第13話

武田靖子は10年前のその事件の事をよく覚えていた。国選弁護人として柳の弁護に当たった当初、武田はそれほど難しい事件にはならないと踏んでいた。柳にかけられた逮捕要件は殺人と未成年者誘拐または略取の容疑。マスコミの報道とは違い、そもそも最初から警察は柳の妻は息子によって殺されており、その息子を柳が殺したと見立てていた。そう結論付けるに足る物的証拠があったのだ。また、誘拐については被害者である少年が明確に一貫して否定しており、また監護権のある親族には虐待の容疑がかかっており、柳の身元が最初の殺人事件のあった埼玉県警に移送され、武田が担当した頃にはマスコミも柳に同情的だった。

警察は当初は身内に甘いと批判されることを恐れ厳しい態度で取り調べに臨んでいたが、いったん身柄が検察に引き渡されると警察内部でも柳に同情的な声が見られた。情状酌量の余地は多分にあり、情状証人にも事欠かない。容疑は全面的に認め、情状酌量での減刑を目指す。弁護方針はシンプルなものだった。

事を難しくしたのは柳自身だった。

彼は、身元に関する質問には素直に答え、逮捕容疑は全て認めたが、動機を含めた詳細については一切黙秘を貫いた。武田は否認黙秘の依頼人は経験した事があったが、容疑を認めたのに黙秘する依頼人は初めてだった。何が目的なのか、皆目見当もつかなかった。柳に同情的だった警察や検察も、柳が何も語らない事に苛立ち始めていた。事件について素直に洗いざらい話す、という事は、反省の意の表明と見做されることが多く、情状酌量には不可欠とも言えた。この場合黙秘は柳にとって不利にしか働かない。

武田は何度も柳を説得した。

「分かっていますか?殺人と誘拐は重罪です。このままだと無期懲役も有り得ますよ。」と言ったが、自分で言いながら武田はそれが愚問である事を分かっていた。柳は、埼玉県警捜査一課の刑事だった。それも、何度か警視総監賞を受賞した事もある優秀な刑事だったと聞く。分かっていないはずがない。でも柳は頑として黙秘を続けた。そればかりではなく、情状証人も断って欲しいと言ってきた。言ってみれば、何も仕事をさせてもらえなかった。それは、当時まだ若手の弁護士だった武田には屈辱的な事だった。

礼儀正しい態度とは裏腹にあまりに頑なな柳の姿勢は、結局裁判が始まっても同じだった。柳はまるで弁護自体を拒むように、事件の詳細も動機も語らず、誘拐に関しては寂しかったので話し相手にする為に誘拐した、と証言した。反省の意を述べる事もなく、ただただ「私は妻を死なせ、息子を殺し、あの男の子を誘拐してラブホテルに監禁しました。」とだけ繰り返した。

裁判が始まる頃には、武田は柳の目的が何となくわかってきた。この男は、なるべく重い刑を受けるように自ら仕向けている。そう考えると何もかもが辻褄があった。そう分かっても、武田はそれを受け入れることを躊躇った。弁護士として、被告により重い刑罰を課す事に手を貸す事は、彼女の弁護士としての存在意義を否定する事であった。

弁護人は依頼者の意思を代弁し、その利益を追求する。それは弁護士になった時から武田が絶対に譲れないポリシーのようなものだった。しかし時にそれは、武田自身の倫理観や良心と相反した為、その頃彼女は悩み苦しんでいた。弁護士という職業を続けていく事が難しく思えた。いつまでも独りよがりな青臭い正義感を振りかざす歳でもなくなり、しかし弁護士に良心など必要ないと開き直る程の野心を、武田は持てないでいた。柳を担当したのはそんな頃だった。

柳が望むのなら、より重い刑罰が下されるよう手を貸すべきなのか。それが被告人の望みで、利益なのだろうか。武田は最後まで分からなかった。分からないまま、頑なな柳に振り回された。でも、何が正解なのか分からないまま苦しみ、振り回され、考え続けたあの数ヶ月が、武田靖子を弁護士として大きく成長させた事は間違いないだろう。何が被告人の利益か、そして何が社会の利益か。答えは今も見つからない。彼女は今も考え続けている。あの数ヶ月の中で武田は、答えを見つけたのではなく、答えのない問いを答えが出ないまま考え続ける事を耐える覚悟を決めた。答えを出すのは簡単な事だ。善か悪か。罪か潔白か。問題を単純な二極構造にし、どちらか決めてしまう方が楽だ。答えのない問いを考え続ける事は途方がなく、そして格好が悪い。でも、考え続ける事をやめない、それが武田の弁護士としての生き方だ。それは柳と格闘する中で見つけた、彼女の指針だった。


武田は目の前の青年を見ながら、そんな10年前の事を思い出した。彼が13歳の時の顔は、裁判資料で見ていた。身体の惨たらしい傷の写真も。その後の彼の伯母による少年に対する虐待の裁判記録は、柳の裁判の際に証拠として提出していた。それは率直に言って非常に凄惨な虐待だった。伯母とその息子は、ストレスの捌け口として思うままに少年の人格を貶め、尊厳を奪い、拷問とも言えるような暴力をふるった。その証拠は、柳に有利に働くものだった。少年の証言では、家を逃げ出した少年を柳がたまたま見つけて匿った。怪我の手当てもした。全ての証言と証拠がそれを示唆していたが、しかし柳は頑としてその事実を認めなかった。

検察はいたずら目的での誘拐との疑惑を抱いていたが、柳はそれは否定した。「私は、年齢を問わず同性には性的関心を抱いていません。」柳は淡々とした口調で言った。ではなぜ少年を誘拐したのかと問われ、「話し相手が欲しかったのです。」と言った。一度だけ、柳は「息子の代わりを求めていたのです。」と言った。検察があまりに少年に対して性的いたずら、何らかの性的接触をしたのではないかとしつこく聞いた時だった。その時、武田には柳がほんの少し動揺したように見えた。それが、彼の本音だったのだろうと武田は思った。最初柳は虐待から逃げ出した少年を助けた。匿っているうちに、柳は失った息子との時間を取り戻したような気持ちになった。それで、どこまでも少年と逃げ続ける事を選んだ。そうなのだろうと、武田は思った。



「一緒にホテルにいた頃には、僕は柳さんにゆうたと呼ばれていました。」

櫂都と名乗ったその青年は、少し緊張した面持ちで話し始めた。


「それが、柳さんの息子さんなんだろうという事は、何となくその時も分かっていました。柳さんが、あ、その時は名前も知らなくて、最初は『おじさん』と呼んでいて、柳さんが僕の事をゆうたと呼び始めてからは、『父さん』と呼んでいましたが、柳さんがどうして息子さんと会えないのか、どうしてホームレスのような生活をしているか、どうして僕にあんなに親切にしてくれるのか、僕は何も分かりませんでした。

柳さんも僕に、何も聞きませんでした。名前も、どこから逃げてきたのかも。もしかしたらもう知っていたのかも知れません。柳さんは僕の事を見かけた、酷い目にあってるのを知っていると言いましたから。そして、何も聞かず、ただ、居たいだけここに居ていいと言ってくれました。それは僕にとって、本当に嬉しい言葉でした。両親を亡くしてから、僕には自分がそこに居ても良いと思える場所はありませんでしたから。傷を見ても、柳さんは何も聞かず、何も言いませんでした。ただ、濡らした布で丁寧に拭いてくれて、軟膏を塗ってくれました。僕が、自分から背中を見せる事ができたのは、後にも先にも柳さんだけです。

だから僕も、何も聞きませんでした。


あのホテルに行ったのは、僕をお風呂に入れるためでした。だんだん暑くなってきて、僕は汗疹がひどくなってきていました。


所謂ラブホテルと呼ばれるホテルで、もちろんそういうホテルに入るのは初めてでした。最初の2日位、僕はすごく興奮したのを覚えています。両親の死後初めて、心が浮き立つ日々でした。柳さんは食料品をたっぷり買ってきてくれて、それから本も買ってきてくれました。2人でテレビを観たり、トランプをしたりしました。とても楽しかった。

だからか、それからしばらくして、柳さんは僕をゆうたと呼ぶようになったんです。最初は何かの間違いかと思って聞き流しましたが、何度もそう呼ばれるうちに僕は少し怖くなりました。柳さんが、おかしくなってしまったのかと思ったんです。でも、柳さんはそれまで通り優しくて、それで、僕はそれ以上その事を考えないようにしました。きっと、柳さんには今は会えない息子さんがいるんだろうと思いました。僕が柳さんの息子さんの代わりになって、それで柳さんの淋しさが紛れるのなら、それで良いと思いました。それに、僕も柳さんの事を父さんと呼んでいるうちに、死んだ父さんと一緒にいるような気持ちになれたんです。


こんな事がいつまで続けられるのだろう、とか、お金はどうしているのだろう、とか、考えると不安になるような事はできるだけ考えないようにしていました。だから、あの日、柳さんが帰ってきて、おかえりなさいと言っても何も答えてくれなかった時、ああ、終わったんだって思いました。ついに終わったんだって。柳さんは僕の方を見ていましたが、その目に僕の姿が写ってない事はよく分かりました。しくじったんだと思いました。僕はどこかでミスをして、それで、ゆうたになりきれなかったから、だから柳さんから捨てられたんだと思いました。とても悲しかった。


いろんな事情が分かったのは、もっとずっと後でした。不意に新聞記事を見せられて、それで柳さんが息子さんを殺していた事を知りました。真っ先に思ったのは、磯貝先生は、当時僕がそれを知らないようにしてくれたんだなって事でした。こんな形で知ってしまうなんて、なんだか先生に申し訳ないような気がして、もうそれ以上その事を考えないようにしました。それに、その頃僕はもうボロボロで、何かをちゃんと考えられるような状況ではありませんでした。


そうやって、僕はいろんなことを考えないようにしてきたんです。あの家で殴られている時に、どうしてこの人達は僕を殴るのだろうとか、どうして僕は酷い扱いを受けなければいけないのだろうとか、いろんな考えが頭に浮かぶと、僕は急いで蓋をしました。何も考えず、自分はその辺の石ころだと思って、ただひたすら耐えるほうが楽だったんです。自分に心があると思うと苦しくなったから。だから、その癖がついてしまったんです。


僕は今、磯貝先生のところで入院しています。3度目の入院です。僕は、どうにかして自分の人生を取り戻したいんです。何度も何度も、もう大丈夫だ、自分の人生を生きていける、そう思った矢先に、まるで抜け目のない追跡者が逃亡奴隷を捕まえるように、元いた場所に戻されるんです。お前、なに勘違いしてるんだ?お前に自分の人生なんてないんだ、そんな身分じゃないんだ、お前はって。あの人達がそう言っているみたいに感じるんです。」


そこで青年は一息付き、冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。武田は店員を呼び、コーヒーのお代わりを3つ注文した。


「僕の背中の傷の事は、知っていますか?」

青年は武田を見て聞いた。


「裁判資料で見ました。あなたの元の養育者に対する裁判は先に結審していたので、私はその資料を取り寄せて柳さんの裁判の証拠として提出したんです。今でも覚えています。とても、酷い傷でした。」

武田はなるべく感情を抑えて言った。


「あの傷を付ける時、あの人達はいつも言ったんです。この傷は一生消えない。これでお前は一生クズでゴミの奴隷だ、って。そう言わされもしました。何度も何度もそう言われて、自分の口でも言わされて、そうすると本当にそうだって思ってくるんです。

あれは、本当に効果的な呪いでした。


どうやったら追跡者から逃れられるんだろうって、僕はこのところずっと考えているんです。いや、本当のところは、もううんざりなんです。もう逃げるのをやめてしまいたい。磯貝先生がいなかったら、僕はもうとっくの昔にやめてしまったと思います。今回も、そうです。僕はこの春に弁護士として東京で就職するはずでした。希望が見えた気がしていたんです。見えた気がした希望を失くすのは、とても辛いんです。」


そこまで言うと青年はチラリと磯貝の方を見て、しばらく躊躇った。


「実は… 実は、もう最後にしようと思うんです。僕の中で最後の挑戦なんです。これでダメだったら、もうやめようと思うんです。やめるって事が具体的に何を意味するのかは、僕にはまだ分かりません。でも、これが最後、そう決めているんです。

それで、僕は、今まで自分が考えないようにしてきた事全部を、きちんと考えてみようと思いました。僕はなぜ殴られたのか。なぜあれほどの悪意が存在するのか。人はなぜ、人に暴力をふるうのか。暴力とは何か、それは人をどこに連れて行くのか。僕の中にも、暴力的なものがあるのか。そういう事を全部。それで、答えが分かるのか、何か変わるのか、それも分かりません。でも、考えて、今まで蓋をしてきたものを全部取り出してみたら、僕は自分がもう奴隷じゃないって思えるかも知れない。そう思ったんです。

それが柳さんにお会いしたいと思った理由です。」


青年は、試験の結果を待つ生徒のような視線を武田に向けた。武田は青年を安心させるようににっこりと微笑んだ。


「よく分かりました。全部ちゃんと、柳さんに伝えます。柳さんがあなたに会うように、きっと説得してみせます。裁判資料で貴方の事を知った時、類を見ないような苛烈な虐待だという事は分かりました。でも、今日の今日まで、あなたは私にとって裁判資料の中の被害少年でしかなかった。でも今は違います。あなたは輪郭のある生身の人間です。辛い話をさせてしまって、本当に申し訳ありませんでした。あなたが自分の人生を取り戻せるように、心から祈っています。」


いつかこの青年と、法廷で会いたい。お互いに弁護士として。武田は心の底からそう願った。

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