希典の笑顔
軍旗を奪われた時も、士族側が帝国陸軍恐るるに足らず、徴兵した町民など烏合の衆と喧伝するため、奪われた軍旗が方々で見世物にされた。
これが、所属する陸軍を、引き入れてくれた山縣候などに泥を塗ってしまったと乃木は考えた。
幸い、乱は鎮圧し連隊旗は奪還したが、乃木は不明を恥じて自決しようとしたほどだ。
この時は当時中佐だった児玉が見つけて軍刀を奪い取って未遂に終わったが、生涯恥じている。
ただ、この事を聞いた明治天皇が乃木のことを記憶するきっかけとなった。
「あのときは荒れたものだよ」
萩の乱で実弟と学問の師匠である玉木文乃進――吉田松陰の叔父で松蔭に学問を教えた人物だが、子弟の多くが萩の乱に参加した事に責任を感じ自害した。
そのため、第一四連隊長のあと東京第一連隊の連隊長となった時の生活は乱れ、毎晩芸子を招いて料亭で宴会を行う放蕩三昧となり、世間で嘲笑を受けるほどだった。
「それでも閣下は立ち直られた」
「文乃進先生の教えのおかげだよ」
幼少の頃、学問を志し学者になろうと決めた木希典は父親に反対されるも、家を出奔して七〇キロ離れた兵学者である玉木文乃進の家まで歩き、弟子入りを志願した。
しかし、父親の許しを得ることなく出奔した事を文乃進は弟子入りを許さず「農民になれ」といって拒絶した。
だが、真面目に農作業をしているのをみて家に住むことを許され、農作業の合間に学問の手ほどきを受けた。
そして藩校に通うことを許され、大いに学び、乃木の人生の大きな糧となる。
軍人生活で乃木は失敗した時、度々休職するが、その都度、那須で買った農地に行き農民をして英気を養い再び復帰し、大成する礎となった。
「それに私は江戸の屋敷で生まれ、十歳で長州へ戻るまで、住み続けました。赤穂浪士の方々を受け入れ、切腹が行われた屋敷であり、彼らが眠る泉岳寺が毛利家の菩提寺である事もあり月に二度訪れていました。私が今あるのは、彼らの話しを聞いてきたからです」
山鹿素行の『中朝事実』を昭和天皇に渡したのも山鹿流の兵法が赤穂浪士を通じて広まっていたからだ。
乃木の生涯に渡って、赤穂浪士を武士の鑑とする思いは、幼少期に培われた。
「なるほど、羨ましい」
「羨ましい?」
「私はハワイの生まれで、母はハワイの生まれです。日本に来た時は、人質として樺太に行くことになりました。厳しい環境でしたよ。学ぶことが出来た環境に居られたことが羨ましい」
「それほど良くはないよ。為にはなったが」
乃木の父親は厳しい人だった。
虚弱で気弱な希典を鍛えるために、「寒い」というと「温めてやる」といって井戸水を浴びせ、布で肌を擦るという荒技をしたり。
生卵が苦手で残した時は、無理矢理口を開けて流し込むなど、21世紀ならば教育虐待とされる事を行っていた。
だが、希典は一連の教育によりやせ我慢を覚え、今日に至るまでの基礎となった。
「それを教える事を大帝は望まれたのでしょう」
「なに?」
「我々はロシアに勝つことができました。それは幾多の兵士の献身のお陰です。そして日本古来からの歴史を繋ぐことができました。残された我々は、彼らの子弟を教え未来に繋ぎ、日本を発展させる事です。それが、戦死した将兵への供養となりましょう。それが、生き残った我々のなすべき事だと考えます。先人が残した物を一人で抱え込み去るなど許されません。一人でも多くの者に伝えなくては。それに継承された今上に誠意を持って、お仕えしなければ」
「……なるほどな」
乃木は苦笑すると妻を呼んだ。
「おい、酒を持ってきてくれ」
「宜しいのですか」
「いいんだ。院長として仕事ができた。今日は心ゆくまで語りたい」
その夜は久方ぶりに乃木家に明るい声が響いた。
龍馬の息子 知識チートで海援隊と共に明治を駆け抜け日露戦争を楽勝にする! 葉山 宗次郎 @hayamasoujirou
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