祖母と海

ふさふさしっぽ

祖母と海

 祖母が自宅で転んでケガをしたと、病院から連絡があったのは、明日香あすかがエビのアヒージョをつつきながら音楽番組を観ている最中だった。


 金曜の午後八時。夕食のお供にワインをたらふく飲んだ母は、病院からの急な連絡にしどろもどろになっていた。


「ねえ、おばあちゃん、どうしたの?」


 おろおろする母を見守っていた明日香は通話を終えてスマートフォンを置いた母に問うた。中学三年生の明日香にとって、母方の祖母はちょっと苦手な存在である。


「おばあちゃんね、家の階段で転んで足を挫いて入院しちゃったのよ。明日、お見舞いに行かなきゃ。あんたも来なさい」


「おばあちゃん、大丈夫なの」


「幸い、大したことないって。でも歳が歳だから二週間ぐらいは入院するって」


 明日香はそれを聞いてお見舞いか、ちょっと面倒だな、と思った。しかしすぐに自分の薄情さに恥ずかしくなった。明日は学校は休みだし、何の予定もない。それになにより、祖母には小さいころから大分お世話になっている。見舞いに行かないわけにはいかない。




 次の日の午後、明日香は母と横浜の病院へ見舞いに行った。祖母は明日香が思ったより元気そうだった。いつものとおり、口をへの字に曲げて、不満そうな顔をしている。「人を年より扱いして」「早く家に帰しておくれ」と何度も母に文句を言っていた。


 当の母は、祖母の理不尽な文句を根気よくうん、うんと聞いている。いや多分聞いてはいないんだろうと明日香は思った。


「それでね、お母さん、前からちょっと思ってたことなんだけど、今回のこともあるし、私たちの家で一緒に住まない?」


 延々と続きそうな祖母の恨み節を無理やり遮り、母は今日の本題に入った。このことについて明日香は昨日母と話し合ったのだが、いざ祖母にその話が切り出されると心なしか緊張してしまう。


 そして。


 祖母はきっぱりと「あの家を離れるつもりはない」と言った。




 追い払われるように病院を後にした母娘は、横浜駅で今日の夕飯のシュウマイ弁当を買い(明日香は炒飯弁当にした)帰路についた。


 祖母は結婚してからずっと、横浜に住んでいる。海沿いで、明日香が生まれる前に亡くなった祖父と海苔を作って生活していた。


 生まれは貧乏で結婚してからもずっと貧乏で、苦労だらけで、海の匂いが大嫌いだと祖母は口癖のように言う。とくに姑は女一人しか産めなかった祖母に対して冷たく、祖母だけではなく自分もいじめられたと、母も言っている。理不尽な理由で散々いびられたらしく、その話が始まると祖母の話はたっぷり一時間は続き、明日香はうんざりしていた。


 仕事と子育て、それに姑と舅の世話で自分の時間なんて一切なかった。嫁は身分が一番下で、なんでも男の人が先。こんな家にいい思い出なんて一つもありゃしない。


 そういった話を聞く度、明日香は男女平等の今の時代に生まれてよかったと心底思っていた。自分だったら耐えられない、それじゃあ祖母の人生とは一体なんだったのだろうと同情もした。しかしその一方で、今は姑も祖父も亡くなって自由なのになぜ自分の家にこだわるんだろうと、不思議に感じていた。大嫌いな海の匂いがする家から、離れるつもりはないと言っていた。


 だけど明日香はその疑問を大人には口にしなかった。幼稚な質問のような気がしたのだ。なぜだかは分からないけれど。


 それは聞かないお約束、とでもいうのだろうか。ただ漠然とそう感じるものの、その理由を今の明日香にはうまく説明できなかった。




 日曜日はまだ寝ている母を残して、学校の女友達とショッピングに出かけた。二人とも受験生の身分だが、目指す高校は今の成績で十分合格圏内なので、気楽なものだった。


 何を買うわけでもなく雑貨屋をブラブラしたあと、ハンバーガーショップへ入った。明日香はチーズバーガーを頬張りながらなんとなく、友人に昨日のことを話した。


「本当、頑固なお祖母ちゃんには困っちゃうよ」


「あはは。お年寄りって、そういうとこあるよね」


 友人は、ジュースをストローでかき混ぜながら言った。細かい氷がしゃらしゃら鳴る。そして、心底感心した顔で


「明日香はいろいろ考えててえらいなあ。自分のことしか考えてない私には絶対無理。今日夕食当番なんでしょ? すごいよ」


 と言った。


「あ、うん。いや、すごいって言われても」


「すごいよ。私だったら投げ出しちゃう」


 その後友人とショッピングモールを歩いて、本屋に寄って二人ともコミックを買って駅で別れた。


 家に帰る途中、スーパーに寄り、今日の夕飯の材料を買った。今日はハンバーグにするつもりだ。フルタイムで働く母に代わり、自分が休日の日の夕飯は自分が作る……中学に入学したときに、明日香が自ら母に言いだしたことだった。


 正直面倒くさいと思うときもしょっちゅうだが、母を助けない訳にはいかない。


 私には絶対無理、って、何? 私だって好きでやってるわけじゃないんだけど。


 友人が放った言葉に対して、明日香の中には怒りが渦巻いていた。もちろん、友人に悪気がないことは分かっている。だけど、とても嫌な気持ちだ。




 明日香の両親は明日香が小学校六年生の時に離婚しており、それ以後、明日香は父親に会っていない。それまでは酒癖の悪い父親の暴力が原因で、明日香は度々祖母の家に「避難」させてもらっていた。


 友人は同じ小学校なので、明日香の家庭事情を知っている。それを思いやっての「えらい」「すごい」という発言なのだろうと明日香は理解している。


 明日香自身、なぜ自分には優しいお父さんがいないのかと、自分の境遇に不満を持ったことはある。数えきれないほどある。けれど「私には絶対無理」などと友人に言われる筋合いはない、私のすべてを知っているわけではないのに……と明日香はひき肉を手に取りながら強く思った。そしてあ、と気が付いた。




 私もおばあちゃんの人生をそんなふうに思っていた。


 今の時代に生まれて良かった。私だったら耐えられない。


 見下していた!




「なんか、今日のハンバーグ、焦げてるね。おいしいけど」


 母との二人の夕食時間。休日とはいえ、午後はパソコンとにらみ合って仕事の残りをこなしていた母は、疲れから解放されたようにハンバーグを頬張っていた。


「ねえ、お母さん」


 意を決して、ハンバーグを焼いている最中もずっと考えていたことを、明日香は母に言った。


「私が、おばあちゃんの家で、おばあちゃんと一緒に住む」




 自分の部屋のミニテーブルで頬杖をつきながら、明日香はぼんやりしていた。明日香なりに考えての発言だったが、母はぽかんとしていた。明日香の提案は想定外だったようだ。祖母の家からなら明日香が受験する高校は電車で一時間くらいだ。通えない距離ではない。いい案だと明日香は思っていたのだが、母は困惑した顔をした。だけどどこか嬉しそうにしていたようにも思える。結局、この話は祖母が退院してからまた改めてということになった。


 嫌な思い出しかない家でも、祖母が今まで生きてきた「家」である。祖母はあの、海が見える家で生きてきたのだ。誰かがそれに対してああだ、こうだというべきじゃない。


 明日香は自分の中でうまくまとめられないけれど、そんなふうに思っていた。




 二週間後、祖母が退院した。杖をつくでもなく、背筋をピンと伸ばして、いつも通り口をへの字に曲げていた。


 驚くことに、結局、祖母は母の家での同居を承諾した。


 あんなに自分の家を離れることを嫌がっていたのに、一体どうしたことかと明日香が不思議に思っていると、母がそっと耳打ちしてくれた。


 明日香の提案をおばあちゃんに言ったら、少し考えこんで、あっさり意見を変えたのよ。孫には弱いのね。


 そう言われても、明日香にはよく分からなかった。


 とにかく、もうすぐしたら母と祖母の三人の暮らしになる、ということだけは確かだった。母はきっとお酒の量を少し減らさなけらばならないだろう。祖母は、飲みすぎにはうるさい質だ。それを考えると笑いが込み上げてくる明日香だった。

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