怪奇日食編

第30話 黒昼

 サダルメリクの家の庭では、春めいた気配を感じて、チューリップが咲きはじめている。

 北風はすっかり根気をなくして、なけなしの吐息を吹かすばかり。特に、真昼の日向はあたたかく、ネブラはとうとうマフラーを外した。

 その日、ネブラとコメットは萌黄色の丘を下り、市街地へと出ていた。商店街に近づくにつれて、人々が活気づいているのがわかる。


「みんな外に出てるみたいだね。皆既日食っていうのが今日あるんでしょ? それを見るためにみんな集まってるのかな」


 きょろきょろと見回しながらそうこぼしたコメットに、ネブラが「だろうな」と返す。


「俺も日食を見るのはじめてだ。太陽の前に月が重なって見えるんだっけか。しかも、今回の継続時間は七分弱、史上最長の日食らしいぞ」


 今日の午後十二時ごろを目処に、アトランティス大陸を西から東へ横断するということで、帝国全土が日食の話題で持ちきりになっている。

 特に帝都は、太陽が月によって完全に覆われる、皆既日食が真上を通る。

 こんな好条件で見られることは滅多にないと、サダルメリクも言っていた。


「太陽の光が遮られるから、外は夕方みたいに暗くなるんだってね。すごいね、ネブラ」

「後ろに先生か、地面に膝と額をつけて、崇めろ。馬鹿弟子」

「はあい。ネブラ先生」

「崇め忘れてる」

「崇めるのは絶対なんだ」


 二人がてくてく歩いて行くと、やがて、商店街が見えてくる。

 西通りのアーケード入り口のアーチには、趣のある時計が備えつけられており、時刻はぴったり午後十二時で、ちょうど定時の鐘が鳴ったところだった。

 アーケードの前に集まった人々は、皆一様に空を見上げて、そのときを待っている。

 コメットが「もうすぐじゃない?」と立ち止まったので、ネブラも足を止める。

 今日は生憎の曇り空なので、日食がはっきり見えることはない。けれど、ふいに訪れるマジックタイムを楽しむにはじゅうぶんだった。

 そして、やがて、あたりが暗くなる。


「日食だ!」


 誰かが声を上げたのを皮切りに、そこかしこで小さな歓声が重なっていく。

 さっきまで届いていた日の光が遮られ、時計の針が一気に進んだように、あたりは暗くなった。空は緑がかった濃紺に染まり、麓ばかりが黄色と赤の絵の具を引いたように明るい。

 その光景に、コメットが小さな声で「すごい」と漏らした。隣のネブラも、「本当に夜が来たみたいだ」と目を丸めている。

 誰もが真昼の宵に歓喜していた。人はまばゆい光に感動しがちだが、薄暗闇にも魅了されることもあるのだから、不思議なものである。

 闇が明けないうちに、二人は移動を始めて、商店街の西通りを練り歩く。

 アーケードの天井には、外の光を取りこむ小窓があるが、日食により日光を遮られたいま、魔法灯が商店街を照らしている。

 夜さながらに煌々と灯るその光を見つめて、コメットははたと気づく。


「ネブラ先生。魔法灯ってどうやって光ってるの? 魔法が使われてるってことは、魔力消費だってあるってことだよね。魔法使いがずっと魔力を込めつづけるなんて大変だろうし、なにか仕掛けがあるんでしょ?」

「ああ。たしか、街の魔法灯の多くは、火硫石かりゅうせきを燃料にしてたはずだ」

「かりゅうせき……石なの?」

「鉱物性燃料だ」ネブラは思い出しながらそらんじる。「シディムの谷でしか採掘されない鉱石で、神罰による災厄の燃えかすだって言われてる。天がもたらした物質だからか、魔力の含有量も桁違いで、たった1グラムで十年は火を灯せるぜ」

「じゃあ、家にある魔法灯も火硫石かりゅうせき?」

「いや、あれはプテラ油。アンピプテラっていうドラゴンから採れる動物性油脂だな」


 プテラ油は、比較的安価で手に入りやすい、家庭用燃料である。

 ドラゴンは膨大な魔力を蓄えているため、その巨体から採取される脂肪は、魔法道具を稼働させる燃料として便利なのだ。

 魔法のありふれたアトランティス社会では、生活に溶けこんだあらゆる魔法道具の魔力源を、あらゆる魔力含有物質で補っている。


「ネブラ先生って本当に物知りだよね〜。僕がなにを質問してもすぐに答えちゃうんだから」


 そう言うコメットに、「そうでもない」と淡白に返すネブラ。謙遜でもなんでもなく、自分には学がないと思っている。

 今回の燃料のような火にまつわる知識については、いつかの悲願のために、片っ端から頭に叩きこんでいたにすぎない。

 これまでにネブラが身につけた多くは、生きるためのものではなく、復讐のためのものだ。それはきっと師の望むところではないのだろうけれど、四年前、片腕と引き換えに生きながらえた炎の中で、ネブラは、残りの人生を復讐に捧げることを心に決めたのだ。

 その破滅衝動こそが、ネブラの背骨であり、ネブラを突き動かす推進力だった。


「……お前は? 勉強、がんばってるだろ」

「僕いまね、アトランティス地図を勉強してるんだよ。大陸の地名とか、その土地の歴史とか、ちょっとずつだけど教えてもらってるの」

「ほおん」

「アトランティス帝国って広いんだねえ。まだ半分も勉強できてないよ。でも、いろいろ知ると、その場所に行きたくなっちゃうの。帝国の西部にはドラゴンが住んでるんだよね? 僕も見てみたいなあ」


 朗らかに語るコメットを、ネブラは見下ろす。

 頭一つぶんよりも下のところにある小さな頭で、様々なことを学び、知恵をつけ、新たな世界の扉を次々と開けていくのだろう。

 その姿が、ネブラの目にはまぶしく映った。

 なにかとてもかけがえのないものを見ているような気持ちになるのだ。


「……よかったな」


 そう、ネブラが小さくこぼすのを、コメットの耳が聞きつける。

 自分の言ったことの返事としては、話の辻褄が合わないような気がして、聞き間違いかしらとコメットは首を傾げる。

 そうやって二人並んで歩いているうちに、目的地の〈豆の樹〉に辿りついたのだった。


「いらっしゃいませ」


 店を訪れたコメットとネブラに気づいて、従業員の女性が声をかけてくる。そして、コメットの顔を見てすぐに「お待ちしておりました。こちらです」と奥の席へと案内した。


「コメットお嬢さま。本日のご希望は傘のオーダーメイドでお間違いありませんか?」

「はい」

「お席にカタログをご用意しておりますので、お待ちのあいだ、ぜひご覧ください」


 今日の目当ては、コメットの傘——箒に替わる、杖の新調である。

 少し前にライラが直接承ったこともあり、コメットの名前で、すでに予約は済ませていた。

 コメットたちは、豪華な刺繍を施されたカーテンの向こうまで通され、丸い黒テーブルのある部屋へと案内される。

 カラービーズの鋲飾りがお洒落なチェアに腰かけると、コメットは、なんだか自分まで上等になったような気分がする。

 しかも、今日はネブラも付き合ってくれているのだ。

 上機嫌なコメットの隣に腰かけたネブラは、テーブルの上に積まれたカタログの一冊を開く。


「これでいいだろ」

「えっ、どれどれ? ……って、ネブラ先生、この傘はっちゃい子用だってば」

「ちんちくりんにはぴったりだろうが」

「ネブラ先生はそろそろ僕が十五歳だって覚えたほうがいいよ。そんなに物知りなのに、そこは馬鹿なの?」

「言うじゃねえの」


 コメットの生意気な口にも、ネブラはそれ以上咎めることはなく、再びカタログへと視線を落とした。

 ペラペラとページをめくっていくと、晴雨兼用傘や紫外線カット効果のある傘などが出てきて、「最近の傘って高性能なんだな」とこぼす。


「僕の傘、杖にするだけじゃなくて、飛ぶこともできるんだよね?」

「ああ。落下傘だから、箒みたいには飛べないだろうが、魔力消費量は100mBマジベルもないくらいのはずだぜ」

「えっ、もしかして、僕でも浮かせられる?」

「かもな」


 コメットは途端に色めきたった。

 そこへ、うってつけのタイミングで「お待たせ。二人とも」とライラがやってくる。

 ライラがいつも見に纏う、背中が大胆に開いたドレスのような外套ローブ姿だったが、今日は細身のチェーンで裾上げをしており、中からはタイトなスラックスが覗いていて、メンズライクな着こなしだ。

 コメットはワキャッと顔を潰して感動した。


「ライラさん、ズボンも似合う!」

「ありがとう。今日は外出もあったから、歩きやすい格好で来てたの。こんなあたしも素敵でしょ?」

「うん。ライラさんは今日も素敵です」


 感嘆の息をつきながら、まるで女神さまを拝むように両手を組むコメット。

 そんなコメットに満足したライラは、コメットの向かいのチェアに腰かけ、「さて」と話を切りだす。


「二人とも、よく来てくれたわね。今日のご依頼は、コメットの杖になる傘でよろしいかしら? 傘のデザインは久々だから、あたしも腕が鳴るわ」

「こいつの背丈に合ってて、あんまり重くないやつで頼む」

「小ぶりな傘ってことね。飛空用としても考えているなら、お勧めは日傘よ」


 ライラはカタログを開き、日傘のページをコメットに見せた。

 コメットが視線を滑らせていくなか、あるとき、ドーム型の日傘に目を止める。

 緻密なレースと柔らかなフリルが、長い石突を中心に、ドレスのように広がっていた。象牙色を基調とした可憐なデザインだが、持ち手の柄の部分だけが真っ赤で、その対比が目を引いた。


「この傘かわいい」

「じゃあ、この傘をカスタマイズしていきましょうか。コメットの手に合うように、柄の太さも調整しておくわ。サイズ感以外にも、部品を変えることもできるわよ。たとえば露先とか」


 ライラはカタログのページをめくり、見本を見せる。傘の骨を滑り落ちた先で、真珠粒のような金具やクリスタルがきらめいていた。


「うーん。金色のがいいな。あっ、この星の形のやつがかわいい!」

「いいわね。傘の中棒は、この素材が軽くて丈夫でお勧めよ。肝心のパラソル部分のカスタムはどうする?」

「ライラ律に従うならなにがいいですか?」

「いい質問ね。ライラ律なら、“柄と同じリボンを石突につけて、長く垂らすわ。風に靡いても素敵よ”」


 ライラは答えながら、カタログの見開きに、魔法でデザイン案を投影する。

 カタログは羊皮紙を切り貼りしたように塗り潰され、その上で、ペン画に水彩絵の具で彩ったような、ライラの提案どおりの傘が描かれた。絵の世界で風が吹き、赤いリボンがひらひらとそよぐ。

 コメットは「いい! すっごくいい!」と手を叩いて喜んだ。

 ライラは「決まりね」と言い、カタログをパタンと閉じる。解けた魔法が黄金の砂のように舞い、棚引いて消える。

 その後、詳細を詰めるために、ライラはコメットにヒアリングをしていき、コメットの傘のイメージが膨らんでいく。

 話がまとまったところで、ライラが言った。


「即決だったから、予定より早く終わっちゃったわね。もし他に気になるものがあるなら相談に乗るけど、どうする?」


 ライラがそう言うと、コメットはむずむずと痒そうな顔をして悩みはじめた。言いだすのを躊躇っているような、コメットにしては珍しい態度だった。

 コメットが口を開くのを、ライラはゆっくりと待つ。そうしているうちに、コメットは「あのう」と本当に困り果てた顔で、縋るようにライラに言うのだ。


「……お化粧したら、顔がきれいになる?」


 すると、隣に座っていたネブラが、どこか馬鹿にしたような笑みを浮かべる。


「なんだ。お前、化粧とか、」


 最後まで言わせぬよう、ライラはネブラの口に片手を押しやり、黙らせた。いまのコメットをからかうことを許さなかったのだ。

 ライラもかつて直面したことのある、美意識の小さな芽吹きを、ライラはコメットから感じ取っている。


「そうね。化粧でできることはたくさんあるわ。でも、まずは、悩みに合わせて道具を使うことが大事よ。コメットのお悩みは?」

「僕ね、顔に星座が出てるの」

「星座?」

「ほら見て」


 コメットがムッとした顔を作って見せるので、真正面から覗きこんだライラは、その小ぶりな鼻と、血色のいい輝く頬を眺める。

 若い子の肌って唯一無二よね〜、なんてしみじみと思いながら、薄くそばかすが散っているのを見つけた。


「なるほど、たしかに星屑みたいね」

「でも、前まではこんなのなかったんです」

「日焼けしたんじゃない? 真っ白な肌だと目立っちゃうのよ。他人の目では気にならないくらいだと思うけど、消したいの?」

「消せますか?」

「結論から言えば消せるわ」ライラはパンパンと手を打ち鳴らす。「コメットにお勧めするなら、コンシーラーとクリームのどちらかね」


 ライラの手拍子が合図のように、ふよふよと浮遊するアイテムが、テーブルの上へと集まってきた。コメットに見やすいよう列を成して、コトン、コトン、とテーブルに着地する。


「ファンデーションが全体使いするものなら、コンシーラーは部分使いするものよ。気になる部分だけを隠せるの。もしかしたら素肌とのギャップで、ちょっと浮いて見えるかもしれないけど、パウダーで押さえたら目立たないはずよ」


 コンシーラーのチップを取り出して、コメットにも見せる。こういうのは説明されるよりも、実際に目にしたほうがわかりやすい。


「このリキッドをちょんちょんってつけるのよ。色は何色かあるから、コメットの肌にあったものでつけられるわよ」

「お、お化粧だ」

「ええ、お化粧よ。でも、コメットはお化粧をしたいの? それとも、そばかすを隠したいの?」

「えっと、どう違うんですか?」

「楽しむためのメイクなのか、見えなくするための努力なのか、ってことよ」ライラは続ける。「純粋にお化粧をしたいなら、もっとたくさんのアイテムを、一から紹介できるわよ。でも、そばかすを消せればなんでもいいなら、こっちのクリームがお勧め」


 ライラはもう一つのアイテムを手に取る。

 エキゾチックなラベルのついた丸い缶で、蓋を回して開けると、中にはバームのようなクリームが入っていた。


ひとりで気になるアラを帳消しに。我が〈豆の樹〉の大人気アイテム。その名も、ブラーリングミルク」


 ライラは「ちょっといいかしら」とコメットに断り、その小さな星屑たち目がけて、優しく塗りつけた。そして、手鏡を渡す。

 手鏡を受け取ったコメットは、自分の顔を覗きこみ、驚愕する。


「消えた!?」

の」ライラはにんまりと笑む。「大きな痣や濃いシミは消せないけど、そばかすくらいなら、このクリームで誤魔化せるわ。一度塗れば、六時間は魔法効果が持続する。摩擦には弱いから、あんまり触らないようにね」


 ライラの話を聞きながら、コメットはいろんな角度から、手鏡に映った自分の顔を眺める。

 あの憎き星座が完璧に消えていて、やはり、持つべきものは行きつけの〈豆の樹〉だと確信した。


「こっちにする! このクリームください!」


 嬉しそうな顔でそう言うコメットに、ライラは「用意するわね」と相槌を打つ。

 その様子を、ネブラは静かに眺めていた。

 ライラに口を封じられてから、おとなしく黙っていたものの、毎日が楽しそうなこの弟子が、鏡の中の自分の顔に悩んでいるなんて、ネブラにとっては意外も意外だった。

 ネブラの目から見ても、コメットは、大きな星のような目で、熟れた桃のような顔色で、見苦しいところが何一つない容貌だった。歯並びだって一粒一粒手ずから嵌めたみたいに揃っている。

 そもそも、美醜を判断して悩むだけの情緒が、この子供にもあったのか。

 と、そこまで考えたあたりで、ネブラは「そういえば、こいつって面食いだよな」と思い出した。

 出会い頭にライラを絶賛したように、コメットは美人の女にめっぽう弱い。

 その最たる例がミラで、近くに寄ればきらきらと音の鳴るような美少女に、コメットは一目で骨抜きになった。いまはペンパルとして、ネブラには理解できない世界観で文通している。


「お前、ミラみたいになりてえの?」

「ミラ? ミラは素敵だよね」

「それは知らんが、あいつに憧れてるんだろ。ああなりたいんじゃねえの?」

「でも、ミラはミラだもの。僕も僕のまま素敵になれたらいいな」


 たとえ自分に嫌気が差しても、自分とは違うものに憧れても、コメットは自分を見失わない。生まれながらの彗星コメットだ。

 ブラーのままでいいとは到底思えなかった、ネブラにはない自己肯定力だった。


「ネブラもネブラのまま素敵になれたらいいね」

「ぎりぎり悪口だからな。配慮とを忘れるなよ」


 そのあと、他にもいくつかの品物を見繕ったところで、コメットは満足した。

 いざお会計となったとき、ライラが気づく。


「今回のお買い物で、コメットもになるわね」

「ビーンズ?」

「我が〈豆の樹〉の特別会員さまよ。年間一定額以上のお買い上げでメンバーになれるの。ビーンズメンバーには、新作のお知らせがいち早く届いたり、過去のアイテムを購入できたり、特典が盛りだくさん」


 つまり、上位顧客への優待制度である。

 服やら靴やら箒やらをみんな〈豆の樹〉で揃えているコメットは、いつの間にかになってしまったのだ。

 というわけで、コメットは、今年の春夏の新作を掲載した冊子を手渡された。


「ふふっ。びっくりするわよ、コメット。今回はなんと、ミラにモデルをお願いしてるの」


 冊子を受け取ったコメットは、その表紙にペンパルがいるのを見て、「ウワーッ、かわいい!」とときめいた。

 これはとんでもないことだった。大好きなミラのおめかしをしている姿がたくさん載っている本を、コメットは手に入れたのだ。腰を据えてじっくり見なければ、と意気込んだ。


「じゃあ、傘のほうは、二週間くらいでできるはずだから、楽しみに待っててね」

「はい!」

「あと、ネブラ」ライラはネブラを見る。「来月の認定試験、受けるんでしょ? あんたの三角帽子もちゃんと作ってあるから、がんばってくるのよ」


 ネブラはぶっきらぼうに「わかってら」と返す。

 またいらっしゃい、とライラに見送られ、コメットとネブラは店を出た。

 買い物ができて上機嫌なコメットに、ネブラは目を眇めて言う。


「しっかし、傘だけのはずが、いろいろ買ったな、お前。靴なんて早速履き替えやがって」

「えっへへ」


 コメットは嬉しそうに自分の足元を見遣る。

 履いているのは、いつものぺたんこ靴ではなく、踵のあるブーツだ。

 前にトーラスと来たときに買うのを悩んでいたもので、まだ売っているかとライラに聞いてみたところ、たまたま在庫が残っていたのだ。しかも、シーズンの切り替え時期ということで割安で買えた。なにからなにまでついている。

 ただ、踵の高い靴なんてはじめてで、コメットは上手く歩けなかった。不安定な足で必死に歩いていると、やがて、つんのめって転ぶ。


「あてっ」

「なにしてんだ」

「この靴、歩くのむつかしいんだよう」

「お前にそんな踵の高い靴は無理だろ」

「んーん! 歩ける!」


 コメットはよたよたとふらつきながらも立ちあがり、しかし、歩きだした途端、再び尻もちをつく。


「ハッ、立てもしねえ」


 生まれたての子鹿みたいになるコメットを、ネブラは鼻で笑う。

 コメットは唇を尖らせた。背伸びして買った靴のせいで醜態を晒す自分を、さぞムカつく顔をして眺めているに違いないと、コメットはネブラを見上げて——驚く。

 意地悪なのは言葉だけだった。乾いた口角は穏やかで、あるかなきかの笑みを浮かべている。いつもは顰めてばかりの眉もなだらかだった。

 こんな表情、見たことない。


「なんだよ。足でも捻ったか」


 尻もちをついたまま、ぼんやりと見上げるコメットに、ネブラは淡白に問いかけた。

 ややあって、ネブラはハアとため息を落とす。そのまま少し屈んで、コメットに左手を差し伸べた。


「ほら」


 掴まれ、ということだ。

 コメットは瞬きをしたのち、その手にそっと自分の手を重ねた。コメットの手なんて軽く包みこめるくらい大きな手だった。

 ネブラはコメットの手を取り、そのまま引っ張りあげる。勢いよく立ちあがったコメットが「わっわっ」とつんのめりそうになると、握っていた手ごと体重を移動させ、転ばないようにフォローしてやった。


「買ってすぐ怪我するとかアホだろ」

「別に怪我してないし」

「一人じゃ立てなかったくせに」

「……これから練習する!」


 コメットはネブラに言い返す。その応酬のあいだに、いつもよりネブラの顔が近くにあることに気がついた。

 ヒールのおかげで背伸びをしているみたいになって、ネブラとの身長差が縮んだのだ。そのため、いつもよりネブラの声がよく聞こえる。


「……ふっ、へへ、ネブラ、声おっきい」

「あ? なんだ急に。いつもと変わんねえわ」


 繋いでいないほうの手を口元に遣って、コメットはくすくすと上機嫌に笑う。

 急に頬を緩めた弟子の生態が意味不明で、ネブラは目を細めて吐き捨てた。

 二人は手をほどき、魔法灯が彩る西通りを緩やかに歩きはじめる。


「でも、今日はネブラ先生が付き合ってくれてよかった。会うときいつも怒ってるから、ライラさんのこと、苦手だと思ってた」

「酔っぱらったライラはマジで無理」ネブラは顔を顰めて言った。「でも、酒の入ってないライラは、美意識を宗教にしてる以外はまともな大人だよ」

「お酒を飲んでるライラさんの言うことは、僕もたまにわかんないことある」

「だろ? ケートス先生だって、巷じゃ人格者として名の通ったおひとなのに、飲み屋じゃ危険人物として名を轟かせてる。酒が入ったってだけで、あのひとたちはろくな大人じゃなくなるんだ」

「ネブラ先生だって、昔、詩の蜜酒を飲もうとしたでしょ。碌でもない先生になるよ」

「いーや、俺ならはならないね。もし酔っぱらっても、空の酒瓶でジャグリングできるし、箒にだって乗れる」

「酔っぱらってなくてもできないじゃん」


 商店街のアーケードをくぐり抜け、薄い雲の千切れる宵空を見上げる。こんなに暗くなるなんて日食ってすごいんだな、と思いかけて、コメットは「ん?」と首を傾げる。

 振り返って、アーチの時計を見た。

 時刻は午後一時に迫ろうとしていた。

 自分たちが商店街に入ってから、つまり、日食が始まってから、一時間近く経過している。


「……なんか長くない?」

「俺も思った」


 コメットとまったく同じ思考を辿ったらしく、ネブラも呆然と空を見上げている。

 同様に、街中では、終わらない日食に訝しい顔をしている者も多い。誰も彼もがこの不可思議な現象に戸惑っているようだった。

 時計の針が一時を刻む。

 薄暗闇の真昼に、定時の鐘が鳴り響いた。






 アトランティス帝国は、環状構造の大陸すべてを国土としており、皇族の暮らす宮殿は、帝都のある中央島のちょうど真ん中に位置している。

 その宮殿におわすは、帝国史上最も長く続く現皇家、サリヴァン朝の73代目皇帝・ウヴァロヴァイト帝で、近衛星団の仕える主君だった。


「未曽有の事態である」


 宮殿の謁見の間にて、赤い絨毯が駆け登る階段の先、玉座に腰かけるウヴァロヴァイト帝が、厳かな表情を作って告げる。

 幼子ならば身震いするだろう表情だったが、この場にいるのは、皇帝に忠誠を誓う、高齢の魔法使いばかりだ。玉座から見下ろせる位置に、近衛星団の団長ルシファー、副団長シリウス、団員歴の長いフォーマルハウト、サダルメリクの四人が跪いている。

 彼らは一様に三角帽子を被り、純白の外套マントを背後に垂らしていた。宮廷魔法使いとしての正装で、皇帝に目見まみえている。

 シンと静まり返った謁見の間で、ルシファー——否、このときは実のところヘスパーである——が口を開く。


「はい、陛下。現在、帝国の全土で、太陽光の遮られた状態が続いています。特に帝都は月の影であるアンブラにすっぽりと収まった状態にございます」


 その言葉に、ウヴァロヴァイト帝はやるかたなく首を振った。悩ましげに目を閉じたことで、鋭い眼光が瞼の奥に仕舞われると、途端、こんな問題をどう解決できようかという苦悩が滲む。

 齢四十になったばかりのウヴァロヴァイト帝は、こんな不可思議に立ち会ったことがなく、頼みの綱は長寿の魔法使いたちだけだった。


「……余はこのような不測の事態にはとんと見当がつかぬ。お前たちの中に、いまと似た事件を経験した者はいるか」


 ヘスパーはフォーマルハウトに目配せした。

 フォーマルハウトは六百歳を超える魔法使いで、この場にいる団員の中では——サダルメリクを除いては—— 一番長い時を生きている。


「恐れながら申しあげますと、私もこのような事態は初めてのことであり、陛下のお役に立てる情報はございません」

「そうか」ウヴァロヴァイト帝はついと視線を遣る。「トリスメギストス。そなたはどうだ?」


 ウヴァロヴァイト帝の視線の先、玉座から少しばかり距離を置いて、かの有名な宮廷顧問——大魔法使い・トリスメギストスが、侍るように佇んでいた。

 浅黒い肌に、午後の嵐のような薄青色の髪をした、そこはかとなく少年の面影を残した男だ。深い紅の召し物に、大判の布を巻きつけたような独特の外套マントを羽織っており、いかにも魔法使いらしい大杖を携えていた。

 名前を呼ばれたトリスメギストスは、翡翠のような瞳でじっと彼方を見据え、かと思えば、黯然あんぜんと語りはじめる。


「原因についてはなにも言えませんが……私のでは、この状況は明日からも続くでしょう。日の光の届かぬ実害が現われはじめます。魔法の発達した現代の帝国は、生活のありとあらゆるものが魔法頼りとなっておりますので、ライフラインが壊滅するのも時間の問題です」

「……魔法道具の動力不足、か」

「はい。この世の魔法道具は、魔力による熱エネルギーを動力源としており、太陽光の恩恵を受けているものも少なからずあります。その供給が断たれれば、魔力を源とするすべては、正常に機能しなくなるでしょう。アンブラの中では気温も低下するため、民は熱を起こして寒さを凌ごうと、魔力エネルギーの買い占めに走るはずです」


 ウヴァロヴァイト帝は「そなたのは外れぬからな」と、それがひどく残念であるようにこぼした。


「そういえば、日食の影響により、魔法使いも力が弱まると聞いたが」

「私でしたら御心配には及びません」とトリスメギストス。「近衛星団の面々はいかがですか? 若手の魔法使いでは、魔法が上手く使えなくなる者もいるのでは」


 トリスメギストスの懸念を払拭するように、ヘスパーはしかと告げる。


「ご安心ください。陛下のおそばには、国の一大事に力を振るえぬような未熟な魔法使いなど、私を含め一人もおりません」

「その言葉を聞けてなによりだ」ウヴァロヴァイト帝が頷く。「近衛星団たる者、太陽の加護を受けずとも、魔法使いたれ。民の混乱を鎮め、余の手足となり、民に平和を齎す光となるのだ」


 星団の四人は「はっ」と揃って返事をする。

 少し間を置いて、「陛下」とトリスメギストスが口を開く。


「今回の件の調査ですが、私に一任していただけませんか」

「なにか策があるのか」

「現状、確実なことを申しあげることはできませんが、少しばかり長く生きた魔法使いとしての知恵が、解決の糸口を掴めるやもしれません」

「よい。そなたなら悪いようにはせぬだろう。好きにせよ」

「拝命いたします」


 その後、「余は議会に出る。下がれ」とウヴァロヴァイト帝が言ったために、近衛星団の四人とトリスメギストスは、謁見の間を出た。

 完全に扉が閉まったとき、トリスメギストスがヘスパーへと振り向く。


「星団長。そこのサダルメリク・ハーメルンを少しばかりお借りしても?」


 ヘスパーは「サダルメリクを?」と少し驚く。その隣のシリウスは、ダイヤモンドの目を細め、「こいつがなにか問題でも起こしましたか?」と訝しそうに問うた。


「いえ。ただ、確認したいことがございまして」トリスメギストスは静謐な目で言う。「業務に支障が出るほど時間を取るつもりはありません。よいでしょうか」

「こちらはかまいませんが……サダルメリク、いいかい?」

「大丈夫ですよ」


 ヘスパーの問いかけにサダルメリクがうなずくと、トリスメギストスは「用が済めば送り返します」と告げた。トン、と大杖で床を突き、自身とサダルメリクを空間転移させる。

 サダルメリクが瞬きをしたうちに、さっきまでは違う景色が視界に広がる。

 巨大な天球儀の中に入りこんだかのような、歯車仕掛けの機械的な部屋だ。宮廷顧問の執務室としててがわれた、別棟の最上階の一室である。

 特に目を引く天井部分は、外の薄暗い空を一望できるような巨大な硝子窓が嵌められた、豪奢な作りになっていて、宮仕えの身分の中では破格の待遇であると知れる。

 突飛な展開にもサダルメリクは驚いたふうもなく、むしろ気の抜けた様子で、腰に手を遣る。


「……で、君が強引にでも僕を連れだした理由を聞きたいんだけど?」

「仕方ないだろう。火急の事態だ。正直、僕もまだ混乱している」

「そりゃそうだ。こんなこと、僕たちが《十二星者》なんて呼ばれてた時代にだってなかったよね。キャンサー」


 サダルメリクに呼ばれ、アトランティス帝国の誇る大魔法使い——キャンサー・トリスメギストスは、ぐったりとした顔で腕を組んだ。


「過去二千年を振り返っても前代未聞だ。僕たちの引き起こした《大洪水》同様、歴史に残る大事件になるだろうな」

「二千年に一度の事件に二度も立ち会えるなんてついてるな。長生きはするものだね」

「暢気なことを。大洪水のあと、世界の復興に、僕がどれだけの時間を費やしたと思う?」


 神代と言われる大昔、この世界は《大洪水》という災害によって水に沈んだとされている。

 誰も知らないその黒幕は、たった十三人の魔法使いで、その生き残りである最後の一人が、キャンサー・トリスメギストスという男だ。

 長きにわたってサリヴァン朝に忠誠を誓い、宮廷顧問の地位により世の平和を保ってきた彼は、サリヴァン家が皇位を手に入れるよりも遥か前から、この世界で暗躍していた。


「特に最初の百年間は途方もなかった。水が引くのにも、土壌を生き返らせるのにも時間がかかって。生存者の捜索、環境調整、疫病の鎮圧……ヴィルゴや双子たちと協力できたからなんとかなったものを。そもそも、世界を水没させるなんて、貴方がとんでもないことを言いだすから」

「なにさ、僕のせい? あのころの僕一人の力で大洪水なんて起こせるわけないだろ。僕たちみんなの責任だ。君だって、最終的には沈めることに賛成したじゃないか」

「世界を均一にするという部分に納得できたから提案を呑んだんだ。僕たちの掲げた夢を、叶えられると思った」


 十二星者と呼ばれた魔法使いは、皆、たった一つの大義の下に集まった者たちだった。

 その大義を、かつての仲間であるトーラスは「公私の利益」と表現するし、サジタリアスは「平等」と呼ぶ。


」と、キャンサーが言った。「世界人口の大半は、魔法の使えない人間で占められていて、少数部族マイノリティーである魔法使いへの差別や弾圧は頻繁に起こった。争いの絶えないあの時代に、相互理解を深めることで、互いに手を取り合う社会になることを目指した」


 現在いまよりも科学技術が発達していた神代では、一切の理屈に当て嵌まらない魔法という超常現象を、未解明の脅威として恐れていた。

 そこへ立ち上がったのが、当時、特に強い力を持っていた、十三人の魔法使いだった。

 サダルメリクの表情は陰る。


「……結局、僕たちは、恐れられていたとおりのことをしでかしてしまったけどね。声が届かないことにも、戦うことにも疲れて、絶望のまま世界を滅ぼした」

「だが、結果的に、目標は達成された。大洪水のおかげで、世界は均等になった。あらゆる種族の血が混じり、言語さえ溶け合い、文化と歴史を再構築するに至った」

「言ったろう。混じってないやつもいる。人魚の原種を見つけたんだ」

「僕たちの存在を言い伝えられているのには驚いたが、貴方が対処したなら問題ないだろう。脅威になることはないはずだ」

「もしかしたら、水棲生物には原種も多く存在するのかもね。水中での繁殖なら、して悪条件じゃないでしょ」

「可能性はある。やはり、水に沈める以外のやりかたのほうが、後始末に苦労はしなかったかもな。言い出しっぺの貴方は、水没させたのに満足して、ふらっといなくなるし」

「うるさいな。感傷に浸りたかったんだよ。僕のしたかったことってこんなことだっけ、なんて思ったりしてさ。寂しい気持ちで水平線を望むのには、趣を感じないでもなかったし」

「まったく呆れる。そんなふうに無意味にだらだらと生きて。あのときの大義をどこへやったんだ」

「あるわけないよ。いまの僕なんて、破滅衝動の燃えかすでしかないんだ。やりたいこともやるべきこともない。ただのんびり生きて、身の回りが平和であることの幸福を噛み締めてる」


 キャンサーは呆れていた。その眼差しも、心なしか白翡翠のように色褪せている。

 やがて、サダルメリクまでもが呆れたように目を眇めた。


「もう若くもないのに、君はよくやるよね。狂気的なまでに地道な努力を、ちまちまちまちま。君が特に肩入れしてるこの国なんて、不気味なくらい魔法が当たり前になってる」

「まさか。まだまだ道半ばだ。都市部は理想型に近いものの、沿岸部になるに従い、整備しきれていない部分が目立つ。魔法道具の普及率だって低いままだ」


 キャンサー・トリスメギストスが、世界で最も偉大な魔法使いとされるのは、魔法理論の第一人者だからだ。

 魔力の存在を証明し、魔法変換の基礎を構築することで、にはせず、理論の成立する技術として広めた。

 また、無闇な魔法を良しとせず、法的に制限することを提唱し、帝国魔導法の制定や魔導資格ソーサライセンスの設立に大きく貢献した。

 アトランティス帝国が魔法先進国と名高いのは、自然な力学の結果でなく、どこまでも人為的な因果だ。魔法運用を危険視する声が大きくならないよう、キャンサーがパワーバランスを調整していたからこそ、帝国民は安心して魔法技術を深めることができたのだ。


「それでも、やっと平和な世界を作ることができたんだ。いまの均衡を崩すわけにはいかない。今回の怪奇事件がきっかけとなって、また魔法をめぐる暴動が起きては困る」


 キャンサーは真剣な顔つきになる。

 サダルメリクも「それには同意見だよ」ため息を一つ落とし、顎を引く。


「日食が終わらないなんて、普通じゃありえないよね。僕たちの住む惑星の衛星である月は、宇宙の物理法則に定められた公転軌道を回る。その理をじ曲げるような大事になってるってことだろう」


 その言葉に、キャンサーは首を振った。


「あれは月じゃない」


 サダルメリクが片眉を跳ねあげる。

 眇めた目がじろりと鋭く光った。


「天文家たちが、太陽から離れた距離に、月を観測した。どうやらこの問題はアトランティス帝国の上空でのみ発生しているようだ」

「この国でしか起きてない?」

「そもそも日食とは、月が太陽の前を通過することで見られる現象だ。そのため、通過の軌道帯に位置した国で観測できる。今日は近隣諸国でも日食が見られたが、それはもうらしい」


 すでに月が太陽を通過したあとであることが、別の視点で証明されているのだ。

 この部屋の天窓から見晴らせる空では、分厚い雲の切れ間で、相変わらず太陽が隠されたままになっていた。宵暮れ時で時間が止まったかのような、不思議な濃紺が広がっている。

 薄気味悪い感触が背筋を走り、夜空を眺めるサダルメリクの口から、硬い声が漏れる。


「じゃあ、あそこにのはなんだ?」


 キャンサーも深い息をつき、「それがわかれば苦労していない」とぼやいた。


「君には未来予知の才能があった。君の予見をもってしても、あれの正体はわからないの?」

「わからない。が、肉眼上、見かけの運動は日周運動にほぼ等しい。だから、天空で停止しているように見えるんだろう」

「つまり、アトランティス帝国の上空を飛行する、正体不明の物体ってわけかい」

「あれの正体を突き止めようと、帝国全土で観測者が動きだしていてな。太陽の伴星だのなんだのと、様々な憶測が飛び交っている」

「太陽に伴星がないことなんて、すでに証明されてるでしょ。アトランティス帝国でしか日食が続いてないんなら、国家転覆を目論む輩でもいるんじゃない?」


 太陽の燃焼力と超光量は、あらゆる魔力エネルギーを補っている。日常的に魔法を使ううえでは、なくてはならない存在だ。


「問題はない。僕の予見では、あの謎の物体は、一週間後に自然消滅する」

「えぇ? なにそれ?」

「純粋に魔法の効果切れだ。僕はあれを崩壊しかけた魔法物体だと仮定している。多少の混乱は生まれるが、世界が滅びるほどの害はない」

「君、余計な口を挟まれないよう、皇帝陛下に手を回していたよね? そんなに深刻な事態でないなら、なんであんなことしたんだよ」

「問題は、あれの正体はなんなのか、だ」キャンサーは硬い顔を崩さない。「何者かが、なんらかの目的で、あれを帝国の上空に放ったのだとしたら……それを突き止める必要がある。いまの安寧を保つことは、僕の領分でもある。不安要素は取り除かなければならない」


 そんなキャンサーを、サダルメリクは言いようもないものを眺める目で見つめた。

 どこか愛想を尽かしたというか、興醒めしたような面差しだ。


「……君って、サジタリアスと似てるよね」

「僕はあそこまで極端じゃないぞ」

「やりかたが違うだけで、したいことは変わらないでしょ。この前会ったけど、相変わらずだったよ、あいつ。老害だの間引くだの、千年単位で生きてる自分のこと棚に上げて、どう考えても破綻してる」

「サジタリアスも考えなしじゃない。ただ、ちょっと頭が悪いんだ。だから発言に矛盾が生じる。馬鹿が考えるとろくなことにならないことの証左だ」

「僕は平和主義なんだ。物騒なことに労力を使うつもりはないよ」

「僕だって平和主義だ。そのためなら労力を惜しまない。だが、僕の立場上、自由に動けないことも多い」


 サダルメリクは合点がいく。


「それが僕と話したかった理由か」

「日食の原因である物体を究明してくれ」

「なんで僕? 君の身代わりを用意するなりなんなり、魔法でどうこうできるだろう? 労力を惜しむなよ」

「宮廷顧問としての仕事もある。宮廷魔法使いの貴方なら、最悪、僕の差し金だと弁明すれば、表に出ても問題はない」

「お前ねえ」

「とにかく頼む。かわいい後輩の頼みだろう」

「お前もサジタリアスも、百歳くらいしか変わんないくせに、なに言ってるんだ」


 そうこうしているうちに、キャンサーは「よろしく頼んだからな」と強引に話を終わらせ、大杖で床を突いた。

 トン、と音が聞こえたときには、サダルメリクは空間転移させられていた。

 そこは星団塔の回廊で、目の前にフォーマルハウトたちがいなければ、サダルメリクは「あの野郎」と舌を打って、床を蹴りあげていたはずだ。

 突然降って湧いたサダルメリクに、フォーマルハウトはギョッとしていて、その前を歩いていたヘスパーとシリウスも「戻ってきたのか」と振り返った。


「話は終わったようですね。貴方を迎えに行くべきか、それとも待つべきか、悩んでいたところです」


 そう言って、驚いた顔をしていたフォーマルハウトが、少しばかり安堵したような表情を浮かべる。

 この日、フォーマルハウトのバディであるミルドレッドと、サダルメリクのバディであるカノープスは休みで、片割れのいない者同士が一日限りのバディを組むことは、星団ではよくあったのだ。

 サダルメリクは一つため息をついたのち、キャンサーの横暴に拗ねてもしょうがないと思いなおして、「待たせてごめん」とフォーマルハウトに返事をする。


「それにしても、トリスメギストスさまはどんな御用だったのでしょう?」

「別に、大したことじゃないよ。あのひとの趣味の話に付き合わされただけ。自分だけの箱庭を作ってお世話するのが好きなんだってさ」

「箱庭?」

「ああ、テラリウムとか?」ヘスパーが微笑んで言う。「小さな世界を瓶に閉じこめたみたいで、素敵だよね。あんなに毅然とした魔法使いなのに、意外とロマンチストな方なんだ」


 開けていない宝箱を見つけたみたいな、わくわくした笑顔を浮かべるヘスパーに、「そんなにかわいいものじゃないけどね」とサダルメリクは言った。

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