【おまけ】朝霞美優と堤昌親

 午後七時半の星崎家のある一室。私は1人の男と話し合いをしていた。


「これでいこうと思うんですが……」


 その部屋はちょっとした図書室になっていた。


「この部屋は自由に使っていいわよ」と涼子先生から言われた十五畳ぐらいの部屋には、壁一面にびっしりと本棚が備え付けられ、それら全てが埋まっている。音楽の専門書に、芸術系の蔵書。映画の解説本。作曲家のエッセイなど。小説や批評本もある。本棚に入っているのは本のみではない。音楽CD。映画やバレエのDVD。オペラのブルーレイ。中央には中型テレビとオーディオが設置されていて、見たい映画や聴きたい曲を自由に視聴できる。本棚に入り切らない本が、床や脚立に所々に平積みにされている。


 目の前の人物いわく「家主の趣味のありがたい資料室」。


 星崎家にきて五日。アイスパレス横浜の指導者陣と知り合い、親しくなった。その中でも、とりわけ親しくなったのが目の前の人物だ。ここに下宿している安川杏奈の指導もしているから、それも理由になっているだろう。


 私と向き合っているのは、年上の男性。主要大会のキス&クライに、鮎川哲也の横に座っていた人物だ。

 堤昌親は面白そうな顔で、私の提示した「これ」を眺めた。


「いいと思います。俺はフリーでこれを使おうと思ったので」


 堤昌親は一枚のCDを私に見せた。その中の一曲を指す。……そうきたか。らしいといえばらしいが、斬新といえば斬新だ。

 これならば、ショートとフリーの曲のバランスが取れていいかもしれない。


「でも、私が振り付けて本当にいいんですか? 大事な生徒さんなんでしょう?」

「誰よりも大樹が望んでいますから」


 堤昌親第二の弟子、松田大樹。


 今季ジュニアデビューとなる彼は、2ヶ月前の世界ジュニアをしっかり視聴したらしい。来年は自分がこの大会に出場する、という強い覚悟のもと。


 そうしたら、私が振り付けた洵君のエリザベートをやたらと気に入ってくれていた。私に出会うなり放った言葉がこれだ。「美優ちゃん先生、俺にも振り付けて! 霧崎洵の数倍カッコよく滑りたい!」。……なんと答えたらいいか分からず、曖昧に笑うしかなかった。


 しかし元の教え子が、遠くの後輩からそう言われる存在になったことが純粋に嬉しい。

 堤先生が私に深々と頭を下げた。誰かが……例えば、洵くんや星くんがみたら驚くような風景だろう。


「俺からもよろしくお願いします。朝霞先生の手腕に、期待していますので」

「あんまりハードルを上げないでくださいよ」


 にやりと堤先生が口の端を釣り上げる。


 一つ、私は聞きたいことがあった。

「あの、堤先生」


 口を開きかけたその時に、扉がノックされる。どうぞと私が答えると、顔を出したのは安川杏奈だった。


「堤せんせー、朝霞先生をいじめてませんよね?」

「人聞きが悪いね。大人同士の大事な話だよ」


 大事といえば大事だが、言い方に含みがある。誤解されるような発言は控えて欲しいものだ。私はスルーして安川さんの方を向いた。


「安川さん、どうしたの?」

「杏奈でお願いしますってば。涼子先生がそろそろ夕飯ですって。ちなみに今日は、フジツボとサザエ入りのブイヤベースです。いいサザエがスーパーに売ってたんですって」


 ……涼子先生の中では、だいぶまともな分類に入るメニューなのでほっとする。


 しかし星崎雅のトリプルアクセルの成功率が八割を越えるのも、何だか納得してしまった。涼子先生の作る食事が陰で支えていたのだ。味と栄養バランスは両立しないものだと思い込んでいた。入院していた病院での食事を思い出す。不味くはないけれど、質素な味だった。

 ちゃんと食べること。そして美味しく食べること。味覚が満たされれば、制限されていても満足感がある。涼子先生の言葉は説得力があった。……一食のうちに2品ほど、ぶっ飛んだ品が出てくるが。


「じゃあ、俺は帰るかな。それじゃ朝霞先生、明日もよろしくお願いします」


 立ち上がって帰ろうとした堤先生の手を、安川杏奈がガシッと掴んだ。

 私は一瞬だけ目を剥いた。……堤先生が虚をつかれたような無防備な顔をしていたから。彼のこんな顔は珍しい。かつての弟子の前では、見せたことがないだろう。

 安川杏奈はそこで口の端を釣り上げた。してやったり、という顔をしている。


「だめです、堤先生も食べましょー!? どーせ帰っても1人なんですから、食べてってください。私も作ったんですから」

「杏奈ちゃんは何を作ったの」

「蒸し鶏の中華風サラダです。先生、中華好きじゃないですか」

「それがメインだね。……なら、頂いていこうかな」

「じゃ、準備してきます。朝霞先生とまだ話があるんでしょ? 本当は帰る気がなかったくせに」


 にっこり笑って、忙しなく安川杏奈が台所に戻っていく。その後ろ姿を、堤先生は目を細めて見つめていた。

 妙な雰囲気の師弟だ、と思う。何気ない会話の中に、言外の密度があって、互いのやりとりを楽しんでいる節がある。師弟というより、背中を預けあう相棒という単語の方が似合う。指導者と生徒のはずなのに、互いは対等だというような。


「それで朝霞先生。俺に何か聞きたいことでもあったんじゃないですか?」


 堤先生が改めて私に向き合った。

 開きかけた言葉を、音に出した。


「堤先生は、この子にこのプログラムを作っていいだろうかって迷ったことはありますか」


 最初、洵くんがエリザベートを滑りたいと言った時、私は悩んだ。妹のこともある。死の影が濃く纏わりつく物語を滑らせてもいいものか。こういった悩みは、生徒をよく知るから起こる悩みなのか。それとも、他の振付師は自分の作品に絶対の自信を持っているから起こらないものなのか。こういう話は、榛名ではあまりしてこなかった。同僚、たとえば、岩瀬先生にはなんとなく聞きづらい。


 ありますよと、と彼は静かに肯定した。


「一つの振り付けが、選手の競技人生だけではなく、その後の人生も左右することがありますからね。生徒が選んだ決断に戸惑うこともありますし、逆に、自分が生徒のために選んだものに自信がありつつも、自分の判断に躊躇うこともあります。例を挙げれば、哲也が去年のフリーで十七弦抜かしたいって言った時、割と動揺しましたよ。今までこう言うので惑わせるのは俺の方だったんですけどね」


 それでも指導者を驚かせるようになったら、その生徒を送り出す時なのかもしれないと堤昌親は付け足した。


 初めて、堤先生の口から鮎川哲也の名前が出た。私が洵くんの今後の成長と息災を願うように、鮎川哲也に対して何か思うところがあってもおかしくない。


 この五日間で、堤昌親という人物の為人は多少わかった。自由人、奔放、変態、スケートがなければダメ人間と周りの指導者陣は口を揃えて言うが、根底にあるのは愛情深さだ。知的で余裕がある部分は岩瀬先生との共通項だが、堤昌親は岩瀬先生ほど皮肉屋ではないし、岩瀬先生は堤昌親ほど軽薄ではない。


「それでも俺たちができることって、生徒の魅力を最大限引き出せる作品を作ること。それしかないでしょ」


 彼の言葉に、私は強く頷いた。こう言う悩みは私1人だけが抱えるものではない。それが知れただけでもありがたかった。


 じゃあ、飯に行きますかと堤昌親が立ち上がる。

 私も倣って立ち上がり、部屋の電気を切った。

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朝霞美優と星崎涼子、加えて星浪恵 神山雪 @chiyokoraito

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