真夜中のアップルパイ

尾八原ジュージ

真夜中のアップルパイ

『アップルパイ焼いちゃったから食べに来て』


 という連絡が姉のちさとからあったとき、すでに夜の八時を過ぎていた。

 それは退勤直後で、お腹は減ったけど明日は休み、金曜日の夜をどう過ごそうかなと考えていた一番楽しい時間だったのに、とたんに私の胸に嫌な予感が兆す。わざわざ「食べに来い」というだけの理由をあえて伝えてこないところが嫌だよなぁ、と思いながらも、私は実家のガレージからバイクを引っ張り出して、姉の住むマンションに向かった。

 途中でスーパーに寄ってワインを一本とチーズとクラッカーを買った。きっと今日はお泊りコースだろう。会計をしながら、私はちさとと、柴田さんのことを考える。

 柴田さん。背が高くて、ウェーブした長髪に無精ひげが似合うわりとイケメンの、糸が切れた凧みたいにフラフラした男。面食いのちさとがもう五回くらい別れてはくっつき別れてはくっつきを繰り返している。

 何でアップルパイなのかは知らないけどどうせ柴田さん絡みでしょ? などと考えながらマンションのインターホンを鳴らすと、少しして目を真っ赤にしたちさとが出迎えてくれた。ドアを開けた途端に、ふわっと甘い香りが漂ってくる。

「まゆちゃ〜ん、あのさ聞いてよ、柴田くんがね」

「はいはい。これ酒」

「ありがと〜」

 ローテーブルの上には食い散らかされて三分の二になったアップルパイと、りんご味の缶チューハイが並んでいる。ちさとのやつ、切り分けずに直接フォークを入れたと見える。もっとも幼い頃からおやつを分けっこしてきた仲でもあり、今日のところは文句は言わずにおく。

「そもそも柴田くんが持ってきたんだよ、りんご」

 ローテーブルを挟んで缶チューハイとワイングラスで乾杯してから、ちさとは徐ろに話し始める。

「うんうん」

「柴田くんち青森だから、りんごいっぱい送ってきてくれたんだって。食いきれないからアップルパイにしてよってさ、柴田くん、甘い物大好きだからそういうこと言うわけ」

「ふーん」

「だからさぁ、アップルパイ作って待ってたのよ。そしたら六時くらいかなぁ、焼いてる途中に柴田くんが来てさ、他に好きな子ができたから別れようって、そこのキッチンでいきなり」

「ぶっ」

 あまりにもいきなりなので笑ってしまった。

 私は見てもいないそのシーンを思い浮かべる。キッチンに棒立ちになったまま、ぽかんとした顔をしているちさと。無精ひげの生えた形のいい顎を居心地悪そうにぽりぽり掻いている柴田さん。漂うアップルパイの香り。やがてちさとはひとりぼっちになり、キッチンには一仕事を終えたオーブンレンジの、全く空気を読まない電子音が響き渡る。

「おめーのアップルパイだろが! ふざけんな! 食ってけよせめて!」

 ちさとが突然大きな声をあげて、ぼろぼろになったアップルパイにザクッとフォークを突き刺した。私も苦笑しながらアップルパイを一口食べた。おいしい。

 アップルパイに限らず、ちさとは料理全般が得意だ。今どき古いかもしれないけど、いい奥さんになりそうだよなぁと思うのに、人運のない面食いなので問題のある男とばかり付き合っている。

「妹よ! 酒がないぞ!」

「ワイン飲む?」

「飲む! うまいか!? アップルパイ! 柴田の持ってきたアップルパイはよ!?」

「柴田さんの持ってきたりんごで作ったアップルパイね。うん、うまいよ」

 ちさとの声が大きくなってきたら、酒がだいぶ回ってきた証拠だ。思ったとおりちさとはワインをグラス半分くらい残して、ラグの上にひっくり返ると眠ってしまった。

 私はひとりでグラスを傾ける。アップルパイは半分以上なくなって、お皿の上でますますぼろぼろになった姿を晒している。甘いものはあまり得意ではないので、私は買ってきたチーズの盛り合わせを開けて、普通にワインを飲み始める。

「……柴田くん、おかえり……」

 ちさとが寝ながらもにゃもにゃと呟く。全然吹っ切れていない。

 顔や声は似ているけれど、私とちさとはあまり共通点がない。ちさとはきれい好きで私は片付けが苦手。ちさとは文系で私は理系。たぶん姉妹でなかったら仲良くなっていないだろう。ちさとの恋愛にも共感し切れないことが多い。

 私だって恋人と別れた経験はある。でもそれはいつだって、付き合っているうちに粗が見えてきて、だんだん冷めてお互い冷めきってから破局するのだった。大好きな相手に突然去られたちさとの気持ちは、きっと今の私には理解しきれない。

 ちさとが眠ってしまったので、ひとりでワインを飲みながら、部屋にあった本を勝手に読み始めた。何年か前に出版されて話題になり、面白そうだなと思いつつもスルーしてしまったミステリー。夢中になって読み進めているうちに時間が経って、気がつくと時計は零時を指していた。

 もうこんな時間か、と驚いたそのとき、インターホンが鳴った。

「わっ」

 驚いて、思わず小さな声が出てしまう。こんな時間に一体何なんだ……と部屋の主に目をやったけれど、ちさとはスヤスヤと眠っている。

 私は立ち上がって部屋を出た。キッチンにあるモニターは、インターホンが鳴らされると自動で点灯する。その画面の中に半ば予想していた顔を見つけて、私は大きな溜息をついた。

 柴田さんである。

 長髪に細い輪郭の顔、画質の悪いインターホンの画面の中でも、ちゃんとイケメンに見えるのは大したものだ。

 まさか、戻ってきたんじゃあるまいな。

 確か別れ話をしたのが午後六時過ぎ、今は深夜零時を少し回ったところだ。そんなにすぐ「よりを戻そう」みたいなことある? と考えている間に、インターホンがもう一度鳴らされた。音量の絞り方がわからない。何度も鳴ったら、さすがのちさとも起きてしまう。

 私は思い切ってインターホンの応答ボタンを押した。糸の切れた凧のような男は、待ってましたとばかりに喋りだした。

『ちさと!? さっきはごめん、ほんと……やっぱさっきのナシ! ごめん!』

 呆れた。たった六時間で戻ってきたのか。おそらく「他の好きな子」と上手くいかなかったのだろう。その子には男を見る目がありそうだ。

 私は静まり返ったリビングに視線を向ける。それからインターホンに向き直る。なるべく話し方をちさとに似せながら、私はインターホンに話しかけた。

「帰って」

『え?』

「帰って! 二度と来んな!」

 画面の向こうの間抜け面を拝むと、私はインターホンのスイッチを切った。

 心臓がドキドキしている。

 やった。やってしまった。柴田さんは本当に、もう二度と戻ってこないかもしれない。ちさとに黙ってこんな、いくらちさとのためを思ったとしても、でも、最後に残った芽を潰すようなこんなことを。

 やってしまった。

 後ろでカチャ、とドアの開く音がした。ぎょっとして振り返ると、ちさとが顔を出していた。

「なんか声聞こえたけど、もしかして……柴田くん……だった?」

 未だインターホンの前に立っていた私は、どうしたらいいのかわからない。やっと口から出てきたのはカスカスの「……ごめん」という声だけだった。ちさとは口を半開きにしたまま私を見ていた。と、

「あははははは!!」

 深夜の集合住宅にあるまじき声で笑い始めた。

「あははは、あいつホントに戻ってきたんだ! ひどくない? 別れてた期間のダントツ最短記録だよ!」

 とっくに真っ暗になった画面に向かって、ちさとは「二度と来んな!」と怒鳴った。

 酔いの醒めかけた頭で私たちは笑った。途中で「まずい、近所迷惑」とちさとが言ったので声を殺しながら、でもまだ笑いは収まらなかった。

 もしかするとこのことで私は、後々ちさとに恨まれるかもしれない。一ヶ月後か、それとも十年後か。でも、そんなこと今は知ったこっちゃないのだ。それよりもアップルパイの残りを何とかする方が生産的でいいなと、笑いながら私は思った。

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真夜中のアップルパイ 尾八原ジュージ @zi-yon

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