第10話 研究内容を選ぶ自由

 ここは、ひとつ、杏樹あんじゅが率先して片づけるということで、杏樹がこの研究室に貢献しているところを示さねば。

 そう思った。

 しかし、杏樹が声を出そうとした、そのとき!

 「ところでね}

と小ヌシ結生子ゆきこさんが杏樹のほうに目を向けた。

 あ?

 いま何か予感した。

 予感を感じた!

 しかし、その「何か」が何なのかわからない。

 「はい」

 そこで杏樹はとても普通に積極的に答える。

 暑いのは収まったし、じゃがいもデンプンのお菓子をいただいてエネルギーも回復したし。

 多少、体力にも心にも余裕が……。

 「ここまでわたしの研究の話をさせておいて、杏樹ちゃんの研究の話はなし、っていうのは、さすがになしよね」

 げっ!

 いや「げっ」ということばも出ない。

 最初は何を言われたかもわからず……。

 「杏樹ちゃんの研究の話はなしっていうのはなし」ということは、二重の否定だから、この場合は、強い肯定で。

 つまり。

 「杏樹ちゃんの研究の話は絶対になければならない」ということ?

 えーっ?

 杏樹がそれを考えている間は結生子さんは黙っていて。

 そして、それが理解できるころになって、ことばを続ける。

 「だって、わたしの去年の卒論発表、第一回が五月の後半だったのよ」

 「五月最後の週の一週前よね」

 大ヌシの千菜美ちなみ先生がことばをはさむ。

 「つまり、二週間後のゼミ」

 当然のことのように言う!

 「あ」

 いや、五月の末に最初の報告、七月には卒論の構成案を出して……というスケジュールは知っていた。

 しかし、ぜんぜん自分のこととは考えてなかった!

 脂汗か何かしらないけど、汗が髪の毛の下ににじんでくる。

 懸命に考える。

 しかし……。

 しかし。

 それならば、仁子じんこだって同じ条件のはず!

 そう思って、仁子を見ると。

 目線を、杏樹にも結生子さんにも先生にも向けないで、黙っている。

 それを見て杏樹は確信する!

 仁子はもう発表内容はできているのだ。

 最初から「北関東の古墳」と研究内容を決めていたのだから。

 「明治初期で何か」しか決めてない杏樹とは大違い!

 鞄を持って

「また考えてきます!」

と逃げ出したらどうなるだろう?

 小ヌシに捕まえられるか、大ヌシに捕まえられるか、または、大ヌシから

「研究しないんだったら研究室に来ないでちょうだい」

と言い渡されるか。

 あんがい、仁子に、古墳時代の何かから学んだ謎の魔術で動けなくされてしまうかも知れない。

 それに。

 研究を自分のこととして考えてなかった。考えてなかった、というのは、考えないでいられる自由があったということだ。

 杏樹には。

 しかし、隣にいる結生子さんには、そんな自由はなかった。

 生まれた村が姫方と家老方とで分かれていて、そして、たぶん、そのせいで、いま、自分の出身の村に行くだけで気をつかわなければいけない。

 どうしてそんな対立が起こったのか?

 その対立のきっかけとされているお姫様はほんとうにいたのか?

 いたとすればどんなお姫様だったのか? どんな生涯をたどったのか?

 それを選ばない自由なんて、結生子さんにはなかったのだ。

 なかなか杏樹が話し出さないから、だろう。結生子さんが杏樹を見た。

 白目のところまで美しい。

 いや、顔の肌も、色がちょっと淡い髪の毛も……。

 きれいなひとだ。

 では、その伝説になったお姫様はどうだったのだろう?

 やっぱり美人だったのだろうか?

 そんな考えがあふれてきて、杏樹は。

 考えるということができる範囲ぎりぎりで、考えをことばにして、ことばを出した。

 「あっ……あの、ですね」

 声がうわずっていた。湯みのなかに最後の一杯が残っていたので、それをのどに流しこむ。

 そして。

 「明治の議会制開設前に、その、議会制がまったくなかったか、っていうと、その、はっ……話し合いをせずに大きな改革をする、って、それはできないと、思うんですよね」

 そのときに考えていたことを、断片と断片をつなぎ合わせるように、でもとぎれることなく、森戸杏樹は話し始めた。


(おわり)

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日本史研究室の午後 清瀬 六朗 @r_kiyose

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