土屋は、「気が遠くなるほど遠い」と言った。

 景色に輝く緑が増えてくる。休憩した小じんまりとしたPAでは、空気が山らしい硬質さで驚いた。売店でカフェオレとおにぎりを買う。


 高速の外は代り映えしない。姿勢が辛くなる。隣の席はまだ異臭がして、ゴミを片付けようと触るとドロリと赤い油が付いた。


 SNSを見て、アプリで漫画を読む。時計を見ると到着まで4時間あった。遠い山あいに陽が傾いていく。



 LINEが誰からも来なくなった。次のPAまでの距離もわからない。

 アプリで漫画を開いて、飽きてすぐ閉じる。


 おにぎりも食べ終え、さっき女の子がくれたお菓子を見る。『大白兔』『麻辣山楂饼』…

 恐る恐る一つ口にする。臭いの通りの味が口いっぱいに広がり鼻水が出た。吐き出して少し泣いた。


 こんな、異常な不明な物を食べる遠い国の女の子、それでも彼女は母親が好きで、母親は多分、娘が遠くで一人バスに乗っていることを知っている。

 好意で貰ったしと覚悟を決め、『冰糖雪梨』黄色いペットボトル飲料も慄きながら口に含む。味の濃い梨ジュースで、驚く位美味しかった。一気に飲み切りトイレに行きたくなった。


 その後、隣は誰も来なかったので席を窓際に移った。

 LINEはまた誰からも来ない。旭に写真を送ると実写猫スタンプがきた。脊髄反射で『可愛いです』と返す。

 もし函館に着いて、旭が迎えに来てくれなかったら。

 嫌な想像を努めて振り払う。土屋だったら、危ない目に遭ったら彼氏が守ってくれるんだろう。じゃあ私は? あの外国の女の子は?





 ウトウトしてしまい、目覚めると真っ暗で驚いた。

 窓を見る、バスは高速を走っていた。道路照明灯が無く、森が黒々広がる、唸る風音が車体を包んだ。後ろからは軽いイビキが聞こえる。


 車内灯も無い。ぞっとした。冷気が背中に染み込む。こんなに暗い景色を、優菜は知らない。

 空は電池切れのスマホと同じ色で木々が波と揺れる。山中にはポツリと電灯が頼りない。


 陽が落ちたら、暗くなるんだ。優菜は曖昧な辺りの輪郭を見た。

 夏の夕暮れの空気の匂い、これからどこまでも遊びに行ける気がする明るい都会の暮れ、あれは、自分はどこにいるんだろう。外気が恋しくなった、窓は開かない。


 スマホは8時を指す。優菜は画面だけを見た。過去のLINEを読み返し、境さんから『31おごり忘れた』と来ていたので雑な質問で返して話を長引かせる。とまた彼氏の写真を延々送られた。イラっとした。

『境さんのその、話題とか相手の事あんま考えない所、ちょっと特殊っていうかもう異能力みある』

『そう言うじゃん。でも女教師も結構飛んでるからね。異能力とか私初めて言われた日に帰ってググったし。どうせならチャームポイントって言って。あと私のスルー能力とコミュ力に感謝して。頑張んなよ初デート』

『いやもうめっっちゃ不安』

『それな』



 程なくスマホの電源が切れた。

 バッテリーに繋ぎ、中毒患者のように震えながら起動ボタンを連打する。そのうちバスが減速して、高速を降りた。

 住宅地の灯りが煌々と光る。目の奥が熱くなった。



 ENEOS、スーパーベニマル、和菓子司柊。飲食店は知らない名前が多い。広くキラキラ明るい国道を通り、停車した。郡山こおりやま駅だった。


 優菜は財布とスマホを持って、暗いロータリーの端の公衆トイレに走った。外気が生温い。

 トイレでは、肩幅の広いセーラー服の女の子が並んで耳慣れない発音で話していた。中学生にも高校生にも見える。声は不思議に上下した。


 近くのセブンでオムライスを買うと、レジ店員の動きが随分ゆっくりだった。店員も高校生くらいの子で、綺麗に化粧をして不思議な発音で喋る。

 遅れて感動が来た。言葉が違う。

 東北限定ずんだチョコの前で迷っているとスマホが振動した。

 土屋からだ。不在着信が並んでいる。




「もしもし土屋、凄い聞いて! 方言可愛い! 土屋…?」



 返事が無く、呼吸がくぐもって聞こえる。音量を上げるとヒ、と息の音がした。

「え…?」

 土屋は震える声で、優ちゃん、助けて、と言った。



 セブンの前にワゴン車が停まって女が乗り込み去っていく。土屋は泣いていた。


「え?」

『助けて。今、逃げてて』

「え…?」

『彼氏と喧嘩なって、殴られて、泣いたら変な場所で降ろされて。その後やっぱり追いかけてきて、痛い、血が』

 痛い、と土屋は繰り返した。


「え、土屋。今どこなの」

『わ、わかんない。多分宮城…』

「宮城?」

 どこそれ、と言いかけ口を噤む。土屋の声と重なり水音がした。

『暗くて。とりあえず車道から下って隠れて、森みたいな…』

「森!? 森の中いんの!? 何で!」

『何でって…」

 土屋は引き攣る感じに笑った。


『山の中、走ってたの。お家も店も無くてトンネル抜けて』

 助けて、どうしよう、と繰り返す。

『優ちゃん。明かりがないよ』

 静かに言われて鳥肌が立った。


 ピンポーン、コンビニの入店音が鳴ってハッとする。レジの女の子に見られていた。軽く頭を下げ外に出る。

「けっ警察とか」

『優ちゃん、何も無いんだよ』

「でも助けてって! 大声出せば…」

『ふふっ』

 土屋は嫌な感じで吹きだした。


『あのね。私、山の中に一人だけなの』

 煩くエンジン音が唸り、高速バスが前を通過して、小さくなる。

 優菜は顔を上げた。ロータリーにバスが見当たらない。おばさんが太った犬を連れてウンコのビニールを持って、歩道をこちらにやってくる。

『――、―――』土屋が何か言った。優菜は努めて落ち着いてバスを探す。影も形も無かった。

 おばさんと犬がすぐ近まで来てくれたので目線を送る。おばさんは通り過ぎていった。犬の爪がチャカチャカ地面を掻く。


「え?」

『――、―優ちゃん。どうしようこんな場所で、酷い。信じてたのに』

「……え?」

『あんな人だったなんて、』

「土屋のせいだ」

 思わず口をついて出て驚いた。慌てフォローしなきゃと他人事っぽく焦る。

『え?』返す土屋も震えた。高速バスが行ってしまった。


「あ。ごめ、い…いや、こ、バスが…」

『…優ちゃん。私、殺されるかもしれないのに』

 ざ、と自分の血の気が引く音が聞こえた。

「こ、ころ」

『だって一人で、どうすればいいの? 充電だってお金だって少しだけ』

 荷物を見る。むき出しの財布が一つ、スマホと繋がりぶら下がる軽いバッテリーが一つ。

「殺される……?」

 

 土屋は異能力者で、男に頼って上手にどこでも行けて、正直汚いと思った時期もあったけど。土屋はいつでも落ち着いて優しく笑って、一番楽しいって。


『死にたくない、優ちゃん。殺されたくない、お家に帰りたい』

 速い土屋の呼吸が伝染した。通話の声が遠くなる。

『ここがどこかわからないの』

「ここ…」辺りを見る。

『優ちゃん』

「土屋のせいだ」

 言い切ると僅かに安心した。

「そうだ土屋が悪いんだよ、変な男が好きでだらしなくて、LINEしただけでも変って普通わかるのに何で気づかないの? 今どこかわからないって、私どうすればいいの? 私も悪いの? 違うよね?」

 息継ぎをする間に土屋が『優ちゃん』と呻く。

「だから何で私に言うの私だって!! 殺されるとか嫌な事言わないでよ、脅迫だよ? 土屋は自分から変な男にくっついて断るの下手で、全部自分のせいで」だから私はそんな目には遭わない、と捲し立てる前で通話は切れた。



 こめかみから首へ、汗が流れる。喉がカラカラで、自分が興奮していると気が付いた。麦茶を出そうとして、鞄がない。上半身がぐっしょり濡れている。

 制服の学生たちが遠く暗いところへ消えていく。ロータリーから先は灯りの疎らな道が続いて、遠く蛙が鳴く。一人だ。


 さっき土屋とは喧嘩をしたんだろうか。現実感が無い。スマホの通知を見ると旭がまた炎上している。

 全部夢だったらいいのにと思った。寝て起きたら朝学校行かなきゃで、自分のベッドにいて、蝉がミンミンして…、ゾッとした。どこで寝る?

 夢中で電話を掛けた。相手は旭しかいなかった。


 旭は数コールで出た。

『はい、旭川 「すみません助けてください」

『……えっと? 優菜?』

 初めて話した旭は滑舌が悪かった。

「そうです、すみません今変な場所にいて、多分郡山とか言っててバスが無くて、人もいなくて、」

『っと』

「一人なんです」

『郡山? 福島の? 福島で降りた?』

「そうです!!」優菜は話を聞かずに即答した。旭はモゴモゴこもるように喋る。

『君の状況はわかった、しかし僕 「どうすればいいんですか知らない所で、夜で一人で暗くて、私は旭さんに…旭さんに会いに来たのに」

 声が細く震えて、旭は息を飲んだ。旭は、なぜかしっかり傷ついたようだった。

『不安だろう』

「はい…」

『しかし、随分遠い。申し訳ないが僕には』

「どうしてですか何で何もしてくれないんですか」

『…優』

「来てください、ここまで来て」

『…僕は免許がなく、あったとしても行ける距離では』

「何でですかどうして免許が無いんですか」

 旭は弱々しく、できない…とモゴモゴ繰り返す。優菜は苛ついた。腹から突き上げるように怒りが来た。

「そんな人なんですね?」

 蔑む声が出せた。旭の喉が鳴る。

『……君に僕の、気持ちが僕の何がわかる』

 はっきり怯えられてまた安心する。と同時にスッキリした。弱い他人を傷つけることは慰めだ。

「異能力者の気持ちなんかわかりません」

『…努力をしても人から理解を受けず納得もされず、個性に対し能力の低さと烙印を押され、無数の顔のない人に謂れのない誹りを受け、夜も眠れずに段々と日常でできることが減っていく、この気持ちが、このどうしようもなさが、お前に』

「わかる訳ないだろ!! 私は今暗くて怖いんだよ!! お金も少なくてどこにいるかもわからなくて! お前こそ、お前こそ何が」旭は声を上げて泣き出した。

 優菜はぎょっとしてスマホを耳から離した。抑えようとした嗚咽が噛み殺せずに漏れる、度々攣ったように息を吸いながら、旭はズルズル汚く鼻を啜った。

 昔に重めなドキュメンタリーで見た、大泣きする子供を思い出した。沸き立つように人を不安に不快にする子供の悲鳴、旭は発作のように泣き続けた。呆然とスマホを見つめ、怖くなり電話を切った。優菜も泣いていた。


 脇の下が汗で気持ち悪い。頭がぼうっとして、足から力が抜け座り込む。見上げると星が鮮やかだった。今まで見たことがない輝きと星の多さ。


 大きな月には迫力さえある。土屋のいる場所の月はきっともっと凄味があるだろう。

 頭を振って嫌な考えを払う。自分の肩を抱いて、しばらく動けなかった。涙は意外とすぐ止まった。





 駅構内に続く階段を上ると人が多くて驚いた。バスは駅の裏側の寂れた側に停まっていたらしい。

 駅ビルに繋がり灯りを落としたショーウインドウが並び、改札も多い。凄く普通の駅だ。


 「青少年非行防止」の腕章をつけたお爺さん二人組が歩いて来て、優菜はソロソロ近づいた。二人組は優菜を無視した。上下する発音でパチンコの話をしていた。

 新幹線の切符売り場で見上げると、東京まで1万で足りた。




 帰りはガラガラの新幹線に座り、何かしていないと不安でスマホを開く。土屋の彼氏からLINEが来ていた。

『ユウナ返事ないけどちゃんと着いた? もし何かあったら迎えに行ってやるよ、今晩空いちゃってw』

 見たくないのでブロックした。

 削除前にスクショを撮って、『旭から来たLINE』と添えてSNSに晒すと結構盛り上がる。半匿名の人たちにとって、本当の事なんてどうでも良いんだと気が付いた。


 私が土屋の持ち物で、異能だと思っていた物は何だったんだろう。夜の暗さを思い出し、考えるのをやめた。ぼうっと流れる窓の外を見る。



 日付が変わる前には境さんからLINE と、彼氏ではなくアイスの写真が来た。

『31楽しみにしてんね、何かあったら連絡してきなよ、まぁ特に何もできないけど笑』


 中学の頃は、高校に入れば彼氏ができると思っていた。でも普通にこのまま過ごせば多分何かあって、付き合ったり別れたり、大学行ったり結婚したりもするんだろう。


 新幹線の大宮駅到着は0時半を回り、自宅の最寄り駅に帰り着いたのは1時過ぎだった。

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no title なんようはぎぎょ @frogflag

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