第4話

「久しぶり、というほど時間は経っていないか」


「そうだな」


 署に入って最初に声をかけてきたのは同僚のパトリックだった。いつも通りの少し陽気な彼だった。オフィスは人の往来が激しい、これほどの忙しさはいつ以来だろうか。


「なんか大変みたいだな」


 同僚もどこか社会の状況をどこか他人事のように感じているようだった。同僚との再会に会話が弾んでいると上司の大声が聞こえた。


「ジェームズ、パトリック、三番街で対応中の班から応援要請だ。すぐに向かえ!」


 同僚と一瞬視線を交わし、二人で走り出した。運転席には僕、助手席には同僚が座り、パトカーのサイレンを回してアクセルを一気に踏み込んだ。加速によって体が座席に沈み込むような感覚を覚えたが、すぐに収まった。永遠に加速するわけではないのだ。人影は確認できず、商店のガラスは散乱し、ドアが開け放たれた車が路肩に止まっている。世界は変わっていないようで常に変化しているのだ。


「そういえば、パトリックは視覚障害を発症したのか?」


 全世界で視覚障害が増加しつつあるとは言え、正常な人もいるのは事実だ。しかも、職場に復帰したということは症状が重くないことを示しているとも言える。


「俺か? 何て言うかな、俺は世界が全体的にオレンジっぽく見えてる。だからいつも夕暮れみたいな感じだ。まあ、今はどっちみちオレンジぽいだろ?」


 確かに今は夕暮れ時で空がオレンジがかっている。しかし、僕が今見ている景色と同僚が見ている景色が同じであるという確証は持てなかった。この空を見て湧き上がる心情も異なるのかもしれない。

 交差点に差しかかった。もちろん信号は青だ。僕は信号の色を正しく判別できるから間違いではない。ふいに視界の右側に急接近する影が映った。人間の目は視野の周辺部で最も動体視力が優れている。しかしその能力は太古に草むらから襲い掛かる大型肉食獣に気づくためのものであって、時速四十マイルで迫りくる鋼鉄を避けるには不足している。僕は反射的にハンドルを左に切ることで精いっぱいだった。けれども車同士の距離は縮まるばかりだ。おそらくは相手の車の運転手が信号の色を読み間違えたのだろう。そのような考えが浮かんだ時には車内のフレームが歪み始めていた。意識を失う直前に目に入った同僚の顔にはどこか諦めが感じられた。


 ***


 最初に知覚した感覚は痛覚だった。心臓の鼓動とともに頭がズキズキと痛む。ベッドから体を起こして部屋の中を見渡してみたが、この場所には覚えがない。少なくとも病院ではないことは確かだ。おそらくは普通の民家だろう。ドアの軋む音が聞こえた。そこにはどこか見覚えのある一人の男が立っていた。


「お前さんは、あの時助けてくれた警察官だよな。無事そうで何よりだよ。俺はマイケルだ」


 口角を上げながら陽気に語りかけてきた。多分同僚が押さえつけていた黒人だろう。そして僕は差し出された右手を握った。一体どれほど眠っていたのだろうか。


「僕はジェームズだ。君が僕を助けてくれたのかい?」


「そうだよ。盛大に事故ってたな」


「助手席にも一人乗っていただろ。彼は今どんな状態なんだ?」


 ある程度頭の痛みも落ちつき、ふと同僚の安否の心配が頭をよぎった。そのことを尋ねられたマイケルは少しばつの悪そうに唇を噛んだ。


「知らないな。助けたのはお前さんだけだよ」


「どうして」


 僕の食い気味な疑問に対してマイケルは半ば笑いながら答えた。


「そんな、俺を殺しかけた差別主義者をわざわざ助けるけかよ。お前さんみたいな善良なヤツは助ける価値があるがな。あれだよ、腐ったリンゴを放っておくと周りのリンゴも腐っちまうだろ?」


 違うんだ、僕が君を助けたのは偶然なんだ。僕だって人種差別は悪いとは思っている。でもそれは意志の力で自らを納得させているに過ぎない。心のどこかでは黒人が白人より劣っていると感じているのかもしれない。同僚も僕が知る限り差別主義者ではない、ただの使命感の強い警察官だ。一体僕と同僚とで何が違ったのだろう。何が生命を分けたのだろう。ただの何気ない行動が他人にとって解釈され、運命を分けたのだろうか。見えている色が人それぞれで異なるように。


「じゃあ今、同僚は」


「さあ? 車の中で死んでるか、襲われてるかじゃないのか?」


 ダメ元の希望は簡単にへし折られた。ここにいてはいけない、ある種の強迫観念にかられるように僕は外に出る準備をした。無論、警察官としての職務に復帰するためだ。


「おい、もう行っちまうのか? 外は危険だぜ。警察も機能してないみたいだし、誰かに襲われるかも」


 とマイケルが語りかけた。


「ああ、仕事だからな」


 僕は笑顔で答えた。そして身支度を整え家のドアに手をかけた。体の調子はそれほど悪くない。マイケルはとても心配そうな顔をしていた。何か尊いものを失ってしまうような顔だった。


「見た目ではなんともないリンゴが案外腐っていることもあるんだよ」


 その言葉に対してマイケルは首をかしげていた。

 外に出ると空は曇天だった。きっと世の中には完全な白黒は存在しなくて、ただ無限に長いグレーのグラデーションが続いているだけなのだろう。

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腐ったリンゴ 松本青葉 @MatsumotoAoba

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