辻谷茉央

 湘南高校の白き妖精、我が校伝統のフェンシング部の戦う姫にしてクッキングマミー。

 数々の男子のハートを串刺しにしてきた女子と言えば、辻谷茉央であろう。


 その噂は入学前から既に立っていた。


 東京湾の向こう岸。遠路遥々千葉県から、この湘南高校に剣を学びに来ることになった女子がいるらしい。


 そんな馬鹿な、と大半の人間が懐疑的だったが噂は果たして本当だった。一年五組。入学したばかりの自己紹介コーナーで、こう語る女子がいた。


「初めまして! フェンシングを学びに千葉県から来ました、辻谷茉央と申します。姉の職場が東京なので、神奈川と東京の県境で姉と二人で部屋を借りて暮らしています。姉も兄も剣道の達人です。私も幼い頃に剣道をしていましたが、オリンピックを見てフェンシングをしてみたいと思い、中学の頃から練習しています。剣の達人になりたいので頑張ります! よろしくお願いします!」


 この自己紹介が教室にいた男子たちの心臓を見事に貫いたのは言うまでもない。


 何せその美貌。肌が透き通るように白かった。おそらく多くの男子が妄想しただろう。彼女の乳房には緑色の筋が浮かんでいるのだろう、と。実際彼女の肌は血管が浮くほどに白かった。湘南高校の白き妖精、とはこの時つけられた通り名であった。


 その人気ぶりたるや彼女と恋仲になりたいがために中学時代三年間を付き添った女子を捨ててアプローチをしようとした男子がいたほどである。無論彼は撃沈した。「そんな不誠実な人とは付き合いたくありません」と。悲しいかな、彼は何もかもを失った。これが辻谷茉央最初の犠牲者である。


 剣の達人になりたいという宣言通り、彼女はフェンシング部で大いに活躍した。

 その軽やかなフットワークと華麗な剣さばきは男子でも追いつくことができず、並み居る部員を次々に突いて伏せさせるという戦乙女ぶりを発揮し、先輩諸兄は愚か顧問監督でさえその実力を畏怖した。そして彼女がマスクを外した際の笑顔に、男子のみならず女子までもが夢中になった。


 ではそんな彼女の何が奇人なのかと言うと、とにかくアルコールに弱いのだ。


 当然ながら未成年なので飲酒はできない。だが洋菓子の中にはアルコールを使ったものも存在する。ウィスキーボンボン然り、ラムボール然り。


 理解できないのが、彼女にはお菓子作りの趣味があることだった。そのレシピの中には当然アルコールを使うものも存在する。彼女はそれを作ってくるのである。


 どうやら彼女はほんの一滴でも、いやほんのひと嗅ぎでもアルコールを摂取しようものなら泥酔してしまう体質らしく、性格が豹変する。キス魔になるのである。


 一応、「男子にそんなことをしてはならない」という理性は働いているのだろう。どれほどベロベロになっても決して男子には絡みに行かない。しかし近くにいる女子は誰彼構わず餌食となる。それこそ顔中嘗め尽くされる勢いでキスされる。


 これはおそらく周辺関係者全員の疑問であろうが、彼女は自宅でアルコール入りのスイーツを作る際も酔っているのだろうか? ベロベロになって姉にキスをしているのか? 健全な男子ならこれだけでご飯三杯はいけそうな情報である。元より酔った勢いでクラスメイトにキスしているだけでいきり立っている男子だっているに違いない。多くの男子生徒の性癖が無自覚に歪められたことだろう。


 彼女はかなり頻繁にお菓子を作って持って来ていた。週に一回、多ければ二回。その度にかなりの材料費がかかっているのだろうがどこから捻出しているのかは知らない。そもそもフェンシングの練習の後でお菓子を作る余力があるのかも分からない。だが彼女は作ってくる。大量のお菓子を。大量のスイーツを。


 多くの場合、それは女子から歓迎される。男子だって歓迎する。つまりいいことしかない。いいことづくめのはずなのである。ただ唯一、彼女が持参したお菓子にアルコールが入っていることが分かった場合のみ、周辺女子の態度が急変する。


 バイオハザードが発生したかの如く厳戒態勢が敷かれるのである。楽しいお菓子パーティは突如として男子禁制の場となり、教室にいる男は例え枯れ果てた老木のような数学の三木谷先生でさえ蹴り出される始末である。


 やがてクラスメイトも学習する。

 アルコールが含まれているお菓子を持ってきていた場合、辻谷茉央の態度が登校時から明らかにおかしいことに気づいたのである。目がとろんとし、顔を上気させ、暑がっている、そんな状態になっている。検査役に任命された数名の女子が、昇降口で辻谷茉央の持ち物検査を実施するようになるまでそう時間はかからなかった。辻谷茉央は毎日靴箱で空港もかくあるべきかと言わんばかりの入国検査を受けてからではないと教室に入ることができなくなった。手当たり次第に女子を襲いかねない猛獣だからである。


 辻谷茉央当人も現状を面白がっている節があり、時に二回連続でアルコール入りお菓子を持ってくることで女子たちを辟易させることがあったが、しかし彼女のお菓子作りの腕は確かだった。如何に手をかけられようと彼女のお菓子を口にしただけで女子たちの態度は一変した。そうして手玉にとられた女子たちは全員、辻谷茉央に唇を奪われた。おそらく彼女と同じ学年の女子の多くは、ファーストキスを辻谷と済ませている。


 過去に数回、キスしてもらうことを目的に、アルコール入りお菓子を辻谷に盛ろうとした男子がいた。


 しかし彼女は嗅覚にも観察眼にも優れていた。酔わない程度の微々たるアルコールの匂いを嗅ぎ取り、そして男子たちのそわそわした態度を見抜き、適切に告げるのである。


「Halte !」


 読みは「アルテ!」フェンシング用語で「止め」という意味だそうである。誠に聡明な女子である。


 そんな彼女が恋をした際、好きな男子に送ったメッセージがあった。おそらく誤変換であろうが、実にかわいらしいので以下に転載する。


「突き合ってください!」


 無論、これは噂に過ぎない。

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湘南奇人伝 飯田太朗 @taroIda

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