ホームメイド・アップルパイ

いいの すけこ

それでもアップルパイ

「何やってんの、澄花すみか

 買い物から帰ったお母さんが、キッチンで私の姿を見るなり言い放った。薄力粉とかバターとか、その他諸々をこねくり回したものと格闘する私は、最早にっちもさっちもいかなくなった現状に根を上げる。

「お母さーん、助けて」

 こねていたお菓子の生地からいったん手を離そうとしたら、見事に一緒にくっついてきた。どうもこねくり回してはいけなかったらしい。

「あーあ、くっついちゃってるじゃない。もう一回、冷蔵庫で冷やしなさい。まな板とめん棒も」

「ううー……」

 お母さんの言うとおりにすべく、私は生地を包むためのラップを用意する。妙に粘度が出てしまった生地を扱うのは一苦労で、今度はラップとも戦う羽目になった。その間にお母さんは、買い物してきた食料品をすっかり冷蔵庫に詰め終わっていた。

「林檎はまあまあ、よくできてるかな」

 お母さんは、コンロの上の鍋をのぞき込む。

「クッキーの次はアップルパイなんて。ほんと、いきなりどうしちゃったの澄花」

 

 食べてほしい人がいるので、とは、さすがに言えない。

 その人はとても素敵なお店の、素敵な店主さんで。学校の帰り道で具合が悪くなった私を、助けてくれた。

 それだけのことなら、お母さんにだって話していい。この前作ったクッキーは、お礼の品だったと話しても。

 だけどその人は、とても不思議な人で。彼が店主の眼鏡屋さんで、とてもとても不思議な経験をさせてくれたので。

 眼鏡屋さんと、その店主の新淵しんぶちさんのことは、私だけの秘密だ。


「いいじゃない、別になんだって」

 この前、銀の月眼鏡店に行った時のこと。

 その時は菓子盆に盛った、廉価菓子を食べていて。

 読み終わったばかりの小説の話をしていて、そのお話の中にアップルパイが出てきて、新淵さんが興味を持って……というだけの、話だったのだけど。

 アップルパイを、作ってみよう。

 帰り道にそう思ってしまったのだから、仕方ない。


「まあ、いいけど。だからって、いきなり生地から作らなくったって。冷凍パイシート、使えばいいのに」

「だって生地から作った方が、手作りっぽいかなって思ったんだもん」

 ちょっと頑張った感じが伝わるかな、と思ってしまったのだから、これも仕方ない。少し、いや今となってはだいぶ、見栄っ張りだったけれど。

「ノンさんも、生地から作っても簡単だよって言うから」

「あんたのお友達、お菓子作り得意じゃないの」

 どうにも、ノンさんはお菓子作りガチ勢だったらしい。これを簡単と言えるのだから、ちょっと恨めしい。

「もういっそ、これ使っちゃいなさいよ」

 そう言ったお母さんが、冷蔵庫から取り出したのは。


「……春巻きの皮」

「うん。春巻きで林檎包めば、それっぽくなるって」

 揚げたての、ぱりぱりとした皮。中から零れ落ちるのは、熱々のあんが絡む筍やひき肉――。

「ないない。それはないよ、お母さん」

 春巻きとパイでは、比べるまでもない。

 私の手からは、バターの濃い香りがする。このバターが折り重なった生地の中で溶けて、パイの層になるらしい。油の匂いがする層のない薄い皮では、違うお菓子になってしまう。

「そんなにきっぱり否定しなくったって」

「だって、なんか恥ずかしいよ」


 新淵さんの前に、林檎春巻きを差し出したとして。

 『おかず?』と困惑されそうな気がするし。おかずのおすそ分けに来た、ご近所さんみたいになりそうだ。だいぶ恥ずかしい。

「そう。恥ずかしいんだったら、結構ですー」

 アイディアを反故にされたことが面白くなかったのか、拗ねたようにお母さんは言った。

「あ。買い物してきたばっかりだから、冷蔵庫のスペースないわ」

「意地悪!」

 ラップでくるんだパイ生地を手にした私は、お母さんに抗議する。

「うまくいかなくって、本当に困ってるんだからね!」

 私の泣き言が聞こえているのか、いないのか。お母さんは春巻きの袋の封を切って、荒れた台所で夕飯の支度にとりかかるのだった。




「……おかず?」

「違います」

「春巻き……」

「と言えば、春巻きです」

 私が手にした製菓用の紙箱の中にあるそれを、新淵さんは困惑したように見つめる。


 アップルパイづくりは、失敗に終わってしまった。

 手際の悪さが響いたのか、材料の配分を間違えたのか。ともかくも出来上がったアップルパイは、水っぽくてべちゃべちゃという、失敗例の見本みたいなものだった。

 あまりの出来栄えの酷さに、作り直そうという気力を根こそぎ持っていかれた。

 アップルパイを作ってみたいと思ったことさえ、なかったことにしようとしたくらいに。

 そんな私に、お母さんが作ってくれた。

「春巻きの皮で、林檎を包んで揚げたおやつです」

 林檎と、はちみつ。あとチーズ。

 ケーキ屋さんのショーケースには、きっと並んでないけれど。晩御飯のおかずを想像すると、だいぶ何かが違うけれど。


「私が小さい頃、好きだったおやつみたいで」

 うちはホットケーキくらいしか作らない家だと思っていた。

 記憶からは抜け落ちていた。だけど。

「お母さん、よく作ってくれてたみたいなんです。ちょっと違うけど、うちのアップルパイはこれだって」

 甘く柔らかい林檎を、ぱりぱりと砕けるきつね色の皮が包む。

「だけど、うちに呼んだのか、持って遊びに行ったのか……とにかく、友達と一緒に食べた時に。その子に、言われたみたいなんですよね。これはアップルパイじゃないって。その子には随分おかしかったみたいで、思い切り笑われたらしくて。それ以来、恥ずかしいからもういらないって、私は食べなくなったんだって」

「そっか」

 励ますでも諭すでもなく、新淵さんは静かに言った。

「昨日、久々に食べました。覚えてなかったですけど」

 層もない、バターの香りもしないけれど。

 たっぷり林檎を包んだ、あたたかい手作りのおやつ。

「美味しかったです」

 それは薄情な娘への、母の愛情、なのだろう。

「ので、私も作ってみたんです。どうぞ、食べてください」

「うん。ありがとう、楽しみ」

 新淵さんは、笑って紙箱を受け取った。


「トースターで温めなおしてみたんだけど、大丈夫かな」

 お皿に盛りなおしてくる、と言ってバックヤードに引っ込んでからずいぶん長いな、と思っていたら。どうやら新淵さんは、わざわざ春巻きを温めていたらしい。

「あ、わざわざ、ありがとうございます。あるんですね、トースター」

「あるよ」

 お皿を受け取りながら尋ねる。いつかバックヤードも覗いてみたいな、なんて思いながら。

「ついでにこんなものも持ってきたよ」

 新淵さんが差し出したのは、紙カップに詰まったシンプルなバニラアイスだった。

「これを添えたら、美味しいと思うんだよね」

 温かなアップルパイに、冷たくとろけるアイスクリーム。ほかほかとひんやりが、混ざり合う一皿。

「それは……絶対に美味しいやつです!」

 新淵さんと顔を見合わせて、頷きあう。

 大失敗に終わったアップルパイづくりだけど、またチャレンジしてもいいかもしれない。何回か作ってみれば、成功するかもしれないし。

 それまではこの春巻き風おやつを、アップルパイと呼んだって、いいだろう。

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