようやく決めてボタンを押した。

「何でそれにしたん?」

「えっとね、白いから」

「結局そこかよ」

 笑う身体に連動して、持っている烏龍茶の水面が揺れた。

「さっきの話なんだけどさ、ハヤシライスかカレーかみたいな話ね。じゃあ、キャベツとレタスは?」

「絶対レタスだろ」

「あたしキャベツ。シャキッとしてて美味しいじゃん」

「そうか?たまに虫みたいな匂いするじゃん。じゃあ、んー、豚肉か牛肉は?俺は豚」

「その二つだったら牛肉だけど、勝手に鶏肉を選択肢から排除しないでくれない?鶏肉が一番好き」

「鶏肉は一番ありえないから排除してたわ」

「あーもう、これは分かり合えないわユウとは。やっぱステゴロで戦うしかないね。あ、そういえば服も真っ白と真っ黒だもんね。これはそういうことだよ」

「だな。それまでにボクシングジムでも通っとく。イッテェ!!」

 テーブルの下で脛を思い切り蹴られた。

「戦いはもう始まってるよ」

「思わずでかい声出しちゃったじゃねーか」

 そうこうじゃれている間に、十時半になった。グランドメニューに切り替わったタブレットをミユに渡す。

 またもや悩みだす。顔を近づけたり、左にスワイプしたり右にスワイプしたり、忙しそうに。

「ねえ、大変だ。ステーキもあるし、ハンバーグもある、え、トンカツとかもあるじゃん生姜焼きも、、ステーキに関しては鶏肉も牛肉もあるよ、、みんなこれ、どうやって決めてるの」

「腹減ってるんだろ?俺も腹減ってるから、三品ぐらい二人で余裕だろ。一つに絞らず三つぐらい好きなの頼んじゃえよ」

「でも、ユウは?食べたいのないの?」

「俺はなんでも食うよ」

「そっか、分かった、、じゃあお言葉話に甘えるね」

 ドリンクバーの時の二倍ほど悩んで、チーズインハンバーグ、リブロースステーキ、トンカツを頼んでいた。

 運ばれてきて、テーブルに並べられたそれらは、小学生が歓喜の舞でも始めそうな光景だった。思わず、唾液が口の中に溢れる。

「これは、、凄い光景だな。食欲が爆発しそう」

「ね、凄いね、、魅力的すぎるテーブルだね」

「うん。食おうぜ。どうぞお先に」

 目の前でステーキを頬張って、ハハハハと、本当にハハハハと笑う。

「この空腹時にこれはダメだよ。美味しすぎる。本当に美味しい時ってさ、笑っちゃうよね」

 トンカツ一切れを皿に移してソースをたらし口に運ぶ。

「確かに、、笑ってしまうなこれは」

 そのあとは二人とも黙々と口に、胃に、目の前の肉達を詰めていく。この光景を写真に撮ったら、題名は絶対に、食欲、だろうな。この時間に、このラインナップを喋りもせずに食べる絵面は側から見たら異様な光景に違いない。時に目を瞑りながら、時に眉間に皺を寄せながら、頬を膨らませて咀嚼する姿は見ていて気持ちが良かった。あっという間に三枚の皿は空になった。

「舌が、胃が、脳が喜んでる!」

 さっきよりも、心なしか肌を火照らせて、口を拭っている。

「食べたな、この量がこんなに早くなくなるとはな」

「二人とも無言だったもんね」

 満足した人間が二人、ふーーっと息を吐く。いや、二人というより、二匹と呼んだ方が似合いそうな食いっぷりだった。腹をすかせた野生の人間が肉を貪っていた。

「あたし達さ、色々真逆なのに、似ている気がするのはどうしてだろうね」

「確かに、真逆なことばかりなのに、これってやつは、同じだったりするな」

「きっと、同じ円の中に立って背中合わせになって、真逆の風景を見てるんだね」

 一切の抵抗もできないまま、心の中にミユの言葉が侵入してくる。そして、音も立てずに馴染む。自分の中では言葉になってなかった何かが言葉という形を持たされたように感じた。

「背中合わせって、向かい合うよりも、距離が近いんだな」

「それ、採用。とても良い」

「ありがとう。あのさ、デザート頼んでも良い?」

「良いよ。凄いねまだ食べるんだ」

「デザートのない食事は食事として認めてないんだよ」

「プリンあると良いね」

 タブレットを操作してデザート一覧を眺める。

「なんか、プリン単体がないな、ブラウニーとかソフトクリームが添えられてるわ。これが出せるなら、単体も出せるはずなのにな、出してくれよ。混ざるじゃんね、味が」

 つべこべ言いながらもそれを頼む。食事に比べて、デザートはすぐに出てきた。

「俺さ、甘いもの好きなんだけど、冷たいのはあんまり得意じゃなくて、ソフトクリーム貰ってくれない?」

「いいよ。白いし」

「またそこかよ、着眼点は」

 スプーンでソフトクリームの部分を全て掬い、新しい取り皿に移して渡す。プリンをひと救い口に運ぶ。

「ん、うん。結構美味しい」

「そう、なら良かったね」

 緑色の看板をしたあのファミレスよりは劣るが、充分美味しかった。チョコブラウニーも美味しい。

「ちょくちょく思うんだけどさ、ユウの言葉ってか、表現?あたし好きな時多いな。なんか、書いたりしたら良いのに」

 こいつになら、と思い打ち明けることにする。

「えっとねー、実はさ、書いてるんだよね。詩みたいなものをちょいちょいね。細々と。自己満だけどさ」

「え!嬉しい、書いてるんだ。いやー、もしかしたら書いてるんじゃないかなーとは思ってたけど、良いね。読みたい。読ませてよ。ねえ読ませて」

「何回言うんだよ。恥ずかしいわ、書いてるって自分から打ち明けたことさえ初めてで恥ずかしいのに、読ませるとか、死ぬ」

「死んじゃうのかー、それはやだな。えーでも、読みたいなぁ」

「いつかな。じゃあ、そのうち読ませるわ。それは約束する」

「いつかね、そのうちか」

「うん。とりあえず今はそれで手打ちにしてくれ」

「うーん、うん」

 そろそろ出ようかとどちらかが言って、二人とも席を立つ。

「あたし出すよ」

「なんで?割り勘でいいじゃん。というか、俺デザートも食べたし、俺の方が多く払わなきゃ」

「いいの。お金の使い所ないし、今日でお金使い切っちゃいたいんだ。あたしのお金が尽きたらユウが出してよ」

「お金は使い切らない方が良いと思うけどな、んーまあ、じゃあご馳走になるわ。ありがとう、ごちそうさま」

 ありがとうございました。制服姿の店員の声を背中に聞きながら店を後にする。

「結構値段いったな、やっぱ出すよ」

「もう、良いってば!」

 そっか、ありがとう、と小さい声で言いながら、ポケットから出そうとしていた財布をしまい直す。そのまま逆のポケットからタバコを取り出す。

「一本、いい?」

「食後のってやつね、やっぱ食後は吸いたくなるの?」

「なるな、何でだろうな」

 キンッ、ジャッ、オイルの香りがふわっと開く。タバコに火をつける。カコッ、フスーー、本当に、どうして食後はタバコを吸いたくなるのだろうか。

「ライター貸して」

「ん、どうぞ」

「これジッポってやつだよね?初めて触った!案外重いんだね」

 物珍しそうに開いては閉じたりしている。

「やばい!火が消えない!どうやって消すの?」

「閉じれば消えるよ」

「無理、無理怖い!」

「貸して」

 蓋を閉じ、もう一度差し出す。

「正確には、ジッポではないんだけどさ、まあ、ジッポみたいなもんよ」

「正確には、なんなの?」

「んー、ジッポってのはメーカーの名前だから、ジッポが出してるオイルライターをみんなジッポって呼んでる感じかな。だからこれは、ジッポから出てるわけじゃないから、んー、ただのオイルライター。シモキタの古雑貨屋で買ったんだよね」

「そうなんだ。良いね。色も、形も重さもいい感じ。古雑貨屋ってことは、これも古いやつなの?」

「うん、らしいね。何年前かとかは聞いてないけど、ヴィンテージのオイルライター」

 ふーん、という顔で手の中で転がしては、また何度も開けたり閉めたりを繰り返す。

「あたしも欲しいな」

「タバコ吸わないっしょ?」

「うん。でも欲しい。なんか、火を生み出すものを持ってるって良いなって思った。今」

「じゃあ行く?そのお店」

「行く!」

 スマホを開き営業時間を調べる。

「十二時からって書いてるから、各停に乗ってゆっくり行けばちょうどいいな」

 吉祥寺発渋谷行き十一時三十七分の電車に乗る。

 すいている車内、他人のベランダがよく見える。バンドのグッズらしきタオルが何枚も干されているベランダ、アースカラーの服しかないベランダ、どんな人が着ても大きいだろうというTシャツが四枚干されているベランダ。柔らかい絹のドレスみたいな日差しに照らされながら緩やかに電車は線路の上を進んでいく。こんなにのどかにゆっくり進んでいるようでいて、人にぶつかれば、あっという間に殺してしまうなんて、信じられなかった。

 平日にも関わらず、人の多い下北沢。個性を詰め合わせたように見えて、その実、みんな同じようなこの場所。

「ここ。入り口のところ結構段差あるし、中めちゃくちゃ狭いから気をつけて」

 ドアを外向きに開ける。

「おーー、確かに、狭いね。このコップかわいい!昔のコーラだ」

「そのまま、真っ直ぐ奥に行ったらオイルライターあるよ」

「本当だ。結構あるんだね」

 これ、可愛い。これも、良いね。あーでも、やっぱシンプルなやつも、、

 小声で独り言を言いながらケースに顔を近づけている。

「全部、手にとっても大丈夫なので、よかったら」

 俺が買い物をした時と同じ店主らしき男性が声をかけてくれる。

「ありがとうございます!ねえ、悩んでもいい?」

「もちろん。好きなだけ悩みな」

 ミユは本当に好きなだけ悩んでいた。暇つぶしに店内の雑貨を眺めた。一周して外にタバコを吸いに出た。戻ってきても、まだケースの前でライターを手にとってはケースに戻している。もう一度、ゆっくりと一周しながら商品を一つ一つみて、もう一度タバコを吸いに外に出る。

 たっぷり、悩んで、

「決めた。これください」

「ありがとうございます。包みますか?」

「そのままで大丈夫です」

 先に出て、ドアを開けて待つ。

「どんなの買ったの?」

「これ」

 通常のジッポライターよりも、一回りか二回り小さい、銀色のつるりとした傷一つないものだった。

「いいね」

「でしょ?未使用なんだって。小さくてつるつるしてて、火なんて起こせなさそうなのが気に入った!」

「それは、何より。オイル入れても良い?」

「オイル?」

「そう、このままじゃまだ火つけられないから、オイル入れなきゃなんだよ。俺今持ってるから、入れちゃっても良い?」

「そうなんだ。もう買った時からすぐ使えると思ってた。自分で入れたいから、入れ方教えて」

「じゃあ、俺が自分のでやってみるから、それ真似してやって」

 オイルライターの中身をケースからカシュっと取り外す。

「え!そうなってたんだ。あたしのもなの?あ、ほんとだ、外れた」

「そうそう、そして、ひっくり返すと、こういうふうに綿が詰まってるでしょ?」

「うんうん」

「ここに、こうやって、オイルを入れてく。表面ぐらいまでオイルきたなーって思ったら、完了」

 恐る恐るオイルの缶を傾けている。

「大丈夫、出てくるとこ小さいから、ドバッと出てきたりしないよ」

「うん」

 少し寄り目になりながら手元を真剣に見つめている。

「こんなもんでいい?」

「ん、良さげ。じゃあ、ケースに戻して、そんで火つけてみな」

 ジャッ、小さな火が灯る。

「ついた!わーい!ついたね」

「ついたな」

 それから、歩きながら、何度もつけたり消したりを繰り返している。よっぽど気に入ったのだろう。

「今適当に歩いてるけどさ、どこ行く?」

「そだねー、コーヒーでも飲も。ユウ、どっか知ってる?」

「俺がいつも行く場所でいいなら」

「じゃあそこにしよ」

「ここからだと駅の裏側だから、少しだけ歩くよ」

「問題ないよー」

 それより、このライターに夢中だ、という様子だ。

 ほとんど会話のないまま、店に着く。

「この階段登ったところ。平日でもたまに満席になる時あるから、席空いてるといいな」

「満席だったらまた別のとこ行けばいいよ」

 運良く、二人がけのテーブル席が一つ空いていた。いつも通り、薄暗い店内。椅子に座り、別々のブレンドコーヒーを注文する。

「いい感じの暗さ」

「だよな。落ち着く。前にさ、さっき注文取りにきたおばあさんが間違って店内の明かり消しちゃって、一瞬、外の明かりが窓から差し込んでるだけになったことがあってね、その時の店内、良かったなあ。一日に一時間ぐらいそういうふうに営業したらいいのにって思ったもん。でもそしたら、作業しにくいか」

「なにそれ、めちゃくちゃ素敵そう、、あたしもその時に遭遇したかったな。おばあさん、もう一度だけ消してくれないかな」

 香りが先に、そして液体が次に、コーヒーが二つ運ばれてくる。一口、ちびりと飲んで、アチッとつぶやいた後、こちらをみて口を開く。

「ねえ、このお願い、最後にするからさ、やっぱりユウの書いた詩、読みたい」

 まだ覚えていたのか、自分でさえもう忘れていたのに。ただ、ミユにならば、見せてしまってもいい気がした。

「んー、まあ、もう良いよ。ほら、このアカウント、これに載せてるから、自分のインスタで見てくれ」

「ありがとう。本当に嬉しい。読ませてもらうね」

 スマホの画面をじっと見たまま、たまにスクロールをする。黙りこくって。

「だめだ、やっぱ恥ずいわ」

「しっ、黙って、今読んでるから」

 全部読むつもりなのだろうか、目の前で読まれるなんて、恥ずかしすぎる。自分の自慰行為を正面から眺められているみたいだ。そわそわしてタバコを続け様に何本も吸ってしまう。スマホで興味もない記事を流し読みする。四本目を六割ほど吸って、灰を落としたとき、久しぶりに口を開いた。

「ありがとう。うん。読ませてくれてありがとう。ごめんね、感想とかうまく言えないんだけど、好きな言葉たちとユウが詩の中にいっぱいいた」

 たまに、そのアカウントをフォローしてくれている、顔も本名も知らない誰かから感想を言ってもらえる事がある。ミユの感想は、そのどれよりも、俺の中の何かを震わせて締めつけた。

「あたし、これ特にお気に入り」

 東京が

 燃えている

 電車の窓から見えるビルの向こうで

 静かに鮮やかに

 夢は叶わない戦争は終わらない

 傷ついた人はビルから身を投げる

 燃えている

 誰かの叫びを新しい産声を

 燃料にして

 沈め東京

 深くまで

 眠れ東京

 夜が来る 

 そう読み上げる。

「おい。声に出されるのは、流石に、恥ずかしすぎる」

「そう?良いじゃん。口に出して読みたくなる詩だもん。素敵な詩。あとこれもね、好き」

 すき。

 声にすると

 なんともまぬけな

 この言葉が

 紡いで

 壊して

 包んで

 放って

 見上げて

 世界

 またもや読み上げる。

「分かった。ありがとう、マジで嬉しい。でも、お願い、もう読み上げるのは、やめてくれ。頼む。俺がもたないから」

「まだまだ好きなのあるのにな、分かった、読み上げるのはやめてあげる。けど、本当に、うん、ユウの言葉を表現を聞いて思ってた通り、とっても素敵な詩を書くんだね。あのさ、東京が燃えているやつ、あれはゴジラに燃やされたの?」

「ゴジラか、いや、何によって燃えているのかは、読んでくれた人たちの自由だと思ってるから、ミユの中でゴジラに燃やされた東京なら、ゴジラに燃やされてるんだよ」

「うん。ゴジラに燃やされてた」

 数秒の無言、店内の薄い音楽と照明。

「じゃあ、お礼に、いや、お礼にならないんだけど、あたしも一つ、誰にも言ってない事、教える」

「うん。なに?」

「今日ね、あたし死ぬんだ。夜が明けたら死ぬ」

 冗談を言っているようには見えなかった。本当の言葉だけを言っていると思った。それでもやはり、聞いてしまう。

「え、、それは本当に?それって明日の朝ってことだよね?」

「うん。本当。まあ、明日の朝とも言うかもね。でも、私が寝なきゃ、まだ今日でしょう?昔から、二十歳になったら死のうと思ってたんだ。ひとりで。だけど、どうしてだろう、最近ね、死ぬ時誰かに見届けて欲しいと思うようになったの。誰とも深い関係にならないようにと生きてきて、誰にも知られず死のうと思ってたのにさ、どうしてだろうね。さっきさ、ユウの詩を読んでね、思ったの。この人に見ててもらおうって。だから、お願い。一生のお願い。あたしを見ていて。そして、詩にして。あなたの言葉の全部をかけて、あたしを詩にして。一生のお願いって、今日死ぬあたしがいうと、説得力ありすぎるね」

 一息にそう言った後に笑う。これは、どうやら本気らしい。ならば、これ以上疑うことも、止めようとすることも、ましてや、からかうようなことは、失礼だ。そう思った。

「そうか、うん。あ、だからお金も使い切ろうとしてたのか。どうして、死ぬの?」

 それでもやはり、理由を尋ねてしまう。

「あたし、キスもセックスも手を繋いだこともないの。誰かに恋をしたことも、逆に誰かを死ぬほど憎んだこともない。そういうものをさ、知らずに死ぬって、案外贅沢じゃない?それは、私は私を失わずに死ぬってことだから。何も失ってない、何も得てない、まだまっさらな、透明なあたしで死にたいの。なんで二十歳かっていうと、それは、ほんと何となくなんだよね。やっぱさ死ぬのって勇気いりそうじゃない?だから区切りのいい時の方が、決心が揺らがないかなって。それに二十歳過ぎると、いろんな責任とか、自由とか、のしかかってくるじゃん、そしたらあたしはきっと何かを失うことを何かを得てしまうことを避けられないと思うの」

 充分すぎる理由だった。満席の店内から音が消えたような気がする。

「分かった。だけど、死ぬ最後の日に、よく会ってくれたな。だって、初対面だぜ」

「だよね。自分でもそう思う。だから、会う予定立てる時、少し悩んでたでしょう?死んじゃうから、直近の休み聞いたのに、ドンピシャの日を提示してくるんだもん。でも、なんか大丈夫な気がしたんだよね。というか、あった方がいい気がしたの。勘だけどさ。まあ、その勘が間違ってたら、その場で逃げちゃえば良いしさ。死ぬ前なら、そのぐらいのわがまま許されても良いでしょ」

「それは、そうだな。待てよ、さっきの話からすると、ミユ、今日誕生日じゃんか、おめでとう」

「ありがとう。今日死ぬ人に誕生日おめでとうって言うなんて、おめでたいのか何なのか分かんないね」

「いや、めでたいだろ。それはめでたい。それで、俺は見届ければ、良いんだな?」

「うん。それと、あたしを詩に書いてユウの言葉で。こんなお願い聞いてくれるなんて、ユウ、相当変だよ」

「今日死ぬって決めてるやつに、言われたくないな」

 お互い、丸裸だ。服は着ているけれど、丸裸だった。よく似た、だけど別々の獣が二匹、テーブルとコーヒーを二杯挟んで、ようやく本当に初めましてと恥ずかしそうに嬉しそうに挨拶をしている。

「死に場所は?」

「海、一択」

「どうやって死ぬの?」

 カバンから錠剤を取り出す。

「これ、眠剤。これ飲んで溺れて死ぬ。苦しくなさそうじゃない?」

「うん。いいと思う。どこの海で?」

「それはね、まだ決めてない。いろんな海見て決めようと思ってた。一緒に探してくれる?」

「もちろん。ここまできたら、なんでもこいよ。だけど、電車でか?そうしたら、大変そうだな」

「あ、免許持ってないの?」

「持ってねーよ」

「持ってたら運転してもらおうと思ってたのになぁ、じゃあ、タクシー使うかあ、でもなあ、なんか違う気もするけど、しょうがないか」

「ちょっと待てよ。いい考えがある。ちょっと、通話してくるから、待ってて」

 スマホを持って店外に出る。LINEを開いてジンに通話をかける。まだ寝ているのだろうか、なかなか出ない。十五秒ほどして

「おはよう」

 と声がする。やっぱり寝ていたらしい。

「どうした。ユウからかけてくるなんて、珍しいじゃん」

「今日暇か?」

「明後日までに仕上げなきゃなレポートがあるから、暇か暇じゃないかって聞かれると暇ではないけれど、今日じゃなきゃ、俺じゃなきゃ、ダメなこと?」

「今日じゃなきゃ、お前じゃなきゃ、ダメだ」

「分かった。どこにいる?」

「トロワシャンブル」

 喫茶店の名前を言う。

「了解シモキタか、近くまで来たらまたかける」

 こいつ、やっぱり、いいやつだな。ジンが友達で良かった、正直にそう思った。

「お待たせ。車で行こう。今運転手、手配した」

「運転手?誰?」

「俺の親友」

「それなら大丈夫。優しいね」

「うん。本当に、優しいんだよそいつ」

「大事な人なんだね。顔に書いてる」

「うそ、どんな顔してた?」

「教えてあげない。でも、いい顔だったよ」

 自分が自然にニヤけてしまっていたことに気づいて、頬の内側を軽く噛む。誤魔化そうとタバコに火をつけ煙吐くけれど、その口がつい緩むのを感じる。

 

「それで、どう言うこと?」

 車に乗り込むと同時にジンが言う。

「え、ユウ、電話で説明しなかったの?」

「ユウはね、そういうやつなの」

「お前が聞かなかったんだろ?」

「そういうのはね、普通聞かなくても説明するもんなんだよ。まあ、来たけどさ」

 ことの成り行きを説明し終えた後、ジンは声を大にして笑った。

「オーケイ。最高の場所を探そう。ミユちゃん、候補は?」

 振り返ると、なんでこんなに軽く承諾してくれるの?という表情でこちらを見ている。

「ユウもジンくんも、変!」

「だから俺らは親友なんだよな、な!ユウ」

「んー、まあな」

「あー、照れ隠ししちゃって、かわいいなユウは」

「うるさい」

 右隣と右斜め後ろから、笑い声が聞こえる。

「ユウ、本当にジンくんが友達で良かったね」

「ミユちゃん、わかってるね〜。ほんと、俺が友達で良かったよな〜ユウ!」

「もう、行くぞ。ほらさっさと車出せ」

 まったく、人使いが荒いんだからさ、と車は動き出す。

 何時間、車は走っただろうか、何度、砂浜と波を見ただろうか、その間、ミユはじっと外を見ていた。車内はタバコと潮の香りが混ざっている。音楽はかかっていない。車とすれ違うたびにタイヤの音が聞こえる。空は少しずつ色を変えて、暖かい色になって、一瞬だけ赤くなった後、すぐに暗くなった。

「ここ。ここにする」

 人の誰も来ないような、ボロボロになったアスファルトの上を走っている時、ポツンと、はっきりとそう言った。黒い海をじいっと、見つめていた。死に場所を見つけた口元は微かに笑っているように見えた。

「ありがとうジンくん」

「ありがとなジン」

 二人、車を降りて車内を覗き込む。

「おう。俺は帰って課題やるわ。楽しかったぜ。人のラストドライブを運転するなんて、滅多にないしな。ユウ、またな。焼肉でも食いに行こうぜ。ユウの奢りでな」

「うん。誘えよ。いつでも行く」

「焼肉か〜、良いなぁ、しかもユウの奢りか」

 車内から手を振り、車はターンしてきた道を戻って行く。ライトはすぐに小さくなって、見えなくなった。

 どちらからともなく歩き出し、どちらからともなく座った。砂に触れている部分の体温が地面に吸われていくみたいだ。黒い砂、黒い波の音、何かを思い出させるようなその匂い。少しかけた半月が浮かんでいる。

「月を綺麗って思ったこと、初めてかもしれない」

 隣で声がする。

「あの月には、人の足跡がついてしまってるんだね、可愛そう。誰の足跡もついていない月を眺めてみたかった」

 話しかけられているのか、独り言なのか、分からない。返事は求めてないのかもしれない。

「だけど、あの海に映る月は、誰の足跡もついてない」

 隣の影が動き、上体を起こした。

「本当だ。ありがとう。その言葉、大事にするね」

 黒い水面にある白い道、丸いままでは道になれないそれは、海に浮かんで波に形を変えられて、道になっている。周りに街灯も灯台も何もない場所で良かった。もしも、他の光があれば、俺には水面に映ったそれらが月の光なのか、他の光なのか、区別がつかなかっただろうから。

 潮が引いていっているのか満ちてきているのか、水は二人のどれだけ近くにいるのだろう。音と匂い、そして反射する光がその存在を知らせる。

「星だって、こんなに綺麗なんだね、知らなかった。良かった、あたしの、誰の、手も届かないところにいてくれて。誰にも台無しにされずに、安らかにいるんだね」

 言葉は途切れ、シャララ、ジュワー、ポコポコ、ポチャ、ザブッ、チョロチョロ、そんな音たちが混ざり、繰り返す。遠い昔から繰り返され、これからどれだけ経とうとも、続くその音。

 寝転がり、ただ上を見ている。何度か光が空を横切った気がした。持っていたタバコも空になった。身体の内側まで冷え切っているけれど、震えはしなかった。目を瞑り随分と長い時間、音を聞いて匂いを嗅いでいた、もしかしたら寝ていたのかもしれない。

 瞼を開けると、世界は染まっている。

 砂浜に落ちている角の取れたガラスのように、朝に咲くあの花のように、幼い時に溺れた深い川の木の影のように、忘れることのできない後悔のように、博物館で見た宝石のように、ぶつけた膝の痣のように、染まっている。吸い込むこの空気までもが、染まっている。

 黒い影ではなくなったミユが立ち上がり、服を脱ぎ捨てる。そうか、白じゃなく、透明だったのか、目の前に立つ身体は世界の色を透き通してる。

「行くね」

「うん」

 滑るように、水へと向かっていく。

「冷たい!ねえ、見てる?ちゃんと見てる?」

 そう叫ぶ声は一切の湿り気を帯びずに、響く。

「見てる。ちゃんと」

 ちゃんと届けねばと、声を張って返す。

 ゆっくりと確実に姿が小さくなっていく。ぼうっと眺めていたはずなのに、身体が勝手に動く。服を脱ぎ捨て、水に向かって足を緩めることなく。冷たい、全身の産毛が一斉に立ち上がる。

「来たんだ」

「うん。確かに、冷たいな」

「ねえ、そのピアス、いい色。この空と、水と、空気と、同じ色だね。ここ凄い、ビー玉の中にいるみたい」

 手を前に出せば、その指先が染まってしまいそうだった。だらりと垂らした腕は、手首まで水に浸かっている。

「それ、海から彼岸花が生えているみたいだね」

 俺の左腕を指差して笑う。綺麗、と。

 二人は再び歩を進める。言葉は交わさずに、波が身体にぶつかる位置が高くなっていく。ミユは肩まで水に浸かって、波は何回かに一度、口に入っていこうとしている。

「振り向いて。砂浜、もうあんなに遠いよ。見て、凄い。燃えてるみたい」

 振り返り、その先を見る。燃えていた。

「夜が、火葬されてるみたいだな」

「あたし、やっぱり、ユウの言葉が好きだよ」

 二人向きを変えて、お互いを見ている。どこへでも行けてしまいそうだ。そこに距離はなかった。音も、夜も、朝も、太陽も、月も、星も、雲も、形も、そこにはない。

「      」

「             」

 そう言葉を交わして、二人は祈るように笑う。

 目に映るものは、容赦なく、穢れなく、残酷に、そして、何よりも、あおい。

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焦がれてあおい 園田汐 @shiosonoda

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