ミスティック・ミラー号

満井源水

MM号の真実

 つい、やってしまった。


 私は、改造されたキャンピングカーに乗っている。四方の壁のうち三面は綿雲が浮かぶ青空模様の壁紙が貼られていて、残り一面は外景が窺えるガラス張り。それには特殊なコーティングが為されていて、外が明るい場合は車内が覗けないようになっている。要するに、マジックミラーだ。


 聡明な読者諸君は……いや、聡明でなくとも読者諸兄はご存知だろう。私はいま移動式アダルトビデオ撮影スタジオ、いわゆるマジックミラー号の中にいる。


 ──ことの発端は数分前に遡る。


「すみません、ちょっといいですか?」

 男の冴えない面にはぎこちない作り笑いが染み付き、ウェーブがかった茶髪が不格好に乗っている。


 そして何より目についたのは、私の顔より下を写しているハンディカメラだ。


「これ……何かの撮影ですか?」

 私は、応えてしまった。それが運の尽きだった。


 おだてられて悪い気分になる人間はいないものだから、その男の手練手管によってあれよあれよという間に乗せられた(心理的にも。車内に、という意味で物理的にも)。さらにちょうどお金に困っていたものだから、ゼロの数に目がくらんで契約書にサインしてしまった。心なしか、私の豊満な胸のあたりは札束で殴られたように痛む。


 服を脱いで、下着姿になる。この様子も天井の隅についたカメラで撮られているんだろうか。心の準備は出来ていないが、トイレなども済ませたし身体のあちこちの手入れは普段から怠っていない。知らされたプレイ内容は「私が男性とお風呂に入り、次にマッサージをしていたところ、ちょっとしたアクシデントが起きて……」らしいから、まあ危険なことはないんだろう。うう、なんだか今になってすごく惨めな気がしてきた。いったいぜんたい何なんだアクシデントって。バカバカしい。


「おまたせしました~~」飄々とした口調で、さっきの男が入ってくる。


 私はこれから、目の前にいるこの人と淫らな行為に及ぶんだ……と緊張しているそばで、男が説明を始める。

「さて、それじゃさっき打ち合わせした通りに……」

 そう言って、紙袋をガサゴソと探る。


 アダルトビデオの撮影らしく、ローションやプレイに使う器具が取り出されるのだろう。そう思って私は男の手元を注視していた。


 取り出されたものは、鹿の頭蓋骨を加工して作られた仮面だった。


 紛れもなく、死んだ鹿の頭の骨は仮面に加工されている。そして疑いの余地もなく、それは私に手渡されている。移動式アダルトビデオ撮影スタジオの中で。


「はい。じゃあこちら、仮面になります」男が仮面を差し出す。


 見ればわかる。わからないのは、なぜ仮面を渡されているのかだ。


「え、怖、なにこれ……?」


 困惑する私をよそに、男は仮面を装着する。

「さあ、早く着けてください」


 言われるがまま、私はおずおずと鹿の骨の面を被った。

「あ、あの……どうして仮面を着けるんですか」


「あー。そうか。お姉さん、撮影は始めてですよね」

 始めても何も、こんな意味不明なアダルトビデオがあるものか。


「実はマジックミラー号での撮影は、鹿の骨を加工した仮面を着けて行われるんです」


 衝撃の真実だった。というか、衝撃すぎて真実だと思えないでいた。

「その……私、こういう感じのエッチなビデオ見たことありますけど、こんなの着けてませんでしたよ」


「画像加工で消してますからね」

 男はこともなげに言ってのける。


「男優はともかく、女優の顔も全部加工なんですか?」


「そうですよ。パッケージの写真だけは素顔です」


「じゃあ、パッケージだけやたら女優さんの顔が可愛いのって──」


「あれは素のままの美しさですね。動画本編の美しさが劣るのは……やはり仮面を素顔のように加工する技術が未発達なので」


「私てっきり、可愛くない女性を雇ってパッケージだけバッチリ加工してるのかと」


「そんな詐欺みたいなことするわけないでしょう!!」

 禁忌タブーに触れてしまった。……いや、こんなことを話している場合ではない。肝心の、なぜ鹿の骨を被るのかという疑問が解消されていない。


「……というか、なんでこんなことするんですか。画像加工で消すなら、最初から仮面なんて被らなきゃいいじゃないですか」

 私は、ぐらぐらする仮面を手で抑えながら問う。


「確かに商売のことだけ考えれば仮面なんて要りませんが、これは儀式ですから」

 男は仮面の入っていた紙袋を畳むと、部屋の隅に追いやった。


「儀式?」


 男は頷くと、逆に問い返してきた。

「マジックは日本語に訳すと?」


「え、えっと……魔術?」


「ミラーは?」

 まるで面接のような事務的な問い方だ。


「か、鏡です」


「ならば当然、マジックミラーは魔術に使われる鏡です。それが壁一面を占める部屋なんですから、魔術的な儀式が行われるのも道理でしょう」

 自信満々に言われると、なんだかそんな気がしてくる。


「そ、それじゃあ何の儀式なんですか」


「神と対話する、儀式です」

 さも当然と言わんばかりの返事が返ってくる。


「へ、へえ。そうなんですね……」

 雲をつかむような話に、私はおぼつかない返事しかできなかった。


「ほら。壁にも白い生贄の羊が」

 そう言って、男は壁にプリントされた青空模様を指差す。


「生贄の羊?あれ雲じゃないんですか?」


「雲ではありません。かおのない羊です。貌を描くと、お風呂やローションマッサージの最中にうっかり羊を数えて寝ちゃいますから」


「そんな可愛い理由なんだ」


「そして、そのお風呂に入る段階も、沐浴の儀式です。そしてローションプレイで塗っているものは実のところローションではなく油です。塗油の儀式です」


「全部儀式なんだ……」


「さあ。時間がもったいないのでおしゃべりは程々にしましょう。準備に取り掛かってください」

 そう言って男は服を脱ぎ、下着以外のすべてを外す。


 急かされるまま私はお風呂、じゃなく沐浴の儀式を済ませた。壁に記されている綿雲……に酷似した生贄の羊を眺めながら、ローション──ほどの粘度を誇る聖油を用いた塗油の儀式を行った。


「それじゃ、脱がしますね……」


 男は私の下着に手をかける。動画はいよいよ18歳未満の立ち入りが禁止される領域に差し掛かろうとしているだろう。


 ──そう思っていたときだった。


「機は熟したッッ!!」

 突如、男が叫びカメラを落とす。


「始まるぞ。君こそが相応しい贄だったんだ」

 男は飛び上がり、満腔で喜びを表す。


 私は、突然わけのわからないことを言い出した男に困惑していた。

「は、何を言って──」


 私を顧みず、男はくるりと背を向ける。窓……のように車外の景色が映る大きな鏡、マジックミラーへ向かって両手を広げる。


 見ると、鏡は暗幕が垂らされたように変色していた。


「え、なんですかこれ……!」


「百聞は一見に如かずと言うが、私には言って聞かせることしかできないというのもその通りだ。教えよう」

 男は気色の悪い笑みを口元に浮かべながら、なにやらブツブツと呟くように語りかける。


「いま我々は深淵を覗いているのだ。ネクロノミコンに記されたニトクリスの鏡……あるいは──ウィルバー=エイクリーが遺したレンのガラス。そしてマジックミラー号。これらに関わってきた者たちがそうであったように、観測するものは往々にして観測されるものでもあるのだ。こちらが一方的に覗くだけ、なんてことはそうそうない」


 怖がればいいのか、そうでないのか今ひとつ判断がつかない。しかし、語る男の眼差しには鬼気迫るものがあった。


「ええと……私たちがマジックミラー号から外を見ている時、ビデオの視聴者さんが私たちを見ている、みたいなことですか?」

 なんとなくフォローすると、目の前に男はしゃがみこんだ。私に目線を合わせた男は、私の肩を掴んでガタガタと揺らす。


「不正解ではないが、不十分だ。なぜなら君は、ここが儀式の場であることを失念しているからだ。儀式とは神への呼び掛けであり、我らの神は、呼び掛けられれば応じるものである」


 ……嫌な予感がする。応じる?神が?どうやって?


 視界の端へ目をやり、部屋を映す大きなマジックミラーを見た。思えば鏡って、ちょっと怖い。おばあちゃんの家にあった姿見は、布がかけられていないとき前を通るのも怖かった。体育館にあった大きな鏡なんかは最悪で、中学でバレーボール部にいたとき、夜の体育館に残される片付け当番は憂鬱だった。

 オカルトが実在するとは、未だに確信できない。でも、鏡に呪力とか霊力とか、そんな物があると信じる気持ちはわかる。だから、目の前で男が宣うことも戯言だとは思えなかった。


「見ていろ。今に、我らの神は降臨なさる」

 男は立ち上がり、再び身体を鏡に向ける。深く息を吸い込むと、両腕を広げた。


 やばい、と本能が警鐘を鳴らす。私の正気を覆っている薄い膜は、垢の溜まった爪で剥がされかかっている。


「ふんぐるい、むぐるうなふ、ぶるぐとむ…………」男の発する、人語とは似つかない響きがマジックミラー号いっぱいに響く。不快極まる音の波は、鼓膜越しに意識を揺らしかき回す。私は、恐怖と拒絶感から湧き上がる吐き気をなけなしの理性で押さえつけた。これから訪れる得体の知れない何かから逃れたい一心であったものの、それでいて目が離せないでいる。


 ──ついに、それは顕れた。鏡いっぱいに映るのは、異質と猥雑と悪趣味を煮詰めたような邪悪の権化。臓器や軟体生物を思わせる質感の物体は、下品に艶めく紫色の触手と擬足をぬるぬるとくねらせる。


《貴様か……我を……喚ぶのは…………》

 鏡の奥の深淵から、耳障りな低声が響く。


「お待ちしておりました」

 男は先程までとは打って変わって、うやうやしい態度で頭を垂れる。


 喚び出された何かは、つまらなさそうな声──に聴こえる音を発した。

《フン……その女が、贄か……》

 私は身構えたが、すぐには、男の方へ視線を戻した。

く済ませよ……喚んだからには何か目的があるのだろう》


「ええ。ええ!大変不躾ながら──ひとつほど、お頼みしたいことがございます」

 男は咳払いを一つ挟むと、より芝居がかった声を発した。

「単刀直入に申し上げますと……私に時空を操るすべを与えていただきたい」


《ほう──時空を》


 邪悪な神の映る鏡に、蜘蛛の巣のようなひびが入る。ピシリと緊張感のある音が迸り、いくらか小さな欠片が飛び散った。


《貴様──立場を心得ておらんようだな──》


 鏡から生臭い匂いと、ピリピリと肌を焼くような瘴気が立ち込める。


《世界の秩序に土足で踏み込むか。頭のかさは増えたというのに、はばかりやへりくだりは進化の半ばで捨ててきたようだな》


 鏡から溢れるどす黒い気配で、目を開けていることすらままならなくなってくる。今すぐにでも、鏡の奥から現れたモノが私たちを吹き飛ばし赤い肉の破片にしてしまうのではないか。

 私は総毛立つ恐怖で失神しそうになるが、仮面の男は態度を崩さない。


「お言葉ですが、閣下」

 男は白いブリーフ一丁で、身じろぎ一つせず反駁する。

「身に余るわざを成さんと企むことが罪ならば、私はすでに大罪人でございます。何せ、貴方を呼びつけた挙げ句、この身を恥ずかしげもなく晒しているのですから」

 男はニヤリと笑う。

「ですから……今更でしょう?私の無礼を糾すなら、貴方は呼ばれてすぐ私を殺すのが筋というもの」


 鏡に映る何かは、身体を震わせた。ついに逆鱗に触れたか、と思ったが、どうやらそうでもないらしい。邪悪な気配はいくらか収まっていく。


《文字通り……神をも恐れぬというのだな──せいぜい好きにするが良い。その胆力に免じて、この宇宙くらいは明け渡してやろう》


「幸甚に存じます、我が神よ」

 仮面の男は再度頭を下げた。


《脅すようなことを言ったが──ヒト如きに無闇矢鱈と力を振るうことはせん。だが──次に喚ぶなら、相応の饗しをせよ。非礼には報いるのが神だ》


 言葉のような音だけを残すと、映っていたものが消え去る。大きな鏡は、私と男を映すただの板に戻った。でも刻まれたヒビはそのままで、さっきまでの出来事が白昼夢ではないことを物語っている。


 はっと私は我に返る。そうだ。さっきまでのやりとりがジョークでもペテンでもないのなら、この男は私にとって……いや、この宇宙にとって脅威だ。時空を操るほど強大な力を持った男にこの世界の命運は掌握されていて、それを知るのは広大な宇宙でただひとり。この狭隘な密室に居合わせた自分しかいない。


 口を開き、カラカラに乾いた喉から声を振り絞る。

「その、時を操る術で……いったい、何をするつもりですか」


 男はゆっくりと振り返り、仮面の奥の目を光らせながら語った。


「決まっている。時間停止モノを撮るんだ」

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