第14話
帰りの新幹線の車内では、2人とも無口だった。磯貝は、最後の挑戦、と言った時の櫂都の顔を思い出していた。櫂都には悲壮感はなかった。むしろ、申し訳なさそうだった。磯貝を傷つけまいとするように。患者に気遣われてちゃ世話ないな、磯貝は心の中で自嘲した。でも実のところ彼は、担当する人々を患者とはそれほど思っていなかった。彼らは、自分だったら到底耐えられないような経験をし、到底挑まないような戦いをしている。時折彼は、患者達に畏怖の念すら抱くのだった。櫂都が最後の挑戦と決めるのなら、それに異を唱える権利なんて磯貝にはなかった。
「介錯は任せろ。」
磯貝が呟くと、櫂都はしばらくその意味を推測るように磯貝を見つめ、そして呆れたように笑った。「磯貝先生って時々、患者にちょっと不謹慎な冗談を言いますよね。仕事に差し障りますよ。」
窓の外には富士山が見えた。
「いつか、武田先生と法廷で会えたら良いな。」
櫂都は窓の外の富士山を眺めながら独り言のように呟いた。
「きっとそうなるよ。」
磯貝は富士山を眺める櫂都を見ながら言った。
ゆるくウェーブのかかった色の薄い髪が櫂都の白い頬に複雑な形の影を作っていた。長い睫毛を震わせるようにしょっちゅう目を瞬く癖はまだ治っていない。一種のチックのようなものだが、磯貝は治す必要なんて無いと思っていた。瞬きくらいなんだ。生きているだけで、とてつもない事なんだ。
磯貝は彼が心の奥で守っているものの事を考えた。美しい、宝物のような両親との想い出。そして、憎しみに打ち克つ強い心。彼は、過酷な状況の中で自分の心を大切に守った。憎しみに取り憑かれないように。苦しみや悲しみ、恐怖に取り込まれないように。彼の心の中の美しいものを失わないように。
その代償がこれなのだとしたら、あんまりじゃないか。磯貝は叫び出したくなるような衝動をぐっと堪えた。
新幹線が浜松を通り過ぎる頃には、櫂都は静かに寝息を立てていた。彼が人前で無防備に眠れるという事に、磯貝は感動を覚えた。櫂都はゆっくり回復している。行きつ戻りつしながら、それでも着実に回復していた。磯貝は、溢れ出る涙を抑える事が出来なかった。初めて会った時の櫂都を思い出した。小さくて痩せこけたその少年は、世界から見放されたように怯えていた。それから何度も何度も、櫂都は絶望の底から必死で這い上がった。発作を起こした時の櫂都の打ちひしがれた瞳を思った。激しく痙攣しながら、息を吸おうと必死でもがく彼の白くて細い指を思った。それから、はにかんだように微笑む彼の笑顔も思った。ピアノを弾いてくれた後、彼はいつもそんな微笑みを浮かべた。俯いてピアノの前に座り、少し緊張した面持ちで指を見つめ、大きく息を吸うと弾き始める。磯貝は音楽には疎かったので、櫂都のピアノの腕が上手なのかどうかは分からなかった。弾いている曲の題名すら覚えられないのだ。でも、磯貝は彼のピアノの音色が好きだった。控えめな、ほとんど躊躇うような音色。でも優しく、温かい美しさがあった。ささやかなプレゼントをそっと差し出すように、彼はピアノを弾いた。その音色を思い浮かべて、磯貝は涙を流した。生きていて欲しい。磯貝が患者に対して願うのはいつも、ただそれだけだった。
武田弁護士から磯貝に手紙が届いたのは、それから3週間後の事だった。手紙には、柳さんが岡山刑務所に収監されていると書かれていた。彼女自身が面会に行き、櫂都の話を出来るだけ正確に伝えてくれたそうだ。最初、柳さんは櫂都が自分に会いたいと言っている事に驚き、躊躇いを感じたようだった。
「自分には、あの子に会う資格なんてありません。自分はあの子を利用して、傷付けた。それだけです。」
柳さんはそう言った。しかし、最後には少し考えさせて欲しいと言って、面会は終わったそうだ。そして先週末に、柳さんから手紙が届いた。櫂都が会いたいのなら、会うのも償いだと思うようになりました、と柳さんは書いてきたそうだ。
手紙は速達で送られてきた。
手紙の最後に、柳さんが進行性の病を抱えている事、そして、残された時間はそれほど多くはない事が綴られていた。
磯貝はすぐに櫂都にその手紙を見せた。
その頃の櫂都は非常に不安定な状態だった。ひどく塞ぎ込み、食事も取れない日が数日続いたかと思うと、急に明るく話し始め、なんだか全部うまくいきそうな気がすると言ったりした。夜中に何度か発作を起こし、その翌日は決まって全身の痛みに苦しんだ。磯貝は基本的には投薬に頼る治療はしない方針だったが、それでもその頃は抗うつ剤と痛み止めを処方せざるを得なかった。磯貝とのカウンセリングでも、饒舌に話していたかと思うと不意に黙り込み、泣き出してしまう事もあった。恋人とは手紙のやり取りをしているようだったが、面会を許可する事はまだできなかった。
磯貝はそんな彼にその手紙を見せるべきか、正直に言って確信が持てなかった。ただ、時間がないという武田弁護士の一言を、彼には無視できなかった。
櫂都はその手紙を時間をかけて読んだ。
そして読み終わると、助けを求めるように磯貝を見て言った。「柳さんのところに行くのに、付いてきてもらえませんか?」
もちろん、と磯貝は答えた。
岡山に向かったのは、夏を思わせる暑い日曜日だった。櫂都は黒い薄手の長袖のボタンダウンシャツを着ていて、仕切りにその襟元を握りしめた。緊張している時の彼の癖だ。シャツの襟は一番上まできちんと止められていた。彼の腕や、鎖骨から胸部にわたって今も残っている細いひきつれた傷や小さな火傷の痕を隠すために、彼はいつも、どんなに暑い日でも長袖の首が覆われた服を着ていた。
新幹線が動き出すと、彼はヘッドホンで音楽を聴いても良いかと磯貝に尋ねた。もちろん良いよ、と磯貝が答えると、ホッとしたように弱く微笑んだ。名古屋から岡山は山陽新幹線で2時間弱だった。磯貝がパソコンを使って溜まっていた雑事を片付けている間、櫂都はずっと音楽を聴いていた。新幹線が岡山駅に近づき車内メロディが流れて磯貝がパソコンを片付けるのを見て、櫂都もヘッドホンを外した。「何を聞いていたの?」と磯貝が尋ねると、櫂都はスマートフォンの画面を見せてくれた。磯貝の聞いたことのない若い日本人の男性歌手だった。「珍しいね。クラシックかと思ったよ。」と磯貝が言うと、櫂都はその歌手のことをいろいろと教えてくれた。
「歌詞が、すごく好きなんです。声も。歌詞のある曲は苦手だったんですけど、この人の曲は、とても悲しくなるのに何故かまた聴きたいって思うんです。」
櫂都はそう言うとそっと胸にスマートフォンを握った。彼にとって大切な音楽なのだろうと磯貝は思った。
岡山駅から電車に乗り換えて30分で、岡山刑務所の最寄り駅に着いた。歩いて10分足らずで刑務所の門が見えて来ると、櫂都の緊張は頂点に達した。面会は武田弁護士を通じて、刑務所長に特別に許可された。櫂都が事件被害者である事や彼の現在の状況を、武田は丁寧に刑務所長に説明してくれた。日曜日しか面会に付き添う事のできない医師の磯貝の事情も汲み取ってくれたが、何より受刑者である柳の服役態度と健康状態を鑑みての特別な措置だった。向かう道すがら、櫂都は今さらしきりにその事を気にした。
「日曜日なのに、申し訳ない事をしてしまったんじゃないでしょうか?」「柳さんは本当は日曜日に会いたくないかも知れないですね。」
何度も俯いて足を止めては呟くように言った。その度に磯貝は「大丈夫。何も心配要らないよ。」と請け合った。そんなやり取りが4、5回続いた時に、磯貝はつい吹き出してしまった。それを見て櫂都もきまり悪そうに笑い、少し気持ちがほぐれたのか、決心がついたのか、そこからは黙って歩みを進めた。面に出さないよう慎重に隠していたが、磯貝も緊張していた。これが櫂都にとって吉と出るのか凶と出るのか、五分五分のところだった。でも、彼は櫂都が自分で選んだ事を尊重したかった。そして、櫂都の本質的な強さを信じていた。いや、信じたかった。
面会室に、櫂都は1人で入って行った。
その後ろ姿はとても心細そうで、磯貝と出会ったばかりの小さな少年だった頃の彼を思い出させた。その後ろ姿を、磯貝は祈るように眺めた。お願いします。これ以上あの子が傷つくことがありませんように。あの子が何を求めているにせよ、それがきちんと与えられますように。磯貝は神を信じていなかった。いや、仏も輪廻転生も、全ての宗教を信じていなかった。でも、祈るという気持ちはよく理解できた。磯貝はいつも祈っていた。患者の話を聞きながら、その涙を見つめながら、患者に話しかけながら、どうか、これ以上酷いことがこの子に起こりませんように。どうかこの子が、生きていられますように。どうかこの子が、明日一度でも笑う事が出来ますように。
帰りの新幹線で磯貝が頼むと、櫂都はヘッドホンを磯貝に渡して彼の聞いている曲を聴かせてくれた。
『ここに、願う、願う、願う
君が朝をおそれぬように』
ああ、この子はこれを、幼かった自分に聞かせているんだな、磯貝はそう思った。朝を恐れ、冷たい床の上で1人、新聞紙にくるまって怯えながら寝ていた櫂都に。櫂都の中にはまだ、その小さな子供がいる。救い出されないまま、震えている。そしてその子を救うことができるのは、櫂都自身しかいない。そしてその事を、彼はよく分かっている。
車内販売のワゴンが通り、磯貝はヘッドホンを櫂都に返すとコーヒーを1つとアイスクリームを2つ頼んだ。
「聴かせてくれたお礼」
と言って1つ渡すと、なぜか櫂都は涙ぐんでお礼を言った。磯貝が驚いて
「え?泣くほどのアイスじゃないと思うよ。」
と言うと櫂都は恥ずかしそうに微笑んだ。
「昔、父さんと母さんと新幹線に乗った事があるんです。その時も、アイスクリームを買ってもらいました。」
磯貝も微笑みながらコーヒーを一口飲んで、思わず顔を顰めた。
「この間、東京から帰るときも、同じ顔をしてコーヒーを飲んでいましたよ。」
櫂都は呆れたように笑いながら言った。
コーヒーが大好きなのに、彼は絶対にこういう時にコーヒーを飲まない。そういうところが、櫂都は癪に触るくらい徹底していた。決して贅沢はしなかったが、きちんと豆を挽いて淹れるコーヒーや、丁寧に淹れるちゃんとしたお茶以外は飲まなかった。そうした、生活の中のほんのささやかな楽しみを、櫂都はとても大切にしていた。
その他の時は、むしろ櫂都はとても質素な生活をしていた。両親が遺したお金を、彼は非常に慎重に使っていた。大学に行く費用、一人暮らしをする頭金、病院の治療費。必要な時に惜しみはしなかったが、それでもやはり強迫観念的とも言えるくらいに倹約していた。磯貝は詳しくは知らなかったが、在学中は法律事務所で結構時給の良いバイトをしていたし、貯金は同年代の子の中では多い方だと思うが彼はいつも不安を抱えているのだろう。頼れる肉親がいない事。それは、22歳の、これから社会に出ていかなくてはいけない若い青年にとってはハードな事だ。それも、櫂都のように爆弾を抱えていたらなおさらだ。現に彼は、就職が決まった事務所に出勤できていなかった。事務所は半年待つと言ってくれているようだったが、どうなるかは分からない。磯貝は改めて、被虐待児がサバイブしていかなければいけない果てしない戦いを思った。
「また、近いうちに岡山に行きたいのですが、良いですか?今度は1人で大丈夫だと思います。」
アイスクリームを大切そうに食べながら、櫂都は言った。もちろん。そう磯貝は言った。
面会室から出てきた櫂都は、泣き腫らした目をしていた。でも、その足取りは入る時よりずっとしっかりしていて、磯貝はほっと息を吐いた。気付かぬうちに肩にずいぶん力が入っていたようだった。
良かった。
柳さんが、できるだけ長く生きてくれますように。また磯貝は胸の中で祈った。
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