第29話 最後には星が出る

 ローレライとは、セイレーンやメロウのような海洋の人魚ではなく、河川を棲処すみかとする人魚である。

 水の精とする国もあるほどに強力な魔物で、渦を作って舟を沈めるとも、美しい歌声で人を惑わすとも言い伝えられている。

 アトランティス帝国では、蜘蛛の巣のように張り巡らされた河川を、運河として整備しており、環状水路と放射状水路が、帝都からも長く伸びている。

 ゆえに、アリアは帝都生まれ帝都育ちの人魚だった。

 河辺の町で人の身を得て育ち、魔法使いのオーケストラに憧れ、運よく才能が開花し、オーケストラの一員になるという夢を叶えた——そして、そのオーケストラの首席歌手になるという夢の叶わなかった、一人の魔法使いだった。


「……アリアがあたしのことをそんなふうに思ってただなんて、知らなかったわ」

「そりゃあ、隠してたからね」


 ピアニカの悩ましげな眉根がさらに深まる。

 それから、コメットの手を強く握った。


「なんでコメットまで連れてきたのよ」

「ごめんね。でも、その子がピアニカの手を離そうとしなかったから、連れてくるしかなくて……なんであんなところに二人でいたの?」

「ぼ、僕、どんぐり探してて」

「どんぐり?」

「それをピアニカさんが手伝ってくれたから」

「冬にどんぐりは見つからないんじゃない? 探すなら秋でなきゃ」


 コメットとピアニカは「えっ」「そうなの?」と二人して目を丸めた。

 そんなことも知らない様子に、アリアは少し困ったふうに「普通そうでしょ」と返す。

 残念ながら、この二人は、普通なんて尺度を持ち合わせてはいない。


「それで? あたしたちをこんなところに連れてきて、アリアはどういうつもり?」

「別に閉じこめておくだけのつもりだったよ。貴女がいない穴を埋める形で、私が代わりにステージに上がるつもりだったんだ。それなのに、縄もほどいて、どっか行こうとするんだもん」

「そうまでしてステージに立ちたかったの?」

「うん」


 ピアニカは強く息を呑む。

 途端、弾かれたように声を荒げた。


「だったら、言いなさいよ! 自分のほうが首席歌手にふさわしいって! コンサート前にあたしを降ろそうとしたのだって、そういうことなんでしょ! 仲間だって思ってたのに、心配するふりをして、ずっとあたしを騙して!」


 ピアニカの剣幕は、ともすれば、そのまま殴りかかりそうなほどだった。拳を握り締める代わりに、信頼していた相手の裏切りで張り裂けそうな胸元を、ぎゅっと強く掴んでいる。

 そんな、同情に値するピアニカにも、目の前のアリアは歯噛みして、口元から鋭利な牙が覗かせた。喉の奥で獰猛な唸り声を転がす。

 アリアは怒っていた。


「……ピアニカはそうだよね。そういうことを平気で言える。楽団の空気が悪くなるかもとか、マエストロを困らせるかもとか、なんにも考えずに好き勝手できるから」


 アリアがそう吐きだすたびに、彼女の身に纏わりつく水流が、ぽこぽこと気泡を立てはじめる。

 蒸発は呆気なく、破裂するように水流は破れ、霧のような水蒸気へと形を変えた。


「騙したなんて言うけど、普通、表立って相手のことを悪くは言わないでしょ」

「普通ってなに? 普通なんて嫌い」

「ほら、そういう態度。こっちは努力して馴染もうとしたってのに、貴女は最初から周りのことなんて気にも留めないかった。仲間なんて、よく言えるよ。どうせ私たちのことなんて、くだらないって、下に見てるんでしょ?」

「下に見てなんかない」

「見てるよ。この前のオーディションで、貴女が落とした彼と、私のこと、比べたよね。貴女にとって、私は、歌がちょっと上手いだけの中途半端な魔法使い?」

「違う、そんなつもりで言ったんじゃ、」

「私ならなにを言ってもにこにこ受け流すって思ってた? 歌うことしか頭にないから、私にどう思われても、興味ないんだよね。いつだって無愛想で、そのくせすぐ不機嫌になって。こっちばっか気を遣って馬鹿みたい。貴女といるの、本当に疲れる」


 アリアの声は波をくだく岩のように硬く、その一音、一字、一言がつぶてとなって、ピアニカにぶちまけられた。

 それを受け止めたピアニカは、小さく唇を噛み締め、言い合うのを諦めた。アリアの言うようなどうしようもない人間だと、ピアニカは自覚している。


「……だとしても、アニバーサリーコンサートを台無しにする理由にはならないわ」


 ピアニカがそう返すと、アリアは悲痛な表情を滲ませた。そこは追い打ちをかけるように、ピアニカは続ける。


「よくも大事なコンサートで、あんなことをしでかしてくれたわね。私どころか客まで危険に晒して、危うく死人が出るところだったのよ? あたしのことを憎むあまり、ギャラクストラのことなんてどうでもよくなった?」


 アリアは力なく首を振った。打ちのめされたような声で「本当に、こんなつもりじゃなかった」とこぼした。


「貴女が降板してくれれば、それでよかったのに……私、いつの間に、貴女を呪ってたんだろう。 せっかくの周年記念なのに、みんな見に来てくれたのに、あんなこと、私だって、望んでなかった」


 人魚は執念深いとはいえ、アリアは陸で生まれて陸で育った、人慣れした人魚なのだ。気質も穏やかで、野生の人魚のように無節操ではない。

 たしかにアリアはピアニカを恨んでいたけれど、したことといえば脅迫状を送ったくらいで、故意に危険に晒そうなどとは考えていなかった。

 けれど、人魚の怨念は、呪いに化けるのだ。

 アリアがそう望まなくとも、その恨み辛みだけで、相手に不幸を呼び寄せてしまう。


「ギャラクストラのことが大好きなのに、ピアニカが妬ましくて恨めしくて、いなくなればいいのにって、願わずにはいられない……ずっとずっと、ギャラクストラの首席歌手になるのが、私の夢だったんだよ」

「だからなに? 夢や展望があるのがそんなにえらい? あたしが遠慮しなきゃいけない理由になるとでも?」

「私はギャラクストラで歌いたいの。あそこで一番になりたいの。貴女は歌えたらなんでもいいんでしょ? だったら私に譲ってよ」


 アリアの言葉に、ピアニカは雷に撃たれたように震えた。薄荷色の瞳が陽炎のように滲み、わずかに睫毛を濡らす。


「……譲る? あたしが? なんで? むしろアリアが譲ってよ。アリアは歌以外だって、なんでも持ってるじゃない」


 充血して赤みが差しながらも、ピアニカは強くアリアを見据えていた。

 澄んだ魔力が燃えて、感情と共鳴して揺れるのが、手を繋いでいたコメットにも伝わる。

 泣いているみたいな怒りだった。

 魔力として発露したために希釈されなかったその感情は、恨み言のように吐きだすピアニカの言葉に乗る。


「家族や友達がいて、特技や趣味もあって、賢くて、五体満足で、魔法だって使えて、あたしが持ってないものを、アリアはみんな持ってる」

「私なんてただの凡人だよ。貴女と比べたら」

「そうよ、あたしはみんなとは違う。あたしには歌しかない。みんなが当たり前みたいに持ってるものを何一つ持ってない。貴女たちが普通に笑って生きてるあいだ、あたしがどんなふうに生きてきたかわかる?」


 アリアが、夢を応援してくれる家族に見守られながらすごしていたとき。おやつの時間にお手製のお菓子を振る舞っていたとき。尾鰭の代わりに得た両足で、学校へ行っていたとき。

 親に捨てられ、腹を空かせて、地べたに這いつくばっていたのがピアニカだ。


「人生を恨んではないけど、ずっとみじめでつまらなくて、その理由はたぶん、他人にはあるものがあたしにはないっていう、あたしじゃどうにもできない問題のせい。自分の出目の悪さなんてわかりきってるはずなのに、そのことがふとした瞬間、あたしをだめにする」


 アリアと対峙するピアニカの魔力が、慟哭のように震慄わななき、膨れあがった。コメットと握った手からも、それは溢れて滴り落ちる。

 やがて、ピアニカは震える喉で訴える。


「生きててなんにも楽しくないの。歌ってるときだけが幸せなの。他によりどころのある人間が、あたしの生きる邪魔をしないで」


 魔力ばかりが眩しい薄暗闇に沈黙が落ちる。

 物々しさに気圧されたアリアは、しばし言葉を失ったけれど、すぐに我に返って、ピアニカを睨みつける。


「……もういいよ。私たちは、もう取り返しがつかない。その呪いは私にだって解けない。私は貴女がいるかぎり、貴女は私がいるかぎり、絶対に」


 アリアの足下から水流が立ちのぼる。

 まるで間欠泉から噴きあがったような勢いで、激しい飛沫を撒き散らした。水は無限に湧きでて、アリアの姿を飲みこむ。

 たちまち、アリアの魔力が膨らんだ。

 ひときわ大きく波が立ち、その波が割れたとき、アリアは人の姿をしていなかった。

 彼女の髪と同じ、深海のような群青色の鱗が犇めく、艶やかな魚の尾。その鰭は、大きく広がっており、鮮やかな青と深い赤に遊色し、波打つたびにひらひらと色を変える。

 服を剥いだ体にも、群青色の鱗が生えていて、人間の耳も鋭利な鰭に変わっている。

 美しくもおぞましい人魚の姿だった。

 大きな水の塊の中で、優雅に浮遊するアリアは、ピアニカとコメットを、人ならざるまなこで見る。


「せめて一思いに死なせてあげる」


 見惚れる隙もなく、アリアが言った。

 間近に迫る魔物の覇気に、ピアニカはぞっとして、身を強張らせる。

 コメットがピアニカの前へと躍り出た。


「“紫電轟け”!」


 コメットの翳した手から、菫色の閃光が暗闇を照らして走る。

 アリアを覆う水の塊に直撃し、感電したアリアは呻き声を上げるも、大したダメージにはならない。魔物である人魚は人間よりも頑丈で、コメットの未熟な魔法では、数秒のあいだ動きを止める程度だ。

 しかし、魔法を放った瞬間、コメットはピアニカの手を取って走りだしていた。

 増水した水はこの巨大な地下水殿を浸食しており、水嵩は二人の足首まであった。それをバシャバシャと蹴散らしながら、二人はアリアから距離を取る。

 そのとき、背後から美麗な旋律が響く。

 艶のあるオケアニッシュの歌声は、先刻、意識を手放したときと同じ音色で、コメットの体は脱力する。歩みを止めたコメットに引っ張られて、ピアニカも足を纏らせた。

 このまま眠らされる、とコメットは直感し、蕩ける思考で必死に呪文を探した。


「“pppピアニッシシモ”っ!」


 アリアの歌声が、、小さくなる。

 思うように声を出せず、アリアは歌を止めた。

 途端に意識が浮上し、膝をついていたピアニカは立ちあがった。繋いだ手でコメットを引っ張りあげて、背後の様子を伺いながら逃げる。


「すごい……やるわね、コメット!」

「ううん、絶対もっといい呪文があった! たぶん、すぐに効果が切れる!」


 コメットの頭の中はぐちゃぐちゃで、心臓はばくばくと音を立てている。

 アリアはピアニカを殺す気なのだ。こんなに怖い思いをしたことは、魔弾の射手と邂逅して以来で、あのときはトーラスやサダルメリクが助けてくれたけれど、今、この場には自分たちしかいない。

 心細さに内臓が捩れて千切れそうだった。人魚に会えただなんて世迷言を抜かせるほどの情緒もない。見習いの自分の習いたての呪文で、どこまで人魚と応戦できるかわからない。本当は今すぐ泣きだしたい。

 でも、魔法使いの人魚を前にして、魔法の使えないピアニカを守れるのは、自分しかいない。

 守らなくちゃ。

 だって、僕は、ネブラの弟子だ。


「……っピアニカさん、これつけて!」


 コメットはポケットから耳栓を出した。

 その片方を自分の右耳につけながら、もう片方をピアニカへと預ける。


「アダーストーンの耳栓! 眠らされないように! 片耳ずつで、どれだけ効果があるかはわかんないけど!」


 それを受け取ったピアニカは、走りながら左耳につける。

 また歌声が響き、どろりと意識が重くなったが、足を止めるほどではない。眠気を振り切って、二人は走りつづける。

 すると、背後から濁流が迫った。

 腰まで迫る水嵩の勢いに、コメットは足を取られる。ピアニカは咄嗟に手を伸ばし、その軽い体を引き寄せたが、同じように波に飲まれ、二人は流されてしまう。


「水場は人魚のフィールドだよ。逃げられるわけないでしょ?」


 アリアはその濁流へと飛びこんで、すいすいと泳ぎ、二人のもとへと近づこうとしていた。

 やっと爪先がつくほどの濁流の波間で、コメットは必死に呪文を唱えた。


「“Agitatoアジタート”!」


 コメットとピアニカのいるところを境にして、波はうねり、押し返される。荒々しい海流に飲まれたように、アリアは押し流されていった。

 一気に水が引き、二人は地に足をつける。

 肩で息をしながら、壁のような大波が視界を塗りつぶしていくさまを見た。

 コメットは混乱していた。

 おかしい。なんでこんなに魔法が使えるの?

 コメットの魔力量は77mBマジベルで、大掛かりな魔法を使いこなせるものではない。身の危険が迫り、たがが外れてはいるものの、こんな威力の魔法をぶっ放せば、魔力切れを起こすに違いなかった。

 それなのに、魔力はみなぎる一方で、思うままに、思う以上に、コメットは魔法を使えている。


「なんで……」


 呆気に取られ、そのとき、繋いだ手を見る。

 ピアニカの手から、魔力がほとばしっていた。

——ピアニカ・ビアズリーの魔力は、星団殺しの魔力量に比肩する、千年に一人どころか、万年に一人の逸材。

 コメットはハッと息を呑んだ。

 違う、この力は、ピアニカさんの魔力だ!

 水の流れを見切ったアリアが、水面から跳ねあがった。離れたところで、コメットとピアニカの背が遠のいていくのが見える。


「そっちに逃げ場なんてないよ」


 コメットとピアニカが走りつづけると、調圧水槽の奥の立坑たてこうに辿りつく。

 縦長に伸びた巨大な穴は、地下70メートルを貫く筒状水槽で、このまま落ちれば命はない。

 けれど、コメットには予感があった。どんなことだって実現できるという予感。

 何故なら、コメットは、星と歌い、光を奏でる、異能の賢者。魔法使い。

 物理的無理なんてない。魔法使いは、三百エーカーの森を、十秒で移動できる。

 コメットはピアニカの手を強く握り、一歩踏みだした。


「ピアニカさん、僕を信じて!」


 それは呪文に似ていた。

 ピアニカは目を見開いたまま、わけもわからず、あの世に繋がっているような暗い穴へと、一歩踏みだしていた。

 落下する間際、コメットが魔法を放つ。


「“銀の川のほとりより、我が花を君に捧ぐ” —— “百万輪”!」


 刹那、花の嵐が視界を埋め尽くす。

 真っ暗闇の穴の底から、爛漫の春が噴いたように、膨大な量の鮮やかな花が現れて、コメットとピアニカの体を受け止めるクッションになる。

 もふっ、と花々に身をうずめたピアニカが、耐えきれずというふうに短い笑い声を漏らした。

 花束なんてレベルではない。まるで別世界の花畑をそのまま持ってきたみたいな絶景だ。

 立坑たてこうを占領する色とりどりの花々が、祝福するような香りを散らしていた。


「コメット、どうやってここから出る?」

「ギロの話だと、たしか、作業用の階段が!」


 コメットは立坑の中を見渡して、対面の壁面にキャットウォークがあるのを見つけた。

 ピアニカに「あそこから外に出よう!」と言い、花の中を泳ぐように踏みつけて移動する。

 やがて、アリアが追いつく。

 真下の巨大な穴に、巨万の花が敷き詰められているのを見つけて、愕然としていた。


「嘘でしょ……こんな気の遠くなるような量の花を出すなんて、見習いにできる芸当じゃない」 


 コメットは懸命に走っていたが、やがて、柔らかな花に足を取られる。このまま移動しても、じきに追いつかれると悟った。

 コメットに手を伸ばしたピアニカの手を掴む。

 そして、もう片方の手を前に翳した。


「“con motoコン・モート”!」


 花々のクッションがトランポリンに変わる。

 ピアニカの手を強く握り、コメットは笑いながら呼びかけた。


「ピアニカさん、跳ぶよ!」

「っうん!」


 ポップ、ステップ、と助走をつけて、二人は大きくジャンプをする。

 二人の体はポーンと空中に跳ねあげられた。

 鮮やかな山なりの放物線を描き、最高潮に達したあとは落ちていく。

 落下予測地点はキャットウォーク。ジグザグに折れ曲がった作業用階段の踊り場だ。

 大跳躍の勢いを殺しきれず、二人は踊り場に叩きつけられるも、そこでピアニカの身に施された“不可侵聖域オカスベカラズ”が発動し、衝撃を吸収する。

 二人はしゃがみこんだままだが、体には傷一つなかった。

 ピアニカが「コメット」と声をかけるのに、コメットは「大丈夫!」と返す。

 大丈夫、ちゃんと魔法を使える——ネブラの教えてくれたことが、僕を助けてくれる。

 振り向くと、水の塊を浮かべたアリアが、飛びこむように迫ってきていて、コメットは呪文を放つ。


「“”!」


 その瞬間、立坑たてこうに敷き詰められた花々が、一斉に、矢羽のように花弁を逆立てて、アリアへ向かって飛翔した。

 花の矢の猛攻を受けたアリアは、それを捌くのに手間取って、コメットたちから目を離す。

 そのあいだに、二人は階段を登っていく。カンカンカンと騒がしい足音を立てて、まだ遠い地上を目指した。

 コメットは息を切らしながら前を向く。

 魔法式もわからない、見よう見まねの呪文だったけれど、言葉の意味とは違うニュアンスを乗せる練習なら、スマイルフラワーで散々してきたのだ。地道な努力が、コメットの背骨になっていた。

 それでも足りないところを、ギロから学んだ知識で補う。心にはベロニカ・ジェーン・ドゥがいて、恐怖に立ち向かう勇気をくれる。

 これまで学んできたことのすべてが、コメットの小さな背中を押す。

 そのとき、ぶわっと凄まじい熱気を浴びた。

 アリアのほうを見遣ると、ドラゴンのようにうねる炎で、花の矢を焼き払っていた。

 アリアの鋭い目がコメットたちを射抜く。


「逃がさないから!」


 炎のドラゴンは、獰猛に燃え盛り、やがてコメットとピアニカに噛みつかんと迫る。


「……っ“不可侵水域侵すべからず”!」


 コメットは必死に唱え、牙を向く炎熱を盾で防いだ。目と鼻の先に、幾重もの波紋が浮かんでは沈んでいく。

 すぐさま足を動かして、攻撃から逃れようと、階段を駆けあがった。

 しかし、急ぐあまりに、段差を踏み外す。

 コメットは前のめりになって倒れこんだ。

 先を急いでいたピアニカが振り返る。


「コメット!」


 手をついてへたりこむコメットに、息を吹き返した炎のドラゴンが迫っていた。

 頭が真っ白になり、コメットの口の中であらゆる呪文が絡まる。

 ドタドタと階段から降りてくる足音も遠く、せっかくの背骨も凍りついたまま、ぎゅっと目を瞑った。

 そのとき、誰かに力強く抱きしめられる。


「——“愚者の灯火イグニス・ファトス” !」


 炎の波がドラゴンを蹴散らした。

 熱風の跳ね返ってきたアリアは、咄嗟に水の壁を厚くし、灼熱の炎を防いだ。

 コメットはなにが起きたかわからないまま、身動きも取れぬ外圧に、目を白黒とさせている。

 でも、自分を包みこむ暗い色の外套ローブには覚えがあった。嗅ぎ慣れた洗剤の匂いがする。茉莉花ジャスミンと鈴蘭と白檀。コメットの服からも同じ匂いがしている。

 顔を上げると、紫紺の髪が目に止まった。

 ネブラだった。

 応戦していたコメットと同じくらい息を切らしていて、杖腕をアリアのほうに向けたまま、左腕でコメットのことを抱きすくめている。


「ね、ネブラ……」


 コメットは呆然とその名を呼んだ。

 そんな二人を階段の踊り場から見下ろしていたピアニカは、安堵から脱力する。

 すると、ネブラと同じようにドタドタと降りてきていたラリマーが、「無事か、ピアニカ」とピアニカに駆け寄った。

 ピアニカは数瞬ばかり目を丸めたけれど、たちまちキッとめつけて、ラリマーに食ってかかる。


「っ来るのが! 遅いのよ! 馬鹿!」

「待たせたか」

「待ったわよ!」

「だが、俺の盾は役に立ったようだな」


 ピアニカはずぶ濡れで、走り疲れてへとへとで、実は義足ももう限界で、満身創痍の状態だった。

 それでも、まだこの地上で息をしているのは、コメットとラリマーのおかげだ。


「よく諦めずに持ちこたえたな」


 ラリマーが囁くように言う。

 ピアニカは震える喉で嗚咽を呑みこんだ。薄荷色の瞳を滲ませて、噛み締めるように笑って返す。


「……希望を捨てたりしないわ。最後には、星が出るから」


 階段では、コメットはネブラに抱きすくめられたままで、へにゃへにゃと額をその肩に寄せ、外套ローブの襟元を握りしめている。

 コメットはネブラの横顔を見たが、自分の外套ローブが濡れることもいとわぬまま、ネブラは腕に力をこめるだけで、目が合わない。


「……ネブラ?」


 声をかけると、ネブラは我に返ったように力を緩めて、腕の中のコメットを見た。

 見たところ、怪我はなかった。全身が水に浸かったようにずぶ濡れになっていて、柔らかい頬には髪の毛と花びらが張りついている。瞳孔の膨らんだ瞳が、心配そうにこちらを見つめる。

 ネブラは呼吸を整えながら、じっとコメットを見下ろして、やがて、口を開く。


「……無事か、馬鹿弟子」


 ネブラの声は硬かった。

 しかし、コメットはそれに気づかず、馬鹿弟子と罵られたことさえ気にも留めず、むしろ嬉しそうに破顔する。


「うん! あのね、僕ね、ネブラに教わったこと、全部できたんだよ! 覚えた魔法が役に立ったの! 僕がピアニカさんをここまで守ってきたんだ、すごいでしょ?」


 ネブラは呆気に取られた。

 ピアニカにはラリマーの“不可侵聖域オカスベカラズ”があるため、多少の攻撃ならびくともしないだろうと、ネブラは考えていた。

 むしろ、なんの防御策もないコメットの身の安全のほうが不安で、そのためにネブラは血眼になってここまで来たのだ。

 それなのに、コメットは勇敢にも戦っていたらしく、興奮気味にネブラに言う。怖い思いをしなかったわけではないだろうに、その顔はどこか誇らしげだ。

 ネブラはしばらくぽかんとしていたが、ややあってから、強張っていた肩を落として「そうかよ」とこぼした。

 ネブラがおもむろに立ちあがる。

 庇うように前へと出た、その背中を、コメットは見上げていた。


「……よくやった、コメット」


 その言葉に、コメットは嬉しくなって、大きく見開いた目を輝かせる。

 すると、ネブラの隣に、ラリマーが並んだ。


「なるほど、あれが噂の人魚か」

「つーかなんであのひと? そんなそぶりあったっけか?」

「ネブラ。アリアさんは、ローレライだって」

「淡水棲の人魚かよ、道理で帝都育ちなわけだぜ……人工河川ばっかのアトランティスじゃ、ローレライは居場所を追われて、とっくに絶滅したって話だったんだがな」


 水魔法で炎を掻き消したアリアが、ネブラとラリマーを見据え、歯噛みする。

 ピアニカを殺せばいいだけの話が、どんどん膨らんでいく。コメットがついてきただけでも最悪で、アリアの計画は狂ってしまったのに、護衛二人まで到着したのだ。

 もうどうやったって隠し通せない。致命的に自分は歌手には戻れないと理解した。


「うっ……あぁあ、ああああぁぁあぁ……」


 アリアが血反吐を吐くような声で呻く。

 やがて、ビキビキと音を立てて、美しい鱗が硬化していく。指のあいだに水掻きが現れ、爪は鋭くなり、白い歯が牙と呼べるものまで伸びる。

 それに伴って、魔力も膨らんだ。


「……アリアさん、苦しそう」

「あれが人魚の本性だ」とラリマー。「おそらく純血種だろう。人魚の血が濃ければ濃いほど、その性質は魔物に寄り、獰猛で執念深くなるものだ。むしろ、人間社会に溶けこめているほうが不思議だったんだ。その共生意識は、彼女の努力の賜物だな」


 アリアは涙を流しながらピアニカを睨みつけていて、この世で最も恨めしいと、その魔力が語っている。

 感情を抑えこむことすらできなくなっていて、ピアニカの身をぐるりと蛇が這うように、アリアの魔力が絡みつく。

 ぞくり、とピアニカも肩を震わせた。


「ずるい……ずるいずるい、ピアニカばっかりずるい、私だって、私だってがんばって、ここまできたのに……!」


 アリアが絶叫のような鳴き声を上げる。

 アダーストーンの耳栓も、イヤリングも、結界魔法も突き抜けるような、容赦のない悲鳴で、耳を塞いでも酩酊を覚えるほどだ。

 やがて、アリアの周りで、真っ白い氷柱つららのような棘が、いくつも形成されていく。それは霞のような煙を帯びていて、その際立つ冷気が伝わってくる。

 ネブラはそれを眺め、目を眇めた。


「……あー、クソ、魔法式が読み取れねえ」

「相手は人魚だからな。人間には聞き取れない周波数で呪文を唱えているんだろう」

「人間のときより魔力量も増えてるし。これだから人魚の相手は嫌なんだよ」


 アリアの目がギラリとピアニカを射抜く。

 形成された真っ白い切っ先が、流星群のように襲いかかってきた。

 ネブラは杖腕を構え、口を開く。


「“愚者のイグニス、 」

「だめっ!」


 そこで、コメットがネブラにしがみつき、呪文詠唱の邪魔をする。

 咄嗟にラリマーが「“不可侵聖域オカスベカラズ”」と唱え、四人を覆う結界を張った。

 大量の棘が結界に降り注ぎ、いくつもの波紋が視界を覆うなか、ネブラはコメットにブチギレていた。


「ついに気違えたか馬鹿弟子! てめえがそんなに死にたいとはなァ! 人魚に殺されるくれえなら、俺が息の根を止めてやろうかァアン!?」

「炎はやめよ! あれ、ドライアイスだよ!」

「ドライアイスぅ?」

「たぶん、さっきの燃焼で発生した二酸化炭素を凍らせてできたの。炎ばっかり使ってちゃ、きりがないよ」

「は? んん?」

「それに、連発してたら、僕たち酸素不足になっちゃうかも。地上に出るまで、炎いっぱいの魔法は控えたほうがいいと思う!」

「お、おお……」


 馬鹿弟子からインテリジェンスなことを言われて、ネブラはたいそう混乱した。この弟子、から始まってで終わるアレではなかったのか。自分の知らないあいだに、ギロはどこまで授業を進めているのか。

 すると、話を聞いていたラリマーが「なるほどな」と勝気な笑みを浮かべる。その笑みのまま、ネブラの前に出た。


「ネブラ、お前は引っこんでいろ」

「はあ?」

「無尽蔵に炎を乱発するお前の魔法は、この状況と相性が悪いということだろう? いまのお前はうるさいだけの無用の長物だ」

「はあ!?!?」

「ふん。ここは俺に任せておけ」ラリマーは宝飾短剣を抜く。「俺の魔法はトリスメギストス仕込みだぞ」


 攻撃が止み、“不可侵聖域オカスベカラズ”も解ける。

 すると、結界に衝突して砕けた破片が、アリアのそばで独りでに集まり、触れるものすべてを凍てつかせるような、真っ白い大槍へと変貌した。

 かつてのラリマーであれば、この大きさの物理攻撃となると、盾を多重展開してやっと防げる程度で、それにも多くの魔力を消費せねばならなかった。

 しかし、いまのラリマーは余裕の表情だ。宝飾短剣を握った右腕を引き、左手を翳すようにして、剣先へと添える。

 やがて、その槍がおおゆみにかけられたようにはじきだされ、豪速で迫りくるのを、ラリマーは狙いを定めて迎え討つ。


「“不可侵聖域オカスベカラズ”・“圧縮スペッツァート”」


 直方体の結界が、槍を囲いこんだかと思えば、一瞬で収縮し、内部を圧潰あっかいした。

 呆気なく粉砕された槍は、エネルギーが解放されたと同時に破裂し、ダイヤモンドダストのように粉塵が舞う。

 ネブラは呆気に取られ、目を見開かせる。

 アリアも息を呑んだ。きらめく粒子の向こうで、ラリマーの涼しげな顔が笑みを浮かべているのが見えた。不吉なものを感じて、警戒態勢を取る。

 ラリマーは、構えていた宝飾短剣を振るうようにして、アリアへと向けた。


「“不可侵聖域オカスベカラズ”」


 再びラリマーが唱えると、アリアを覆うような結界が発現した。アリアはそれを間一髪で避けるも、かわした先にも結界が展開し、さらにそれを躱した先にと、いたちごっこが始まる。

 増殖するように展開された結界の一つ一つは、水流で薙ぎ払えば破壊できるほどの強度だが、いくら壊しても際限なく湧いて出て、アリアは徐々にいなしきれなくなる。


「この……!」


 アリアも負けじと水流を放つ。

 速さも鋭さも、当たれば人間の身を容易く裂くような威力だったが、ラリマーに直撃する手前で、自律展開した“不可侵聖域オカスベカラズ”に阻まれる。

 その間も、ラリマーは眉一つ動かさず、冷静にアリアの隙を伺っていて——やがて、結界がアリアを捕らえた。

 その瞬間、アリアを閉じこめた結界に覆い被さるように、幾層にも結界が展開される。多重の結界が入れ子構造になって構築され、アリアを捕縛する檻になる


「“圧縮スペッツァート”」


 ラリマーがそう唱えると、多重結界は、アリアを押し潰すぎりぎりまで収縮した。

 たとえ一枚一枚が脆い盾でも、重ねれば、強度は本来のそれと同等になる。ラリマーの結界は、相手を抑えこむ壁となり、その身動きを完全に封じた。


「ちなみに、内部の音を外部に通さない。お前がどんな魔法を唱えても、俺たちには届かないぞ。大人しくそうしているんだな」


 アリアが牙を剥いてラリマーを睨みつけるも、結界の向こうの声は一切聞こえてこない。

 今のアリアは、狭い水槽に押しこめられた、哀れな人魚だった。

 ネブラはそれを呆然と眺める。

 記譜式呪文“spezzatoスペッツァート”による結界収縮。強度を下げて魔力消費量を抑えることで、複数の結界を一斉に構築——小技ではあるが、結界の特性を活かす、洗練された魔法応用だ。

 本来の防御としての用途以外に、結界内に閉じこめた物質の破壊、対象の捕獲もでき、確実に利便性は増している。

 トリスメギストスの入れ知恵とはいえ、ラリマーの魔法は目覚ましく進歩した。憎たらしいまでに。

 というか、どんどん盾の魔法が強力になっていくのは、ネブラにとっては面白くなかった。

 勝手に防御力を上げてんじゃねえよ。こいつ、俺がいつか殺してやろうとしているのを察してるんじゃあるまいな。ちゃんと火をつけたら燃えてくれるんだろうな。


「……ねえ。これって、こっちの声はアリアに聞こえるの?」


 やがて、ピアニカが口を開いた。

 静かな目で、宙に浮かぶ結界の中のアリアを、じっと見つめている。

 ラリマーは目を瞬かせた。


「ああ。聞こえるぞ。あくまで一方的な遮断だからな。警察に突きだす前に罵ってやりたいならいまのうちだ」

「気が済むまで吐いちまえ。それとも、こんなこともあろうかとフライパンの一つでも持って来てるか?」


 そんなことを言う二人に、コメットは愕然として、外道を見る目をしている。実はもう一人外道がいたことを知らないので。

 ただし、今のピアニカは外道ではなくて、階段の踊り場の手すりまで近づき、アリアを見上げて言う。


「……アリア。オーディションでのこと、あたしは、貴女を下に見てるから、あんなふうに言ったんじゃないの。貴女は、」


 そこで、一度、口を噤む。

 その先に続くだろう言葉は、きっと悪いものではないはずなのに、ピアニカはそれを声に出すのを躊躇っている。

 そんなピアニカの姿がひどく不器用に見えたので、言い慣れていないからだと、コメットは直感した。

 ピアニカが敬意を払うのは、創造主とアステリア・ワイエスだけだ。それ以外のものへの賛辞なんて、滅多に口にしない。

 だから、仲間であるアリアにも、今日まで伝えられなかったのだ。


「貴女の声は、艶があって、よく通って、とても綺麗で、そんな貴女の歌も、貴女が唱える魔法も、素晴らしかったから……だから、貴女くらい歌か魔法に優れたひとが楽団に来てくれたらって、そう思って言ったのよ」


 紡ぐ思いの一つ一つがアリアにまっすぐに届くよう、ピアニカは繊細に言葉を選び、伝えようとしていた。

 けれど、最後まで、伝わることはなかった。

 結界の中にいるアリアは、手すりに身を寄せてきたピアニカを見て、威嚇するように牙を剥けている。長い爪が結界を引っ掻いては、ろくに傷もつけられずに滑っていく。


「正気を失っているな」ラリマーが言う。「気がたかぶったことで、人魚の性質に呑まれたんだろう。おそらく、お前の言葉もまともに聞き取れていない」

「……そう」


 小さく呟いたきり、ピアニカは俯くだけで、なにも言わなかった。

 そんなピアニカの背中を、コメットもなにも言わず静かに、けれど、もどかしそうな表情で見つめていた。

 やがて、ネブラがため息混じりに口を開く。


「あー……マジで疲れた。二人揃って拉致られるとか勘弁しろよ」

「そういえば、よく僕たちがここにいるってわかったね。ネブラ」

「ネブラ先生な」

「四回も見逃してくれたのに?」


 ラリマーは「ネブラは本当に大変だったんだぞ」と言い、珍しくネブラの味方をした。


「お前たちの魔力と、魔法の痕跡を辿りながら、あちこち駆け回ってやっと見つけたんだ」

「こいつの魔力探知はになんねえしよ。お前らも勝手に出歩くなよ。おかげでこっちは必死こいて探したわ」

「なんで二人で出歩いたんだ」

「ごめんね。僕がどんぐりを探してるのを、ピアニカさんが手伝ってくれてたの」

「どんぐりぃ?」


 ネブラが目を眇めて言った。

 そこで、コメットは思い出したような顔で、ラリマーに告げる。


「あ、そうだ。ラリマーさん。どんぐりって、秋じゃないと見つからないんだって」

「やっと気づいたのか」

「えっ?」






 その後、アリアは警察に引き渡され、二日目のアニバーサリーコンサートは、三十分遅れで開演された。

 直前に次席歌手の降板が告知され、観客は動揺していたが、混乱を避けるため、ギャラクストラは、あえて詳細の公表を伏せている。

 次席歌手を欠いた曲は、華のない物寂しさを感じさせたものの、アリアのソロをピアニカが担当したことは、一日目も通ったファンには真新しい印象を与えた。

 特にアリアのファンからは「歌いかたをアリアに寄せていて、彼女へのリスペクトを感じる」と絶賛されていた。

 ピアニカがなにを思ってそう歌ったのか、彼女は多くを語らないため、きっと誰にもわからない。

 ギャラクストラは、三日間のアニバーサリーコンサートを終えたのちに、アリアの除籍を正式に発表するつもりだ。

 ただ、事を荒立てたくないというのがピアニカの意向で、アリアの犯したことについては公表を控える予定でいる。

 しかし、有名な管弦声楽団の若き次席歌手のスキャンダルとあっては、いずれ報道されることは避けられないだろうというのが、ナイトフォードとラスタバンの見解だった。

 迎えたアニバーサリーコンサートの最終日。

 ギャラクストラの二百周年記念は、華やかなグランドフィナーレで幕を閉じる。

 サダルメリク、ネブラ、コメットの三人は、すっかり慣れたボックス席で、ピアニカの歌声とオーケストラの演奏を聞く。

 舞台袖にはラリマーが待機していて、初日のような事故が起こらないよう、目を光らせていた。


「結局、ピアニカさんにかかった呪いは解けなかったんだよね……」


 コメットは物憂げな顔で小さくこぼした。

 それに気づいたサダルメリクが、少しだけ眉を下げて答える。


「魔法ではなく怨念による呪いだからね。魔法式なんてあってないようなものだし、どう作用するかわからなくて、力ずくで解くのも危険なんだよ。でも、特別な手順を踏めば、あの類の呪いなら解けるよ」

「そっか。よかった」

「はー。最後まで厄介な依頼だったな。あいつの護衛も今日で終わりだろ。やっと肩の荷が降りる」


 ネブラはうんざりしたように言ったが、そこに皮肉の色はなかった。

 いくらサダルメリクから任された仕事とはいえ、今回の事件は、ネブラにとって、自分の手に余るような危機の連続だった。

 運よくラリマーが乗っかってきたからなんとかなったものを、犯人の正体は人魚で、護衛対象は呪われていて、おまけにコメットも誘拐されてと、散々な目に遭っている。

 ネブラが何度「もう勘弁してくれ〜」と頭を掻き毟ったかわからないし、そのせいで癖毛がちょっと縮れた気がする。

 サダルメリクはくすっと苦笑し、隣の席のネブラへと身を寄せた。


「君は本当によくやったよ。本物の人魚の気配は覚えられた?」

「匂いでわかるようになったかも」

「魔力探知もずいぶんと精度が上がったようだね。この調子なら、僕も気兼ねなく推薦状が書けそうだよ」


 魔導資格ソーサライセンスの認定試験を受けるためには、二等級以上の魔法使いの推薦が必要なのだ。

 春の認定試験まで、残りおよそ一ヶ月。

 サダルメリクとしては、提示した三つの条件を、ネブラにはクリアしていてもらいたかった。


「君が五等級を取得できるのは確定として、飛び級でどこまでいけるかだね。魔法解析の腕も上げたし、あとは結びフィーネだけかな」

「ラリマーは上級魔法を習得してる」

「そうだね。でも、彼はすでに結びフィーネをクリアしていたから」


 つまり、ネブラは出会ったときからラリマーに負けていたことになる。

 ネブラの全部はラリマーに勝ち目などないので、せめて人間性と魔法くらいは勝っておきたかった。


「大丈夫。心配しなくとも、君の魔法の先生は僕だよ。彼を優に超える魔法使いにしてあげる」


 サダルメリクは穏やかに微笑んでいたが、それが本気だとわかるような口ぶりだった。

 ネブラはサダルメリクをじっと見つめる。


「ラリマーは大魔法使いトリスメギストスから魔法を教わってる」

「うーん。優しくてかっこいい魔法使いサダルメリク・ハーメルンで許してよ」


 グランドフィナーレは最高潮を迎え、ステージの上でピアニカが絶唱を披露する。

 きっとこの曲が終われば、スタンディングオベーションで公演は終わる。

 長くて短いようなこのひと月だったな、なんて、サダルメリクが思っていると、


「ごめん、先生。余計なこと言った」


 隣のネブラが気まずそうにこぼした。

 どこか気難しい、口を引き縛ったような顔をしていて、怒っているように見えるけれど、それはきっと自分に対してだ。

 サダルメリクはそんなネブラの横顔を見る。


「俺の先生はトリスメギストスじゃなくていい。サダルメリク・ハーメルンがいい」


 そんなことを言われて、口元が綻ぶ。

——本当にかわいいな、この弟子は。

 思わず肩が震え、サダルメリクは口元を押さえながら、それをこらえる。

 あんまり気分がよくなったので、ふと、ずっとネブラに訊きたかったことを尋ねてみた。


「僕は君に余計なことをしなかった? 君を連れだして弟子にして、君に広い世界を教えたことで、みじめな思いはしなかった?」


 この師がやたらと機嫌よく笑ってやがるな、と思ったら、出し抜けにそんなことを聞かれて、ネブラはびっくりした。

 サダルメリクのエメラルドの瞳は、茶化しているふうでもなくて、けれど、まさかサダルメリクがそんなことをうれいていようとは、ネブラは想像もしていなかった。


「そんなことない。ずっと感謝してる」


 それは口を突くようにすんなりと出た。

 すんなりと出たくせに、ネブラはそれを今まで口にしていなかったことに気がついた。


「俺をネブラにしてくれた……俺のもやがかったような人生の晴れ間は、先生だった」


 だから、サダルメリクに届くように、ネブラは言葉を重ねた。

 サダルメリクは目をみはってそれを聞いた。

 感じ入るような間のあと、やがて、サダルメリクの口角は緩やかに吊りあがり、綺麗な笑みへと変わる。

 オーケストラの音色は、ひときわ高らかに響きわたる。きらきらと音の一粒一粒が輝きを放つ、夢のような一瞬だった。

 ピアニカの歌声は魂を揺さぶるほどで、その衝撃に、最前席の客は涙を流しながら、泡を吹いて倒れた。ギャラクストラは楽団の存続をかけて、このことを揉み消すに違いなかった。

 胸が高鳴って眠れないほどの余韻を落として、グランドフィナーレは終焉する。

 割れるような喝采と、オペラハウスを揺らすほどの称賛の声を浴びて、ピアニカとナイトフォードが揃って挨拶をした。

 ボックス席からも拍手を送っていると、サダルメリクが「先に帰ってて」と言って、席を立つ。


「大先生、楽屋に行くんですか?」

「ううん。実はちょっと仕事が入っててね」

「近衛星団の仕事? 有給休暇じゃねえの?」

「宮廷魔法使いなんだから、そんなにたくさんは休めないよ。まあ、そんなに遅くはならないと思うんだけど、君たちを待たせることになるから」


 コメットが「行ってらっしゃ〜い!」とにこにこ見送ってくれるので、サダルメリクも小さく微笑む。

 まだ観客の誰も席を立たないオペラハウスを出て、箒を飛ばして向かったのは、アリアの身柄を拘束した留置施設だった。

 サダルメリクは指を鳴らし、近衛星団の制服を身に纏う。純白の三角帽子と外套マントは、宮廷魔法使いとしての身分証だ。

 アリアの拘束する部屋へと案内されたサダルメリクは、背後で扉の閉まる音を聞いた。

 目の前のアリアは、人の姿に戻っており、手足を縛られたまま、力なく宙を見つめていた。か細く『大輪の銀河』を口遊くちずさんでいる。

 人払いは済ませていて、部屋にはアリアとサダルメリクがいるのみ、他の人間は窓硝子の向こうから二人を眺めていた。

 やがて、サダルメリクがアリアに声をかける。


「アニバーサリーコンサートは終わったよ。君を惜しむ声もあったのに、残念だよ。アリア」

「……傷口に塩を塗りに来たんですか? 覿面てきめんですよ。私は潮水には弱いので」


 アリアが気怠げな声で答えた。その目はサダルメリクを見ておらず、まだぼんやりとしたままだった。


「僕がなんでここに来たか、わかる?」

「呪いを解くためだって聞いてます。私にもどうにもできないものを片づけちゃうなんて、すごいですね。いったいどんな魔法です?」

「忘却魔法だよ」


 アリアの顔が引き攣った。

 そこでやっとサダルメリクのほうを見遣る。


「今回の事例は特殊だからね。憎しみがそのまま呪いに転じて、制御できない。呪いの効果が強すぎて、対象には命の危険すら伴い、一刻を争う。特例威力行使Ⅱ類に該当するとして、忘却魔法の使用許可が下りている」


 他者の人権を侵害するとして、使用を制限されている魔法や薬がある。たとえば、読心術や自白剤、洗脳魔法や忘却魔法などの、精神や思考に干渉する類のものだ。

 これらは、たとえ罪人に対しても、容易に使うことは許されず、特に忘却魔法ともなると、よっぽどのことがないかぎりは使用許可が下りない。

 つまり、それだけアリアの呪いが強固で、解呪の難しいものだということだ。


「君の中にピアニカ・ビアズリーがいるかぎり、君は彼女を呪いつづける。呪いの根本を断つには、君の中の彼女を消すしかないんだよね」

「……ピアニカのことを忘れる?」

「嫌かい?」

「どう、でしょう。忘れたほうがお互いにいいような気も、全部忘れるにはもったいないような気もします」


 サダルメリクの目から見て、アリアはすっかり冷静だった。自分の罪を受け入れていて、自分を客観視することもできている。ギャラクストラでバランサーをしていた、視野の広く、聡明な彼女の姿だ。

 しかし、その本質は人魚だ。


「ここは防音室なんだ」

「うん?」

「君にかける魔法が他のひとにも作用しないように、音が届かないようにできてる。窓硝子の向こうには、僕の声も君の声も聞こえない。そこで聞きたいんだけど」

「はい」

「君、現代の人魚しては強すぎるね」

「そうですか?」


 アリアは困惑していた。

 褒められたような、そうでないような、どこか落ち着かない胡乱な目で、サダルメリクを見ている。


「ローレライが珍しいんじゃないですか? 水路のために河川を整備されて、私たちの祖先はみんな陸に上がらなきゃいけなくなったって聞きましたよ」

「やっぱり、陸で人魚のコミュニティーを作ってたって話は本当だったんだ。絶滅したなんて言われてるけど、人間よりよっぽど生命力の強い人魚なら、しぶとく生き残ると思ってたんだよ」

「そうですね。変身薬で人間に紛れこんで生活してます。大概は水辺の町に住みますし、排外的な田舎では、人魚だらけの町もあったりしますよ」

「君のご両親も人魚なの?」

「はい。私の祖父母も、そのまた祖父母も、人魚の家系ですよ」

「純血の人魚か。コメットから聞いたよ、空間転移魔法まで使ったんだって? それで魔導資格ソーサライセンスは五等級? 上手く隠したなあ。やっぱり、純血の魔物は、人間の規格には収まらないよね」

「この姿の私は、本当に五等級の魔法使いでしかないですよ。嘘をついたわけではありません」

「別に責めてはいないよ。ただ、君が純血の人魚だったとしても、やっぱり腑に落ちないんだよね。現代の純血種って、本当の純血種じゃないから」


 アリアは眉を顰めた。

 いよいよサダルメリクがなにを言いたいのか、わからなくなってきたためだ。


「有名な《大洪水》で世界が水没したあと、生き物たちがどうなったのか、君も習ったかい?」

「そりゃあ習いますよ。海や空の生物は、環境に適応して進化した。セイレーンに羽が生えたのもそれが原因ですよね。いろんな種族が交配して、水浸しの世界を生き延びたんでしょう」

「うん。サジタリアスは真水で沈めることにこだわったんだけど、海水を真水で割ったって、塩気は抜けなくてさ、結局、川も海も氾濫したから、わけわかんなくなっちゃったんだよね」

「……?」

「淡水棲の魔物たちは大変だったと思うよ。そこで大概は絶滅しちゃったんだと思ってた。ローレライに限らず、現代の生物の多くは、他の種族との交わりで、純血種は根絶してるはずだった。純血種のまま生きているのは、精々、空を制していたドラゴンたちと、高台にいた巨人族。あとは、箒で空を飛べた魔法族の原種かな」

「…………?」

「君の祖父母やそのまた祖父母も生まれる前、人間はね、まったく魔力を持たないと、生まれながらに魔法を使えるに分かれていたんだよ。いまは誰でも少量の魔力を持って生まれるのが当たり前だけど、大昔はそうじゃなかった。《大洪水》のおかげで異種族が混ざり合って、不気味なほどに均された、現代の状態に落ち着いた」


 なんだかよくわからない話をされている。

 アリアは目を白黒させていたけれど、サダルメリクから異様な雰囲気を感じはじめる。

 サダルメリクは近衛星団に所属する二等級の魔法使いで、自分より遥かに強い。そんなことはわかりきっていたはずなのに、今、そんな彼から、味わったことのない魔力圧を感じる。

 こんなに穏やかなのに、ひどく落ち着かなくて、サダルメリクの背後には大海が広がっているような気配がした。まるで神様と話しているみたいだった。

 そのとき、微笑むサダルメリクと目が合って、アリアは無意識のうちに、唾をゴクッと飲みこんでいた。


「僕が言いたいのはね、君はそんじょそこらのローレライとは訳が違うってこと。ただの怨念が呪いに化けるなんて、今時ありえないでしょ。それに、魔物としての生存本能は衰えていないようだしね。君、ずっと僕のことを警戒していたでしょ? 事あるごとに、僕の動向をネブラに確認していた。そのくせ、社交的な君が、自分から僕に話しかけることはなかった。勘が鋭いね」

「……貴方、なんなの」

「僕のことはいいよ。君がなんなのか話そう。君は、君の血筋は、神代から同族交配によりその純血を守ってきた、ローレライの原種だ。ピアニカ・ビアズリーにこびりついた君の魔力を見たときは、半信半疑だったよ。まさかまだ生き残ってるなんて、って」


 ネブラに気づけるわけがない、とサダルメリクが断言したのもそのためだ。

 アトランティス帝国ではローレライを見かけないうえ、現代種とは魔力波形も違う古代種ときている。

 なにも知らずにこの世界を生きるアリアは、さながら生きた化石だ。

 それが、ピアニカ・ビアズリーを呪っていたものの正体だった。


「生命力を侮っちゃだめだね。偶然の産物だったとしても、世界の寓意かな。君、サジタリアスやトーラスに見つかっちゃだめだよ。前者なら老害だって言われるし、後者なら薬材にされるから」


 腕を組んだサダルメリクが感慨深そうな笑みを浮かべていると、逡巡、アリアが口を開いた。


「……私たちの一族がくちてに残してきた言葉があります。


 サダルメリクの笑みが固まる。

 エメラルドの目をぱちぱちと瞬かせた。


「十二人の神様から逃げなさい。何故なら、とても恐ろしい神様だから。彼らの名は——乙女座ヴィルゴ山羊座カプリコーン双子座ポルクス魚座パイシース牡羊座エリース蠍座スコーピウス獅子座リオ天秤座リブラ、」

「…………」

牡牛座トーラス水瓶座アクエリアス射手座サジタリアス蟹座キャンサー——」


 そう唱えたアリアの顔は、岩のように硬く強張っている。つう、と冷や汗を掻いた。とても恐ろしいものを見たときのように、心臓はばくばくと早鐘を打っている。

 それでも、アリアは意を決して尋ねる。


「貴方がさっき口にした名前は、サジタリアスとトーラスでしたっけ?」


 幾許いくばくかののち、サダルメリクは顎を引き、添えるように指を遣った。

 その口角は吊りあがっていて、さきほどまでとは違う、少し意地の悪い笑みを形作る。とても愉快そうに目を細めて、サダルメリクが言う。


「十二人か。惜しいね。双子座カストルが抜けてる」


 ぞっとして、アリアの肌は粟立つ。

 やがて、サダルメリクはこつこつと足音を鳴らして、アリアのもとへと近づいた。


「ふふ。怖がらなくてもいいよ。僕は平和主義なんだ。君に酷いことをするつもりなんてない。都合の悪いことは全部忘れさせてあげる」

「……やめて、近づかないで」

「あ、そうだ。最後に君に伝えておかなくちゃいけないことがあるんだ。ピアニカ・ビアズリーの存在以外にも、君は、大事な感情も忘れなくちゃいけないんだよ」

「……え?」

「君の情熱だよ、アリア」サダルメリクは続ける。「ギャラクストラへの憧れ、歌手としての誇り、歌うことの楽しさ、夢を叶えるための野心。それらの感情も、君の中から消える。ピアニカ・ビアズリーを忘れたところで、君の夢が首席歌手のままなら、いずれ怨念はよみがえり、水泡に帰すだろう?」


 アリアの顔がひときわ深い絶望に染まる。

 その瞳が艶やかに濡れた。


「……そんなの、嫌……小さいころからの夢だったの。私の夢、いやだ、忘れたくない」

「ごめんね。世界は広いよ。次の夢を見つけて」

「いやっ!」


 サダルメリクはアリアへと手を翳し、呪文を唱える。

 アリアの記憶の激流に紛れて、指の先から脳へと伝うように、彼女の暴れるような感情が流れこんでくる。

 夢を手放したくないと喚く執念、一言では表せないピアニカへの羨望、踏みとどまれなかった自分への後悔、大事なギャラクストラへの懺悔。

 そのすべてに逆らった先に、目も眩むような、いっとう美しい記憶に到達する。

 はじめてギャラクストラのコンサートを見たときの感動、周囲からの期待のくすぐったさ、オーディションを受けたときの緊張感、歌手の座を射止めたときの涙の出るような高揚、最初にステージに立ったときの夢のような幸福感。

 その一つ一つを、サダルメリクは握り潰し、アリアの心を亡くしていく。

 アリアはピアニカ・ビアズリーという星でなしの少女と出会った。アリアの賽が不運を引いた瞬間だった。

 その瞬間さえも失われる。ピアニカ・ビアズリーなんて人間を、アリアは知らない。誰のことも憎くはなく、誰のことも羨ましくはない、誰のことも呪わないアリアへと歪められていく。

 アリアは一粒の涙を流し、意識を失った。

 一度に大量の記憶を忘却されたことで、脳がショックを受けたのだ。

 目を覚ましたころには、アリアはまったくの別人になっている。

 閉じた瞼から伝う、透明な涙を見て、サダルメリクは淡白に言う。


「ローレライの涙は、真珠にはならないんだ」


 サダルメリクは窓硝子の向こうを見遣り、仕事を終えたことを伝える。

 これでピアニカ・ビアズリーの呪いも解けたはずだ。サダルメリクの請け負った依頼も、本当の意味で完了する。

 白い外套マントを翻しながら、アリアを残した部屋を去るとき、ため息混じりに小さくこぼす。


「人魚の原種か……キャンサーに報告かな」

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