第15話

柳利克が面会室に入ると、青年は立ち上がり深々と頭を下げた。

柳は、思わず目を見開いた。あの時の少年がそのまま目の前にいるような錯覚を覚えた。体はずいぶん大きくなって、もう痩せこけてはいなかったが、不安そうに佇むその姿は何も変わっていなかった。あの時、柳がホテルに置き去りにした少年。柳は溢れる涙を抑えられず蹲った。刑務官に抱えられてなんとか椅子に座り直してからも、彼は顔を上げることができなかった。罪に罪を重ねた自分。この子を身勝手に利用し、そして置き去りにし、傷付けた。本当に申し訳なかった。許してくれるとは思わないが、一言謝りたかった。しかし柳の口から出てくるのは食いしばった歯から漏れるうめき声だけだった。

「突然、日曜日なのにごめんなさい。」

少年は立ったまま言った。少年もまた、泣いていた。

昔から静かに泣く子だった。

柳はぼとぼとと机に垂れる少年の涙をアクリル越しに見ながら思った。

「どうしても、柳さんに会いたくて来ました。ご迷惑でしたらごめんなさい。」

この子は、あの時も謝ってばかりいた。何も悪いことなどしていないのに、いつも申し訳無さそうに佇んでいた。悪いことをしていたのは、自分の方だったのに。

柳は大きく息をつくと首を振って、声を絞り出した。

「自分には、泣く資格などないのに、すまんことです。私は、あんたに取り返しのつかん傷ばつけてしまった。本当に、本当に申し訳なかったとです。あんたを、自分が殺した息子の代わりにして、自分の罪から逃げたんです。途中から私は、あんたを助けたい気持ちなど消えてしまっていた。ただただ、楽しんどりました。全部、息子を殺したことも、その前に家族を守れんかったことも、全部全部無かったことにして、あんたを息子や思い込もうとして。あんたは、あんたは…

あんたはずっと息子のふりをしてくれてた。辛かったろうに。本当に…」

柳は頭を下げたまま言った。

「頭を上げてください。僕は… 僕は、あなたに助けてもらわなかったら、今頃ここにはいませんでした。僕はあなたの事を恨んだことなんて一回もありません。あなたがあの時行ってしまって、とても悲しかったのは事実です。捨てられたと思った。僕はきっとうまく息子さんのフリができなかったから、それで捨てられたと思ったんです。どこかで失敗してしまったって。

でも今はもう、捨てられたとは思っていません。最初、あなたは僕を助けたい、その一心だけで僕にあんなに良くしてくれた、それは僕にはよく分かっています。それから、あのホテルに行って、あまりにも幸福すぎて、僕らは揃って、もう失ってしまったものを取り戻したような錯覚に陥ってしまったんです。あなたの息子さんのふりをしながら、僕もあなたを亡くした父の身代わりにしていました。僕たちは一緒に幻想の世界を作り上げた、共犯だった。でも、そんなのいつまでも続くはずがない。

今では、あの時にあなたがあそこで僕を現実の世界に戻してくれたことを、どこか感謝しているんです。もしあのままずっとあの幸福な幻想の世界にいたら、僕は、僕を殺していたかもしれない。現実の世界は辛くて苦しい。僕はまだ、過去に囚われてもがいています。でも、少なくとも僕は今、この現実の世界で生きています。なんとか生きています。柳さんが僕を暴力の中から救い出してくれて、それから、幻想の世界からも呼び戻してくれた。僕は本当に、柳さんに感謝しているんです。」

柳はもう何も言えなかった。違う。自分は感謝される資格なんてない。それでも、この子が言ったことに救われている自分がいた。救われる資格なんて無いのに。それからしばらく、二人はただただ泣き続けた。涙はいつまでもいつまでも止まらなかった。10年の年月を埋めるように、二人は黙って泣き続けた。


「櫂都くん。」

と柳が言うと、櫂都は嬉しそうに泣きながら微笑んだ。

「初めて名前を呼んでくれました。」

「櫂都くん、大きくなりましたね。」

改めて見ると、彼は少年の雰囲気を残したままではあったけれど確実に大人になっていた。不安になるほどに澄んだ目はそのままだったが、そこには知性と深い洞察力が加わっていた。かつてもあった芯の強さは、さらに揺るぎのないものになっていた。

「柳さん。」

「私の名前も、初めて呼んでくれました。」

「はい。柳さん。もう一度だけ、僕を助けて頂けないでしょうか?」

「私があなたを、助ける?」

「はい。そのためにお会いして頂きに来たのです。僕はもう、これが最後だと思っているんです。」

それから彼は柳に、10年間に歩んできた道を語った。何度も、何度も這い上がっては、過去に否応なく引きずり戻されてきたこと。戦おうと気持ちを奮い立たせることが、どんどん難しくなってきていること。あの頃に感じていたのと同じような恐怖と無力感に打ちのめされそうになっていること。あの頃に味わった暴力と悪意が、今も彼を苦しめていること。どれだけ逃げても、それが自分を追いかけてくるような気がすること。

「暴力とは何なのか。僕はそれが知りたい。どこから暴力が生まれてくるのか。僕は、あの一年間ずっと、暴力とその気配の中で生きていました。それまで、そんなものが存在することも考えられなかったもの。僕は、心底怖かった。あっという間に、僕は暴力とそれに対する恐怖に支配されました。そして今でも、支配されているのです。」

そして、櫂都は真っ直ぐに柳を見つめた。

これほど強い目を持っていたのか、と柳は思った。たじろぐほどの、強い目だった。

「柳さん。柳さんは、息子さんを殺したのですね。僕はそれを知った時に、信じられない思いでした。僕の知っている柳さんは、暴力とは正反対の方でした。

柳さん、こんなことを聞くのは大変失礼な事とは分かっています。でも、僕はどうしても知りたい。なぜ、なぜ息子さんを殺したのですか?どこから、その暴力は、その、最も残酷な暴力は、生まれたのでしょうか?

僕に… 僕に、それを教えて頂けないでしょうか?」


柳は、言葉が出なかった。


それこそが、柳がこの10年考え続けた事だった。答えが出ないまま、苦しみ続けてきたことだった。暴力とは何か。なぜそれが生まれるのか。

あの時息子を差し貫いた刃は、あの時息子の命を奪った刃は、どこから来たのか。あの時妻を殺した殺意は、どこから息子に取り憑いたのか。

柳はそれを、考え続けて来た。


「私があなたにそれを教える事はできない。私自身、まだ答えを見つけていないのです。でも、一緒に考える事はできます。私の命がある限り、私はそのことを考え続けていくのですから。」


柳は、息子を殺した時の事を、毎日毎日繰り返し考えていた。あの時自分に包丁を握らせた感情は何だったのか。その瞬間のことを、毎日できるだけ克明に思い出した。それは、柳にとって身を切られるような思いのすることだった。その時の事、その時の怯えた息子の瞳、胸に包丁を突き立てられた、苦しげな息づかい。息子が最後に感じたであろう恐怖と絶望。胸から溢れ出て止められなかった血。それを思うと、柳は文字通り全身が激しく痛んだ。でも、柳は毎日できるだけ克明に思い出し、その時の自分の感情は何だったのか、何が自分を突き動かしたのか、それを考え続けていた。柳はそのことを、正直に櫂都に話した。あの時自分を突き動かし、取り返しのつかない行為に走らせたものが、激しい怒りだったのか。それとも自らが積み上げてきた物が崩されたことへの、言いようのない恐怖だったのか。それが自分でも、分からない。妻の遺体を見たとき、彼の中で何かが弾けてしまったような感覚があった。弾けてしまったものが何だったのか、理性だったのか、息子への愛情だったのか、警察官としての良心だったのか。それもわからない。だから、彼は考え続けている。


「衝動的な暴力と、恒常的な暴力は、違うのかもしれません。しかし、その根底にあるものは、同じだと自分は思っています。自分は、悠太に包丁を突き立てるずっと前から、すでに暴力に侵されていたんだと、今ではそう思います。息子を殺したその瞬間にあったのは、衝動的な怒りや恐怖だったのかもしれない。でもそのずっと前から、自分は少しづつ少しづつ、自分の箍を弛めていっていたのかも知れない。そういう意味では、私が息子に振るったのは恒常的な暴力で、あなたの伯母と従兄弟があなたに振るった暴力と、根っこのところで繋がっているのです。」


刑務官が面会時間の終了を告げた。


「また、来ても良いですか?」

櫂都が言うと柳は深く頷いた。

「手紙を書きます。また、来てください。」


二人は互いに深く一礼し、面会室を出た。

30分以上経っていた。

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罪と罰 @3372mugi

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