宿題と格闘家と私
しらす
宿題と格闘家と私
8月30日の朝が来た。夏休みが終わる1日前だ。
今日から明日の深夜までの48時間が正念場。いやもう朝の8時だから40時間か。
座禅を組んで目を閉じた私、
「この私を倒せるものなら倒してみるがいい、宿題よ!」
カッ、と目を見開く。視界に広がるのは積み上げられた課題の冊子とノートの山だ。
手近な一冊をつまみ上げて表紙を捲ると、最初の1ページは黒い鉛筆の字で埋まっていた。しかし2枚も捲れば果てなく白いページが続く。まるで一面の銀世界だ。
はて、今は夏ではなかったろうか、と首を捻る。夏休みだと思ってたけど実は冬休みだったんだろうか。それにしては暑い。窓の外ではセミがやかましく鳴いている。
ミンミンミンミン、みんみんみんみん、眠眠眠眠。ああ眠気が。
「バカな事言ってないでちゃっちゃと始めなさい、咲子!」
「あたっ!」
びしぃっ、と脳天に衝撃が走った。母が私の頭を菜箸で突いたのだ。
うちの母はなぜか私の心の声が聞こえるらしい。実は真剣にエスパーではないかと疑っているのだが、本人にそう言うと海よりも深い溜息を吐かれてしまう。
あんたの考える事なんて聞くまでもない、というのが母の言い分だ。ちなみに居間の卓袱台に座らされているのも、自室に籠ったら永久に宿題に手を付けないだろう、という母の予言のせいだ。
ありえるな、と自分でも思うだけに反論できない。
ともあれまずはワーク類だ。現文古文漢文ちんぷんかんぷん、数Ⅰ数A数Ⅱ数B英語生物日本史世界史公民地理ペッパー。こうして見ると明日の夜までには終わらない気がしてくる。
だがここで折れるわけにはいかない。うちの高校は就職率が高いと言っても一応進学校だ。課題を終わらせずに提出しても終わるまで再提出を食らう。
なのでやるしかないのだが、この真っ白な紙の山は気が重い。明日には腱鞘炎になっている気がする。
腱鞘炎ってケン・ショウエンって格闘家の名前みたいでカッコいいな。そう、明日の私はケン・ショウエン! 山と積まれた宿題を討ち果たし、飽くなきチャレンジを続ける格闘家だ。
「お昼ごはん、食べたくない?」
「食べたいです」
にっこり笑って宿題の山を指さす母に、私は慌ててシャープペンシルを握った。
胃袋を握る者はどこへ行っても世界チャンピオンである。
ようやくワークの山を半分ほど片付けた頃には、とっぷりと日が暮れていた。
時計の針は午後10時。食事と入浴以外の時間を全て費やしたためか、目が疲れて来た。今日はこれが限界か。
マイマザーにより自室に戻る事を許された私は、ふらふらとベッドに倒れ込む。ああ気持ちいい。私を慰めてくれるのはお前だけだよオフトゥン。
それにしても宿題の処理状況は思ったほど芳しくなかった。実はもう一つ難題があって、家庭科でエプロンを縫って来いと言われている。しかし私は裁縫が苦手なのだ。
ああ、やっぱり手伝いが欲しい。
友人達に頼むとお喋りばかりで進まないから、とこれまた母の大予言により孤独な戦いを強いられているが、このままでは明日の夜までに間に合うか心配だ。
そう思いながら頭を枕に預けると、あっという間に眠り込んでしまった。
「なぁ、おいあんた」
何やら聞き慣れない声で呼ばれ、体をゆさゆさと揺すられて目が覚めた。
ベッドに寝ていた筈なのに、いつの間にか固い床に転がっている。
おかしいな、と思いながら目を開けると、ふと視線が絡み合った。寝ている私のすぐ前に、若い男の顔がある。
「あんた、誰?」
ぱっと起き上がった私は、咄嗟に頭の上に手をやった。しかし無い。いつも寝る時はそこに置いているはずの、スマホが無い。
「やっと起きたか。ん、何してんだ?」
「ちょっと待ってね、今通報するから。それ以上動いちゃだめよ、今なら未遂で済むし」
「は? 待て何の話だ」
「とぼけなくていいわよ。夜這いって言うんだっけ? 海野のおばちゃんから聞いたことあるわ」
「いや誰だよ海野のおばちゃん」
「うちの母のお姉さん。学生時代に深夜泥棒に入った男と意気投合して結婚した天野家のレジェンドよ」
何やらしつこく質問してくる男に適当に返事しながら、私は四つん這いでスマホを探した。動くなと言ったのに、男は私から離れて床に座った。
「面白い親戚が居るんだな。けどそりゃ普通に犯罪だろ」
「分かってるなら話が早いわ、動かないでね。私も初夜はちゃんと恋とかしてからがいいし」
「全面的に同意するから落ち着いてくれ。とりあえず周りをよく見ろ」
言われて私はふと、顔を上げて周囲を見回した。
目に入るのは白い壁、白い天井、白い照明。
単身用の狭いアパートのような部屋だった。窓もドアも無く、部屋の真ん中に卓袱台がぽつんと一つ。
卓袱台の上には何かが山と積まれているが、それ以外には何もない。
「何ここ……」
「知らん。俺も目が覚めたらここに居たんだ」
「ちょっと待って。あんたホントに誰なの?」
改めて私を起こした男を見た。妙に四角い印象の頭は丸刈りで、白いTシャツの袖から覗く腕は筋肉モリモリだ。日焼けしているのか肌は浅黒い。
座っているから分かりにくいけど、かなり体格も良さそうだ。格闘家か何かだろうか。
しかしこんな出口のない部屋で二人きりになるなら、もっと華奢なイケメンが良かった。
どことなく機嫌の悪そうな厳つい顔を見返しながら、ついそんな事を思う。
「マツエタケシだ」
どうやらエスパーではなさそうな男は、卓袱台の上の紙を引っ張り出すと名前を書いた。マツエは「松江」、タケシは「健」と書くらしい。
つまり「ショウエ・ケン」か。ん、待てよ?
「あなたが噂のケン・ショウエン!?」
「どこの噂の誰だよ」
「私の脳内有名人トップ1の一人よ。まさか本人に会えるなんて! 握手してもらっていい?」
「一人しかいないのにトップもアンダーもないだろ……」
彼は呆れたような顔をしながらも、律儀に手を差し出した。前言撤回、割といい男だ。
「いいこと教えてあげる!私のバストもトップとアンダーがほぼ一緒よ!」
「ああ、まぁ見りゃ分かる……ってあんたの脳ミソどうなってんだ。落ち着いてんのか倒錯してんのかはっきりしてくれ」
「大丈夫、そろそろヤバイ気はしてきた。ここドコだろ?」
「よく分からんが、これに見覚えは無いか?」
そう言うと、松江健は卓袱台の上を指さした。山と積まれた何かは、よく見れば見覚えがあるものだ。
「あら、私の宿題だわ。終わってないやつ」
何でここにこんな物が、と思いつつそう言うと、松江健の顔が引きつった。
「は? 宿題って夏休みのか? あんた今日何日だと思ってる?」
「失礼ね、日にちくらい分かるわよ。今日は8月30日の夜!もう31日になってるかもだけど」
「開き直ってんじゃねぇよ! これあれだろ、終わらせるまで出られないやつだろ!?」
「ずいぶんファンタジックな妄想ねぇ」
「あんたの頭より現実的だ! よく見ろ、時計止まってるだろ」
言われて初めて、壁に時計が下がっている事に気が付いた。確かに秒針が動いていない。
時刻はきっちり12時を指している。
つまり31日が始まる直前で、私はこの部屋に飛ばされて時を止められたらしい。
部屋の中には他にこれと言って目につくものは無いし、スマホもテレビも無い。という事は本当に、これを仕上げないと出られないのか。
しかしワーク類はまだ半分、最難関のエプロン縫いが丸々残っている状況だ。
不思議と疲れは取れているけど、量的に終わるまであと1日はかかる。
どうしたものか、と腕組みしていると、松江健に肩を叩かれた。
「おい」
「何?」
「半分寄越せ」
「私の人生!?」
「なわけないだろ!」
「じゃあ私の体!? うそ、そんな人だったの!?」
「要るかそんなもん!! 宿題手伝ってやるって言ってんだ!!」
「えっ……やってくれるの?」
松江健は両目を吊り上げ悪鬼のごとき形相になっている。でも言っている事はその真逆だ。
ギャップ萌え狙いだろうか?その手には乗らないぞ。
でも手伝ってくれると言うのは非常に助かる。格闘家から神に昇格させてもいい。
「仕方ないだろ、終わるまで何時間掛かるか分かんねぇのに、ぼーっと待ってんのもだるいし」
ほら、寄越せと顎をしゃくられて、私はしばし考えてから、裁縫セットと布を渡した。
「何だこれ?」
「エプロン作るんだけど、私裁縫が苦手なの。頼めない?」
「ああ、これも宿題か。型紙がこれなら一周縫って紐通すだけだろ、すぐ終わるぞ」
「何と頼もしい!よろしくお願いしますケン・ショウエン!」
「頼むからせめて健って呼んでくれ」
「ありがとうございます、マイゴッド健」
「いいからもう手を動かせ」
素っ気なく言うと、健はさっさと作業に取り掛かった。
私は極力早くワークを片づけようと、自己採点用の回答集を引っ張り出した。
本来なら答え合わせに使う物だけど、時間が止まっているとは言え健を丸一日付き合わせるわけにはいかない。こうなったらバレない程度に答えを写していくだけだ。
幸い解以外が必要な科目は昨日のうちに終わらせた。残りは空欄を埋めるだけでいいものばかりだ。
必死に手を動かしていると、隣で健の腕が規則的に動くのがチラチラと目に入った。
すぐ終わる、というのは誇張でも何でもなかったらしい。指貫を嵌めた太い指は、何の迷いもなくスッスッと布を刺していく。
今脇腹をつついたら縫い目が狂ったりしないかな、と好奇心に駆られたが、ギリギリのところで自分を抑えた。
ミシンを使わず手縫いで作れと言うこの課題は一番気が重かったのだ。それを代わりにやってくれる神様に無体は許されない。断じて。
無言の時間がどれくらい流れたのか。
気が付くとワークの最後の1ページに辿り着いていた。
あっ、と思って顔を上げると、目の前にずいっとエプロンが差し出された。
「お疲れさん。これで終わりだな」
心なしか嬉しそうに笑った健に、私も思わず笑い返した。
受け取ったエプロンはぴったりで、縫い目も真っすぐで綺麗だ。時間が余った、と言って残り布でポケットまで付けられている。神様にも程がある。
「うわーっ、ホントにすごい! 助かったよありがとう健!!」
「いいんだよ。……実は俺も、宿題やってないんだ」
「へ? ってことは健も大変じゃない。手伝おうか?」
いきなりの告白に、私はしばし固まった。やっと終わったと思ったのに、これから更なる試練に叩き込まれるのか。
もしや運命の女神はそのために私達を引き合わせたのか、と天を仰いでいると、健は乾いた笑い声を立てた。
「心配すんな。引っ越しのどさくさに紛れた振りして捨てたんだ」
「お主もワルよのぅ」
「だな。色々どうでもよくなって、ついな。俺の親、昔っから喧嘩ばっかりだったけど、とうとう離婚する事になってさ」
「え、この夏に?」
「そ。もう高3の夏だぜ。あと半年で卒業だってのに、転校させられるんだ」
「それは……めんどくさいね」
「だろ?それなら就職するって言ったら、親の責任として大学までは行かせる、とか言い出すんだぜ。そう思うならあと半年我慢してくれりゃ良かったのに」
そう言って口元で笑いながら、健はすうっと目を細めた。格闘家のようなでっかい体を丸めて膝を抱えるその姿は、さながら大きめのダンゴムシだ。
「ねぇ健」
「何だ」
「親は選べないけどさ、自分の家族は選べるじゃん。高校生活だってあと半年だし、これからは自分の家族をどうしたいか考えたらいいんじゃない?」
「……それもそうかもな」
「そうだよ。人生は自分次第でバラ色よ。なんなら私も手伝うし」
「あんたに手伝われた日には無駄な苦労が増えそうだけどな。まぁ、悩みは少し減る気がするが」
「でしょ?考えておいてよ」
励ますつもりで肩を叩くと、健は私に手を差し出してきた。ああ、握手か、と思って手を伸ばしかけたところで、ぷつりと意識が途切れた。
目を覚ました時には、宿題はちゃんと終わって机の上に並んでいた。
翌々日には新学期の朝が来た。新しい朝、希望の朝だ。
転校生を紹介する、と担任が宣言した。
こんな時期にか、と一気にざわつく教室に入って来たのは、見覚えのある格闘家のような男だった。
目が合うなりつかつかとこちらへ歩いて来た彼は、私に手を差し出すとこう言い放った。
「おい、あんた。まず名前教えてくれ」
宿題と格闘家と私 しらす @toki_t
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