朝霞美優と星崎涼子、加えて星浪恵
神山雪
第1話
高崎から上越新幹線で東京へ。東京からは東海道新幹線に乗り換えてJR横浜駅へ。そこから徒歩十分の道のりを、キャリーケースをガラガラ引きながら歩く。浪恵先生から渡されたメモを頼りに歩くと、閑静な住宅街に入った。
目的の家の目の前についた。豪邸とは行かないが、それなりに大きな一軒家の表札には「星崎」と書かれている。間違いない。
私は意を決してインターホンを押した。
「はいはーい。誰でしょうか?」
若い娘の声が返ってきた。どこかで聞いたことのあるような。訝しみながら、私は言葉をつなげた。
「朝霞美優です。高崎の榛名学院の、星浪恵の紹介で来ました」
バタバタバタと向かってくる音。玄関扉を開いたのは、1人の少女だった。
思ってもいない人物が出てきたので、私は少したじろいだ。
うなじでふたつに分けた長い黒髪。黒目がちな瞳。すらっとした長い手足。どこからどう見ても立派な美少女だ。テレビ越しに知っている。彼女はフィギュアスケーターだ。優雅な身のこのなし。クラシックが得意で、反面、スケートは大きく意外にアグレッシブだ。
……なんで彼女が? 名古屋にいるんじゃないのか?
「朝霞先生、こんにちわ」
「……こんにちわ」
「今いきなり私が出てきてびっくりしましたか?」
私の頭に盛大なはてながついているのを読み取ってか、にっこりと彼女が笑う。
「ま、それは今はどうでもいいですよね。りょーこせんせー、お客さん! お待ちかねの朝霞先生だよ!」
気恥ずかしいながら、私の名前も多少は有名らしい。それでも安川杏奈が私の名前を叫ぶ声に、少し違和感を覚えた。
*
まずは私が、どうして横浜の星崎総一郎の家に行ったのか。順を追って思い出してみる。
「朝霞先生。あなたちょっと横浜で勉強していらっしゃい」
5月。ある日の練習前、榛名学院の浪恵先生に呼び出された。
突然言い放たれた言葉に私は目を丸くさせた。これから生徒の練習を始めるというのに、一体何を言い出すのだろうか。
「横浜、ですか」
「ええ。横浜の星崎総一郎を知っているでしょう?」
知らないはずがない。私はしっかりと頷いた。
星崎総一郎は日本を代表する名指導者だ。自身もカルガリー、アルベールビルの二大会に出場した名スケーターだった。彼の教え子にはオリンピアンが多数存在する。初弟子は堤昌親。最近の代表の教え子は、娘の星崎雅。
「彼は私の恩師の友人の教え子です。まぁ、狭いフィギュアスケート界だから、私ともそれなりに親交があります。彼は指導者を育てることにも定評があるんですよ」
星崎総一郎は今年で四十八のはず。アルベールビルの頃が二十歳そこそこだったのだから。対して浪恵先生は、洸一くんという孫がいる。浪恵先生と星崎総一郎は十歳以上年代が離れているが、先生の言うようにフィギュアスケート界は狭い。インスタラクター同士、関わりがあったとしてもおかしくはない。
恩師の友人の教え子、という水割りのように薄い関係であっても、親交は親交だ。
「コーチングを勉強してきなさい。要するに、今まで自分で得ただけの知識だけでは足りず、また高崎から半径30キロメートルだと知り得ない知識だってあるわけですよ。最新の知識を学ぶのに打って付けです。まさかあなた、現状の自分のコーチングで満足しているとでも?」
「いえ、それは」
高崎から半径30キロメートル、という部分に、浪恵先生の皮肉を感じる。あなたは今のままでは、所詮赤城山から抜け出しきれていない二流のインストラクターだと言われた気がした。
「あなたがグランピアにいたままだったら、この話を持ってはきませんでした。代わりに岩瀬先生に行ってもらおうと思っていましたからね。でも、あなたは出てきた。洵をあそこまで育てたのは、紛れもなくあなたの功績。ならば今度は、次のステップのために必要なことをすべきでは?」
からだから、妙な活力が生まれていくのを感じた。今までインストラクターとして活動しても、芽生えなかった何か。かつて失った何か。刀麻くんには感謝しなくてはならない。そして、今まで私についてきてくれた洵くんにも。
浪恵先生は私にA4のファイルを渡してきた。ダブルクリップに挟まれた書類をぱらぱらとめくる。インストラクター研修プログラム。経験者編。どうも、個人研修として星崎総一郎先生が予定を組んでくれたようだ。コーチング、振り付け、ジャンプ指導、メンタルコントロール術から食事管理まで。てんこ盛りすぎて目が点になる。その期間は……。
「一週間ですか……」
だいぶ苦い声になってしまった。
今年から私はフリーになった。グランピアの契約社員はやめたけれど、クラブの講師を辞めたわけじゃない。榛名学院のインストラクターとしても働く。加えて、最近では振り付けの仕事も多くなった。スケジュール的にもキツくなるし、生徒をほっぽり出してこのまま横浜に行くのは気が引ける。
頷けない私に、浪恵先生が言葉を添えた。
「芝浦刀麻をこれから育てるのでしょう? でしたら、ご自身の指導者としての武器は貪欲に取り入れるべきとは考えませんか。……この横浜行きは、あなたにもいい刺激になるはずよ」
威厳のある浪恵先生の口調が、急に柔らかくなった。
「先方は了承しています。この一週間は、何も考えずに、盗めるものは盗みきってきなさい。それが生徒のため、ひいてはあなた自身のためです」
現役時代、浪恵先生はろくに動けなくなった私を辛抱強く待ってくれた。滑りで応えることはできなかったけど。今でも浪恵先生は私を気にかけている。
かつての師に向けて、今度こそ私はしっかりと頷いた。
*
安川杏奈がでて行くと、広い星崎家に涼子先生と二人きりに残されてしまった。今日は練習はオフだが、スケートリンクは営業日らしい。出かけぎわ、安川杏奈は受付のバイトをしているんだと嬉しげに語っていた。家主である星崎総一郎はというと、リンクの事務局に用があって不在だ。
「長旅お疲れ様。今お茶でも淹れるわね。コーヒーと紅茶、どっちがいいかしら?」
「ありがとうございます。じゃあ、コーヒーで」
「ルイボスティーと月桃茶と黒烏龍茶と杜仲茶もあるけど」
「……すみません、何が何だかわかりません」
「じゃあ全部出しましょうか」
そういえばそば茶もあったわねと楽しげな声が聞こえてくる。
私はリビングのソファに通された。大型テレビに、ふかふかのソファ。壁には本棚が立て付けられている。普通にいい家だ。なんとなく部屋数多そうだし。
「客間は一つしかないんだけど、杏奈ちゃんには一時的に雅の部屋に行ってもらうことになっているから、気にしないで」
対面キッチンから星崎涼子が話をかけてくる。電気ケトルが沸いた音を立てた。
「恐縮です。……彼女も星崎先生に教わるんですか?」
元々名古屋を拠点に練習していた安川杏奈が横浜にいる理由はそれほど多くない。移籍と進学だろう。横浜の指導者の元に。そしてそれは、星崎総一郎しか思い至らない。
しかし星崎涼子は、私の言葉に違う違うと笑った。
「あの子はチカの弟子よ。でも、流石にチカの家に居候させるわけにはいかないから、うちで下宿させることにしたの。私たちは居候には慣れてるし、うちも寂しくなったしね」
星崎雅と安川杏奈が親友なのは、結構有名だ。カナダに旅立った一人娘の雅と入れ替わるように、安川杏奈が来たということか。
それにしてもチカって誰なのだろうか。横浜に知佳とか千香という名前の指導者でもいるのだろうか。誰だか見当もつかない。
そうこう考えているうちに、星崎涼子が手に盆を持ってキッチンから出てきた。盆の上には、二脚のコーヒーカップが乗っていた。
「ええっと朝霞先生。星先生からお話は聞いているし、あなたの噂はよく知っているわ。素晴らしいエリザベータを作ったわね。ノービスの選手も結構見てきたけれど、私は霧崎くんがあそこまで成長するとは思わなかったわ」
恐縮してしまう。インストラクターになってからそれなりに時間は経っているが、大きな大会や国際大会のキス&クライが場違いに思えてしまったものだ。さらに言えば、自分自身が選手として大成しなかったコンプレックスもついて回っている。
でも今はそのコンプレックスを肥大させている場合ではない。
……そう思えるようになっただけ、私も少しは変わったのかもしれない。
どうぞ、と一言添えて、私の目の前にカップが置かれた。いろんな茶の名前が挙げられていたが、結局はコーヒーにしてくれたらしい。香りがコーヒーのそれだった。
「少し、私の話をしていいかしら?」
どうぞ、と私は頷いた。これから一週間お世話になるのだ。人となりぐらい知っておいた方がいい。お世話になる夫妻だが、テレビ越しにしか私は知らないのだ。
「私はね、昔アイスダンサーだったの。ダンスに行った理由は一つよ。ある時期からジャンプが飛べなくなったの。第二次性徴ってやつね。加えてそれなりに身長が高かったから、バランスを崩してどんどん飛べなくなっちゃって」
どこかで覚えのある話。紛れもなく、それは私の話でもあった。……こんな話、フィギュスケート界ではごまんとあるのだろう。
だけど彼女は違う。
国際舞台の経験は乏しくても、星崎涼子は全日本優勝の実績のある立派なアイスダンサーだ。
「でも日本っておかしいわよね。活躍するのはシングル選手ばかり。カップル競技なんて『シングルで大成しなかったやつの吹き溜まりだ』なんていう風潮が昔からあるの。こんな話知ってる? ある男子選手が「ペアに転向しろ」って連盟の人から言われた時、ショックでスケートやめたらしいの。……自分はシングルとしての才能がないんだってね。馬鹿なのかしら。そんな根性なし、キンタマ潰してやりたいって思ったわ」
星崎涼子はなかなかに美人だ。実年齢よりは確実に若く見られるだろう。私ほどではないが長身だ。すらっとした体に瞳の大きい童顔系はアンバランスで、それが妙な魅力になっている。包容力のありそうな笑顔だ。聖母か菩薩かどちらかと聞かれたら、菩薩系。
そんな美女の口から放送禁止用語が出てきたのは多少驚いたが。
私もその話を聞いたら、もしかしたら「このクソが!」と罵っていたかもしれない。
「ろくに国際大会にも出られなくて、パートナーも見つけられなくて、ジャンプも飛べなくなって。出来るのは正確なコンパルソリーとステップだけ。ヤケ食いしてやめてやろうと思った時に、ある人からこんなことを言われたの。やめるなって」
ただ一言。
だけど力のある一言だった。
「その人はこう言ったのね。『ジャンプになんの価値があるのでしょう。一瞬で飛んで凄いという価値しか与えない。だけどスケーティングは永遠だ。磨けば磨くほど研ぎ済まされて、ダイヤモンドまで価値が跳ね上がる。それは五輪に出場するよりも尊い。だから、やめるな』……その時からね、ちゃんと自分に向き合えるようになったのは」
何故だか私は、星崎涼子にその言葉を与えたのは、彼女の伴侶のような気がしてならなかった。
私は浮かんできた言葉を打ち消した。かつてのパートナーがそう言ってくれたら、なんて思わない。そう言って欲しかった、とももう思わない。
ただ、そういう道もあったのだということを、星崎涼子は淡々と教えてくれた。
「元アイスダンサーの私たちだからできることがある。体型や成長期で苦しんで、それでもスケートを続けた私たちだから伝えられることもある。……そんなところからしら。浪恵先生のあなたを紹介されて、打診を受け入れたのは」
再び、体の奥底から力が生まれるのを感じた。刀麻と出会って取り戻せた闘志。浪恵先生に横浜に行って来いと言われて湧き上がった活力。
大切なのは、今までの私じゃない。これからの私。
それにしても。
「私のこと、星先生から何か聞いたんですか?」
私のアイスダンスは彼方に飛んでしまった。摂食障害、不眠症、さまざまな原因はある。浪恵先生が何か言っていたら。知らないところで勝手に言って、と理不尽に怒りを感じるところだった。
しかし星崎涼子は首を横に振った。
「あなたの現役時代から、私はもう指導に関わっていたわ。大会の出場リストを見れば、誰が何に出て、誰が出ていないかわかる。ある時期からぱったりあなたの名前を見なくなったもの。それにあなた、アイスダンスのプレゴールド持っているでしょう? ダンスのバッジテストに私も関わっているのよ? 知らないはずないじゃない」
体の穴から、変な汗が出てくるのがわかった。私の話も、ここまできていたということだろうか。……いや、それはもうどうでもいいことだ。
私は顔をあげて、この業界の先輩を見据えた。
ここで吸い取れるものは、吸い取れるだけ持ち帰ってやる。
「いい顔ね。じゃあ、これから一週間、よろしくね」
「よろしくお願いします」
そこで私と星崎涼子は静かに笑いあった。冷めちゃうからどうぞ、と促されてカップに口をつける。
瞬間。
ーー背中に確かな悪寒を感じた。
「まっ……!」
思わず口をおおう。不味い。なにこれ。明らかにこれ、コーヒーじゃない! 舌に残る嫌な余韻。まず苦い。香りはコーヒーなのに、味は黒烏龍茶も混じって絶妙な苦味がある。だけど青臭い葉っぱのようなものも混ざっている。栄養があってもノーサンキューって感じの味。
「あっはっは! 本当ね。これすごく不味いわ!」
同じようにカップに口をつけた星崎涼子が、ケラケラと若い娘のように笑った。
「一体なにを……」
「んー? 全部混ぜてみたの。コーヒーと紅茶と黒烏龍茶と杜仲茶とルイボスティーと月桃茶。でもこれ、見た目はコーヒーよね。……やだ、これほんとまずい。よっぽど舌がブッ壊れている子でも、これだったら確実に不味いって言えるわね。摂食障害だって飯なんてどうでもいいって思ってる人も、これ一杯で覆せるわ」
全部出すって、そういう意味!?
私は目の前の女性のデータを改めて思い浮かべた。星崎涼子。40半ば。元全日本チャンピオン。アイスダンサー。ショースケーターを経て、現在、インストラクター兼コレオグラファー兼、管理栄養士。
そんな彼女は、自分で淹れた茶を飲んで、不味い不味いと笑っている。
「今日は腕によりをかけて歓迎のメシでも作るわね! まずはバジルとエノキダケとリンゴのスムージーで乾杯よ!」
追記。
もしかしたら彼女は、菩薩の仮面を被った鬼神。
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