辻の人

椰子草 奈那史

辻の人

 以前、実家に帰省した時に母から聞いた話です。


 それは母の安紀子が高校生だった昭和40年頃のことでした。

 当時、安紀子が通う高校は市を一つ跨いだ先にあり、片道10キロの道のりを毎日自転車で通っていたそうです。

 当時は今ほど道路事情は良くなく、安紀子が通学に使っている道もその多くが舗装などはされていませんでした。

 近くには整備された街道もあるにはあったのですが学校まで大きく遠回りになるため、安紀子は畑や田んぼの中を通る細い田舎道を使っていました。


 その日は、学校祭の準備に追われて帰りの時間がいつもより遅くなってしまいました。

 秋も半ばの時期の太陽は早々に山陰に隠れ、あたりは闇に沈もうとしています。

 安紀子は自転車に乗ると大急ぎで走り出しました。

 当時流行っていたテレビ番組の時間が迫っていたからです。


 学校から五分ほど走ったところの交差点で安紀子は一瞬迷いました。

 このまま真っ直ぐ行けば街道で、沿道には街灯も人家もあり安心して帰れます。

 しかし、遠回りになるためテレビの時間に間に合わないかもしれません。

 右に曲がりすぐに左の道に入ればいつも使っている田舎道です。

 こちらなら間に合いそうですが、途中には街灯も人家もありません。

 これまで、暗くなってからはその道を通るのは避けてきましたが、今日だけはどうしても早く帰りたかった安紀子は、意を決して田舎道へと進路を変えました。


 自転車のライトのささやかな明かりだけを頼りに、鬱蒼とした桑畑や栗林に囲まれた暗闇の中を安紀子は必死にペダルを漕ぎます。

 しばらく走るとようやく木々は後ろに遠ざかり、田んぼや畑が広がる一帯へと差し掛かりました。

 周囲が暗いことに変わりはありませんが遠くには人家の明かりも見え、少しだけ安紀子の心は軽くなりました。


 そのまま走り続けるうちに、安紀子は「辻」と呼ばれている場所へやってきました。

 辻とは道が交差する場所のことであり、今の言葉で言えば十字路、交差点となりますが、もちろんそこに信号や横断歩道などはなく、昔から使われていた間道が交差しているだけの場所です。

 安紀子が辻を通過しようとしたその時でした。

 辻の横にある小さなお社の前に、不意に人影が見えたのです。

 驚いて思わずブレーキをかけるとダイナモ式のライトは消え、辺りは完全に闇に包まれました。

 恐る恐るお社のほうを見ていると、少しずつ目が慣れてきてそこにいるのが老婆であることがわかりました。

 老婆は、手入れをしていないと思われる髪がボサボサに垂れ下がり、既に朝夕は肌寒い時期だというのに、粗末な薄手の着物を羽織っただけの姿でした。


「ババはん、なじょした?(お婆さん、どうかしたの?)」


 安紀子が問いかけても、老婆は黙ったままでした。


「ババはん、なじょしたず?(お婆さん、どうかしたの?)」


 再び安紀子が問いかけると、老婆はようやく安紀子に顔を向け、しわがれた声を発しました。


くぼさ……(窪へ……)」

「窪?」


 窪というのは地名で、安紀子の進行方向に交差してきた道を西の方に向かった先にありました。


「ババはん、窪はあっちだず(お婆さん、窪はあっちの方向よ)」


 安紀子が窪の方角を指差しますが、老婆はそちらを窺うような仕草は見せず、再びしわがれた声でつぶやきます。


くぼさ……(窪へ……)」


 安紀子は会話が成り立たない老婆に微かな恐怖を感じました。


「んだがらババはん、窪はあっちだず--(だからお婆さん、窪はあっちだって--)」


 そう言って再び自転車を漕ぎ出そうとする安紀子に、老婆が叫びます。


くぼさ!……(窪へ!……)」


 安紀子は猛然とペダルを踏み込みました。

 とにかくこの場所を離れなければ。

 その思いで必死にペダルを漕ぎ続けます。


 いくらなんでももう大丈夫だろう、そう思って後ろを振り返った時、安紀子は信じられないものを見ました。


 朧な月明かりが照らす中、あの老婆が安紀子に向かって凄い勢いで迫ってきていました。

 やせ細った体のどこにそのような力があるのか--。

 いや、それよりも信じられないのはその走り方です。

 老婆は、まるで四つ足の獣のように両手両足を使って地面を駆けているのです。


くぼさしぇでけぇぇぇえっ……(窪へ連れていけぇっ……)」


 走りながら老婆が叫びます。


「いやあああああっ!」


 安紀子は無我夢中でペダルを漕ぎ続けました。


 老婆の声は、もう肩のすぐ後でも聞こえてきます。


くぼさしぇでけぇぇぇえっ……(窪へ連れていけぇっ……)」


 安紀子はただひたすらペダルを漕ぎ続けました。


 ※※※


 気がつくと、安紀子は街道への合流部にたどり着いていました。

 目の前の道路には車が行き交い、沿道には店を閉める準備をしている商店や駆け込みの買い物客の姿が見えます。

 荒い息も収まらないまま後ろを振り向くと、あの老婆の姿はもうどこにもありませんでした。


 この出来事があってから安紀子はどんなに遠回りになっても夜にその道を通ることはなかったそうです。

 あの老婆が何者だったのかは確かめる術はありません。

 老婆の目的は何だったのでしょう。

 窪へ連れて行って欲しかったのか。あるいは


 ※※※


「辻」があった場所は、今では大きなバイパスが整備されて当時の面影は全くないそうです。

 ただ、辻という名前は、交差点の名前として今でもそこに残っています。






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